日本史探偵団文庫
西園寺公望「懐旧談」
入力者 大山格
 
 
底本は国木田独歩編『陶庵随筆』新潮文庫 昭和一八年版である。
 
西園寺公望「懐舊談」         國木田獨歩編

   (一)

何か懐舊談とでも題して維新前後の事か何か私の記憶に存してをることを話して呉れといふことですが、私は實は此の懐舊談或は昔語り、又は自敍傳隨筆といふやうな自分で自分の過去の事を話したり書いたりする程の事がないからでもありませうか、夫はともかくも全體故人の遺したさういふ類のものを見るに、和漢洋に論なくとかく虚飾の話がまじつて俗にいふ手前味噌になつてをるのが多いです、故に一面に甚だ面白く感ずると同時に一面に於ては嫌氣のさすものです、私は今まで自分で自分の事をいふのはなんだか恥かしいやうな心持がしてたび〳〵さういふ依頼を受けましたけれども盡く斷りました、また自分でも書きかけて見たこともありましたけれども、それもすぐ止めてしまいました、さういふ譯で、また一方からいふと維新前後聊か私も國事に關はらぬでもなかつたのですが、まだ極く少年であつて、維新になつた時が漸く十九歳です、その眞相を穿つとか、實際斯うであつたとかいふやうな事は、當時にあつても、實は解りも何にもしてゐやしないのです、故に自分では覺えてゐるやうに思つても、さて人に話をして見ようと思ふと思違ひがあつたり、順序が立たなかつたりして、纏めるには實は一朝一夕には無理です、又もう一つは、前から腹稿でもして置いたなら、多少當時の光景だけなりとも描く事が出來たかも知れませぬが、つい彼是して居つて、旁々餘り實のある話は出來ぬのです、甚だた
わひもないやうな事かも知れませぬが、頭に浮んで來ることをボツ〳〵お話してみようと思ひます、取捨は全くおまかせ申します。
何からドウいふ風に話して宜いか、チヨツト困りますが、私の小供心を刺戟した出來事といふものは、異人が來た、攘夷をせねばならぬ、といふ話は勿論でしたが、内裏炎上が抑の始まりで、この時は六歳でありました、それから京都の地震、彗星が見える、コロリが流行といふやうなこと、又林大學頭が開港を願ひに上京した、堀田が來た、間部が來た、青蓮院宮が幽閉せられる、公卿が落飾させられる、或は有志家が陸續捕へらるゝ、此時は私の家の家來も一人やられました、彦根閣老の要撃、酒井若狹守の檄文、公武一致の説、和宮御降嫁など、一々數へることは出來ませんが、是等の事が皆少年の頭を刺戟したのです。
それで、その時分の京都の状態といふものは、だん〳〵騒がしくなつて來て、私共がまだ十二三ぐらゐの小兒で、なんにも知らぬながらも頻りに慷慨して居るやうな次第で、たとへば稽古ごとでも、元來公卿の家では、中世以後の儀式的のことを多く學ぶのであつたが、そんなことを覺えた所が仕方がない、畢竟、そんな馬鹿なことをして居つたから、今日のやうな王室式微の状態になつたのだといふやうな考を起し、私の家は琵琶を彈く家であつて、今朝廷で行ふ伶人のやることなどを學ばなければならぬ家であつたが、私はそれが大變嫌ひであつて物心がついて日本外史のやうなものを讀むやうになると、いよ〳〵増長して、何でも王政復古になさなければならぬといふて力むでゐた、多少氣概でもあるやうな公卿は、
多くさういふやうな風潮に傾いて居ました。
全體京都には限らぬ、何處でもさうでしたらうが、此頃公卿の政見に關する黨派とでもいふやうなものを類別して見ると、第一勤王、これには王政復古がしたいといふものと、單に皇室の尊嚴をたもち、名分が正したいといふものとの二ツがあつたやうです、次が佐幕黨、これにも幕府を佐けて勤王をなさしむるといふのと、單に討幕黨に對するのとの二ツがあつたやうです、夫から攘夷です、この開國派は公卿には殆んどなかつたが、それでも二三人はあつたと覺えます、たしか四五年以前に薨去せられた醍醐侯爵なども、開國論者であつたと記憶します、さて京都の公卿に、佐幕黨があつたといふと、隨分變に聞えます、すぐ幕府の威力が怖いからであらうとか、或は鼻藥でも貰ふたからであらうとか聞えますが、勿論さういふのもあつたでせうが、必ずしも夫ばかりでもなかつたのです、聊か心あるに係はらず、佐幕を唱へた者があるのです、それは勿論長州征伐も始まらぬ先であつて、幕府の實力をしらぬからでもあつたでせうが、かういふ譯であつたのです、幕府が腐敗したとはいへ、要するに三百諸侯の上に立つて秩序を保つて居る、そこへ持つて來て、脱藩の青二才やら、有志家とかいふ亂暴ものやら、さういふ者が集まつて幕府を倒すといつた所が、それはなか〳〵行くものではない、一たびさういふことをして秩序を破つたならば、幕府だけは倒れるかも知れぬが、その幕府の倒れた後に朝廷の力を以て三百諸侯を駕御することは思ひも寄らぬ、たとひ一たび取つた所が、すぐまた頼朝とか家康とか來ればまだよいが、或はあとが天下の大亂になつて、人民長く塗炭の苦みを受るかも知れぬ、
苟も國を憂ふるものゝ實に寒心すべきであると、かういふことを正直に考へて居た者もあつたのです、要するに、社會の實勢を看破するの卓識がなかつたからなので、今日のある一派が、頻りに政黨を憎惡するのも、必ずしも爲めにするばかりでもないのと、同じやうなものでした。

   (二)

それから討幕といふ中にも、一向當時の幕府が、何處まで腐敗して居るのであるか、如何なることが弊害であるかいふやうなことは、能くも研究せず、また如何なる手段を以てやれば、その目的を成し遂げるかといふやうな畫策もなく、唯々梗概心に驅られて頻りに騒いで居たのもあつたのです、夫れから攘夷、これは前にも申した如く、二三人を除けば、公卿を舉げて攘夷家ならざるはなかつたのです、宗教のやうなものでありました、元來公卿の社會と云ふものは、御承知の通り少しも外へ出る事はならず、一小天地の内に棲息して居つた、漸く維新前になつて、各藩の士と交はつたのですが、それも今日の言葉を以ていへば、所謂かつぎに來るといふやうなのが上等の部で、中には難有やの坊主然としたやうな論で盛に神風の必ず吹くといふことを主張して居る有志家も見受けました、つまり狹い所に跼蹐として束縛されて居なければならぬのですから、交はらんと欲するも人なく、事へんと欲するも師なしといふ状態で、青年の者には堪へられなかつたのです、國家の存亡如何をさへ氣遣ふて居るといふ世の中に、いやそれは古格に背くとか、いやそれは先例があるとか無い
とか、些々たる事で以ていじめられたり、少しく危言を吐くと、直ちに古老の機嫌に障つたり、私の十二三の時に撃劍の稽古をはじめると、一月たゝぬ中に關白から書附がまはつた、近頃少年の公卿が劍術の稽古をするといふ評判がある、よくない止めたらよからうと、かういふ次第でありました。
當時大臣攝家を除いて、また役人即ち議奏傳奏を除いて、外の公卿といふものは、或る年齢まで小番と名づけて、それが六番に別つてあつて、月に四度か五度宮中に出て勤番宿直をしなければならぬ、大抵それが一日に十人ぐらゐ出る筈であるが、中には不參する者があつたりするから、多いときは七八人、少ないときは四五人ぐらゐのこともある、さうして番所が三つに分つて居つて、家によつて詰める所が決つて居つた、三つといふがその實二つであつて「内々」と名づける所と、「外樣」と名づける所とある、その中からまた選ばれて「御近習」と名づける所へ出るやうになる、内々へ勤める家と、外樣へ勤める家と、その二つは決つて居るが、その中から人選と云ふか何といふか、人を選んで近習といふのへ勤める、その近習へ勤めるのが聊か榮譽のやうな風になつて居つた、さて勤番するにも所謂相番なる者が好い人に出會したときはよいが、さうでない人に出會すと、漢文の書を讀んでも餘り機嫌が宜くない、彼奴は孔子みたやうな顏をしてゐるといふやうなことを直ぐ言はれる、さういふ風であつた、私の初めて勤番に出たのは十三の年であつて、私の家は外樣といふ方へ出る家であつたから、その方へ出て五六箇月も勤めて居る中に、今度は近習といふ方へ出ることになつた。
三條、岩倉なども矢張り近習であつて、一緒に宿直をしたこ
とも覺えて居ります、三條は宿直の時なども誠に行儀のよい人でありました、此小番がまづ我々の常務で、夫れから豐明の節會とか、白馬の節會とか、又は新嘗祭、或は臨時祭といふやうなことに出なければならぬのでした、かう云ふ次第であつて我々の生活は實に區々の小禮に拘泥してたわいのないもので、馬鹿げきつて事々物々が歎息の種であつて、自己の必要からいつても此社會に安んじて居ることは出來なかつたのです、そこで少年が言合せて建白をすると云ふやうなことをやつて見たり、どうで小兒輩のやることですから用ゐられる譯もなし、それがまた叱られる種になるといふやなことで、實に八方塞りといふ按排で苦しんで居たのです、はじめて西洋事情を讀んだ時などは、これは餘程たつてからではありましたが、かういふ天地に生れたならば、さぞ面白からうといふ感じを起したくらゐでした。

   (三)

中山忠光ですか……一番初めに脱走したこの人は、これも一緒に勤番した人であつて能く私は知つて居つた、丁度脱走した日が小番へ出る日であつて、その小番へ出ることについてチヨツト談がありますが、受取といふ者があつて、毎朝順番に一人づゝ早く出て引繼を受けることになつてゐる、前日の人は引繼を濟まして歸る、その中に當日勤番の者が出て來て、その日の人が揃ふといふ順序である、丁度その日私は受取の當番で、一人先に出て居ると、中山の不參屆を持つて來た、所がその不參屆は、今日は所勞によつて不參とか、或は斯う
いふ譯で今日は誰某を以て代番せしむるといふ理由附の屆でなければならぬのに、たゞ今日不參といふだけで、病氣とも何ともない、私はそれでも別段差支はなからうと思つて受取つておいた、すると後から外の者が出て來て、斯う云ふものを受取つてはならぬ、併し受取つて使は歸して仕舞つた、それはいかんから何とかしなければならぬと一場の波瀾が起つて大きに閉口したことがある、所が後になつて見ると、その日が丁度中山の脱走した日であつて成程脱走するとも書けなかつたから、たゞ不參と書いたものであらうと後に感じたことがあります、彼は私よりも年長で古い方であつたから、初めは隨分彼に虐められて酷い目に遭はされたけれども、後には幾分か交りが好くなつて、或る日詰らぬ小説本であるが二十册ばかり呉れた、變なことだと思つて居つたが、つまり脱走の遺品でありました、その本を存して置けば宜かつたのに、西洋へ行つて來る間に失して仕舞ひました。
それからあの七月の十七日の爆發のことですが……當時の宮中の光景もよく記憶して居ます、その日が私の養父の祥月命日であつて、その日は習慣で宮中を憚らねばならぬ、所がその前晩に大變八釜しいことになつて來て、私も宮中に詰めて居つたが、もう夜の十二時になると翌日になりますから遠慮をしなければならぬ、それで宅へ歸つて來た、私の家は蛤御門のつい近邊であつて、戰場の一つで、私の門の前には大分人が倒れたり何かして居つた、何でも朝であつたが、戰爭が始まつてブン〳〵屋根の上を鐵砲彈が飛んで行くやうな、それからこれは遠慮して居る場合でないと、直ちに服を改めて門から出ようとすると、戰場で出ることが出來ない、すると
私の家の裏の方に小さな公卿がゐる、その家の塀を破つて、そこを通して貰つて、東の方の日の御門といふのから漸く參内したのでした、どうもその時の混雜は非常であつて、それから 主上の御在になる所に詰めて居ると、ドーン〳〵砲火の音が聞える、そのうちに彼方此方から火の手が揚るといふやうなこと、その時に能く覺えて居るが、會津肥後守あれが京都の守護職で、大分兵隊を連れて居つた、私の家の前に、もと御花畑といつた廣い空地であつて、そこが御馬場といふものになつて居たが、そこへ陣取つて居つた、固より守護職のことですから、それが常の御殿の前へ向けて警衞に出るといふときに、混雜の中で、その間に中門が閉つて居て行かれない、その時に確とは記憶しませぬが、柳原光愛といふ人であつたと思ふ、なに構はぬ破れと云ので、皆中門を破つて這入つて來た、誰も號令を掛けたことなどは知らぬものですから、直ぐに解りはしたが一時は大に驚いて鬨の聲を揚げたやうなことを私は覺えて居る、夫から肥後守が御階の一番下の段に腰を掛けて辨當をつかつて居たのも歴々眼に殘つて居ます。
その時に淀藩が、これはドウいふ譯であつたか、その中で白鷺を獻上するといつて確か其翌日であつた、まだ京都の町はドン〳〵燒けて居る時に何でも大きな籠に白鷺を十羽か二十羽入れて獻上した、すると此中へ白鷺など持つて來て怪しからんといふ者もあつたが、併しこれは御覽には入れなければならぬといふので御覽に入れた、そこで御沙汰によつてかドウか是もしらぬが、その白鷺を皆な籠から出して放して仕舞ふた、所がその騒動の中で欄干に佇つたり方々の縁先に止つ
て居つたりして、よく馴れて居て頗る奇觀であつた事もまだ目に殘つて居ます、此の時が私の十六の時でした。

   (四)

慶応三年の十二月と思ひます、日は記憶しませんが午餐して居る處へ突然御用召といふことであつた、それから出た所が參與といふものに命ぜられた、その時分は議定といふものと參與と二つあつた、その時始めて政府に這入つたものだから、夫までは所謂暗中に模索して居た天下の形勢が大分解つたやうな心持がしました、岩倉其他よりも色々それまでの苦心を聞きました、此時分に議定とか參與とかいふ人は、多くは有志家の自動的であつたが、私は全く受動で以て此職に就いたのです、これから私が山陰道へ出張するまで、誠に短い間でしたが、頭に浮んで來る事は澤山にあります、岩倉と容堂の舌戰、大久保市藏と後藤象次郎との爭議、または尾越が内意を受け大阪城に往た時の復命、慶喜採用如何の三條岩倉反對主張など、其他にも私は現に其席に列して居ましたから、當時の光景がなほ眼前に髣髴として居ます、さうして世間傳ふる處とは、事實甚だ異つて居る事もあります、しかし右等の事は他日猶よく調べてから御話しませう、萬一誤りを傳へては死者に對しても後世に對しても濟みませんから。
伏見に戰端が開けたとの報が宮中に達した、すると其藩から出て居た參與の某々が、戰爭が始まつたらこれは私鬪にしてお仕舞なさい、然らざれば他日朝廷のために如何なる憂を遺すかも知れませんといつた、その時私は言下に、此戰を以て
私鬪とするが如きことあらば、天下の大事去るといつた、所が岩倉が側に居つて思はず知らず、小僧能く見た、この戰を私鬪にしてはどうもならん哩……と叫んだ、全體岩倉といふ人は其頃は嚴々格々といふ事を口癖にいふて、言葉遣ひなど切口上で以て、小僧には相違ないが同席に向つて殊に斯の如き席上にて小僧などとは決して言はぬ人であつた、其時はよほど嬉しかつたと見える、實は此場合は油斷のならぬ刹那であつて、隨分アントリーグもあつた時です、私も賛成を得てホツと息を吐いたことを覺えて居ます。
その時分に諸藩から出て參與になつた所の彼の大久保市藏、後藤象次郎といふやうな連中、幾人程であつたか、一日拜謁仰附られるといふことであつて、今上陛下は勿論まだ御幼少で、その時分の藩士のことですから、小御所の庭へ大きな坐を設けてその上で階下から拜するといふことになつた、それから私は嚴ましくいふて、天下の大事を議する所謂國家の柱石ともなるべき人を庭へ坐らせて拜謁させるとは何事であると爭つたけれども、ナカ〳〵その議論は通らなかつた、すると或る人が側に居つて、さうすると西園寺さんの説では大久保大納言とか後藤中納言とでもなさるお積りかといふから、無論のことである、人材を登用するためには大久保太政大臣、後藤右大臣といふやうな者が續々出來なければならぬ、古格に泥んでゐるやうでは迚も天下の事は出來ないと言つたが、一向その議論に耳を借す人もなかつた。
談は少し前に戻りますが、丁度伏見の戰爭の始まる前に、今の徳川公爵であるが、二條の城に居つて彼處で政治を執つて居つた、所がさういふ風に切迫して來て、イツ何時爆發する
か知れぬとなつたものですから、急に二條の城から大阪へ引上げた、その跡を吉井幸助といふ人と私と二人で見に行かうといふので、二條の城へ見に行つたことがある、確かに引上げの翌日と記憶して居る、假屋が澤山建つてあつて、いろ〳〵な物が散亂してゐる、いかにも倉皇として引上た有樣が見えて居つた、それから假屋の縁を傳ふてズツと先の方へ行くと、疉の上に血汐が一杯溢れて居つて、吉井幸助がこれは忌々しいものだといつて顰蹙したことを覺えて居るが、それは何か諫言をしたが聽れないで割腹した跡だと聞きました、人の名は聞きましたが忘れてしまいました、その時に西洋鞭の持つ所が鹿の足の形に出來て居るのが掛けてあつた事まで目に殘つて居る。
少し話が飛びますが、その後越後の戰爭が濟んで、會津侯の歸順が叶つて、城明渡が濟んだその後であつたが、正親町と私と、私は越後口から行つて居り、正親町は白河口から行つて居つた、今の伯爵の養父です、それとモウ一人、今の貴族院議員の渡邊男爵ではなかつたかと思ふ、違ふかもしれぬ、三人で會津の城の落ちた後へ這入つて見た、その時なども屍骸が澤山庭の砂を掘返して、その中へ埋めてある、米俵を積んで砲丸を防禦したのが其儘あるといふやうなことで、慘状を極めてをつた、それからその前まだ城の落ちない時に、段々城下まで迫つて行つて、私は藩士の家か何か知らぬが、一軒横領して居つた、何んでも一週間程そこに居つたと思つて居りますが、どうも井戸の水が變な臭氣がして困るけれども、外に水がないものですからそれを飮んで居た、所が日に増し臭氣が甚い、仕方がないから井戸替をしたらよからうといふ
ので、皆寄つて井戸替を遣りかけると屍骸が上つた、また遣るとまた上つた、トウ〳〵五つばかり出した、その水を一週間ばかり飮んで居つたのです。

   (五)

さて俗に二度あることは三度あるといふが、私が佛蘭西へ行つて始めて巴里に這入た時は、コンミユンヌ内亂の時であつて、コンミユンヌが巴里を占領して居つてナポレオン帝の住居して居つた處の宮殿を錢を取つて見せて居ました、私も這入つて見たが、勿論二條城、會津城とは譯が違ふが、人をして無限の感慨を起さしめた處は矢張り同じ事でありました。
私が參與になつて間もなくでありましたが、西洋へ留學がしたいといふ事を言出した、丁度その時偶然にも、仁和寺宮樣竝に五條孝榮といふ人が同じく言出したと思ひます、他にも有つたかは知りませんが、併し此五條と云ふ人は終に行かなかつたやうです、然るに伏見鳥羽の戰爭がはじまる、引續いて越後の軍に行くといふやうな事で、私の洋行は明治三年まで延びました。
何故に山陰道へ出たか……これは御尤な疑問です、かういふ譯であつたのです、元來昔から京都で敵を防ぎて勝つた例がない、是は頼山陽などの説から來たやうです、いつも 天子樣は叡山へ難を避け給ふたが、叡山は地の利を得ない、よつて萬一の事があつたら西の方へ行つて、彼の明智光秀の上つて來たといふ老ノ坂から丹波の方へ出て龜山の城を乘取つて、丹波の方で防がう、それから山陰道をズツと從へて長州と手
を合する事にしようといふ相談がきまつたのです、蓋し眞に樞機を握つて居た人々には別に見る處があつたかも知りませんが、兔も角も萬一の時は山陰道の方へ御遷坐を願はうといふ覺悟であつた、そこで私は伏見の戰が始まると直ぐ山陰道鎭撫總督といふものになつて、何でも長州と薩州の兵隊を大勢引連れて丹波の方へ行きました、その日に老ノ坂を越えて馬路村といふ所へ行つて陣取つた、それから何處から持つて來たか知れぬが、薩人が妙な野戰砲みたやうなものを二つばかり持つて來て、車も何もないから牛車の上か何かへ載せて、龜山の城の方へ向けると大騒動が始まつて、直に降參といふやうなことになつた、無論初めから朝廷に反對する考もなかつたでせうし、降參といふのは少し無理ですがさう言つて居ました、其時龜山から我陣所へ使者が何かに來たものがある、それが此方より取次に出た者を見ると、以前龜山の城下で按摩をしてゐた者であつたとかいふことで、そこで大いに驚いて按摩の探索が這入つてゐるやうでは、もうスツカリ手が廻つて居るに相違ないといつて大きに狼狽へたといふ滑稽談がある、それは後に聞いた話です。
さうする中に、伏見の戰は官軍が勝つて、將軍は大阪から船に乘つて江戸へ歸つたといふやうなわけであつたから、以上の畫策は用をなさなかつた、それだから私は三丹因伯を廻つて、天ノ橋立もその時に始めて見た、トウ〳〵出雲の大社まで行つて、あれから引返して來た、丁度三月頃に 主上の大阪行幸といふことがあつて大阪で拜謁をして復命をしたのです。
その後一ヶ月を隔てゝ五月になつて越後の方が大分八釜しい
といふので、私は會津征討越後口總督(後に仁和寺宮樣が御出になつて、私は大參謀といふのになりました)といふのになつて、北越に向つて進發したのです、色々頭に浮んでくる事はありますが、今は是までにいたして置きます。

   ○

左に侯が口吟中、編者の記憶に存するものゝ中より其四五を掲ぐ。
 梅ひとつふたつ一日二日哉
 梅の咲くあたりを庵の恵方哉
 るすの戸の御慶を梅に申けり
 初春やなにゝ添へても梅の花
 一枝は梅も手折りてねの日哉
 水に月にさては雪にも梅の花
 小流のこゝにもほしき野梅哉
 留守にして今年も返す土用哉
 冷し汁酒も井戸からあげに鳬
 夕顏に見殘されけり二日月
 提げて居る籠にも蟲の高音哉
 高汐に磯の踊りの崩れけり

左は侯が維新前の作の由、友人間に傳はれるものなり。
 宵につめりしみのつめかたの
     月もうすらぐ朝わかれ
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