日本史探偵団文庫『元帥公爵大山嚴』
第二章 生立と立志
 
 
誕生      第二章 生立と立志

 元帥が人材の藪淵たる麑城下加治屋方限に呱々の聲を擧げたのは、人皇第百二十代仁孝天皇の御宇、即ち薩藩第二十七代の太守島津斉興公知政の第三十四年なる天保十三年十月十日であつた。幼名は岩次郎、後ち彌介と稱し、更に淸海、岩、又た巌と改め、赫山と號した。
 詩經に「節たる彼の南山、維れ石巖々たり、赫々たる師尹、民倶に爾を膽る」とあるに取つて赫山と號したのだと云はれ、又日淸戰爭當時、金州に滞陣中、其處の大和尚山即ち赫山の風景を愛して號したのだとも言はれてゐる。
 當時幕府に於ては、第十二代家慶將軍が、彼の大御所時代と謳はれたる前代家斉將軍時代の奢侈驕怠、財政窮乏、士風頽廢の極に達したる餘弊を釐革せんが爲に、水野越前守忠邦を抜擢して老中に任じ、勤倹尚武の政令を布き、劇場遊郭の取締りを嚴にし、淫猥小説の販賣を禁示する等、壊亂せる風俗の挽回に力め、二宮金次郎を普請役格に登庸するなど、鋭意民治を圖りつゝあつた頃であつた。又隣邦支那に於ては、英國と戰を交へて廣東を攻略せられ、爲に我國に於ても外寇に關して頗る警戒する所あり、水戸藩の如きは梵鐘を毀ちて大砲を鑄造するなど、大に世の耳目を聳動せしめた頃であつた。薩藩に於ては、第十一代家斉將軍の岳父として、飛ぶ鳥をも落とす勢ありたる第二十五代の太守重豪公の都化政策の結果たる財政窮乏の後を承けて、第二十七代の太守の斉興公が國老調所笑左衞門廣鄕に命じ、五百萬兩の藩債を整理せしめつゝある頃であつた。
家庭敎育

日新齋忠良公の「いろは歌」
 元帥既に五六歳に達するや、當時薩藩の士家に於ける子弟敎育の方針として、古來藩士の武勇傳などを説き聞かされ、遊戯娯樂の末に至るまで、極めて細心の注意を彿はれたるが、又家庭讀本とも云ふべき島津日新齋忠良公の「いろは歌」「虎狩の巻」「島津家歴代歌」等を母堂より襁褓の中にあつて口授せられ、稍々長じては之れを暗誦せしめられ、且つ又天下諸侯の形勢を知らしめるべく「大名歌留多」遊びなども行はしめられた。
 日新齋忠良公は、島津家中興の英主第十五代貴久公(大中公)の父君で、神儒佛三敎の蘊奥を極め、此の三敎を融合混和したる「日學」なるものを創立せられた。日學とは即ち日新公の學問といふ意味であるが、忠孝仁義を主として人道を説いたものであつて、「いろは歌」は實にその道歌である。意味は深長であるが、辞句極めて平易で、婦女幼童も之れを誦して、實踐躬行を期せしめられたのであつた。
     日新齋忠良公の「いろは歌」
(い) いにしへの道を聞いても唱へても
       我が行にせずばかひなし
(ろ) 樓の上もはにふの小屋も住む人の
       心にこそはたかきいやしき
(は) はかなくも明日の命を頼むかな
       今日も今日もと學びをばせで
(に) 似たるこそ友としよけれ交らば
       われにます人おとなしき人
(ほ) 佛神他にましまさず人よりも
       こゝろに恥ぢよ天地よく知る
 
(へ) 下手ぞとて我とゆるすな稽古だに
       つもらばちりもやまとことのは
(と) 科ありて人を斬るとも輕くすな
       活かす刀もたゞひとつなり
(ち) 智惠能は身につきぬれど荷にならず
       人はおもんじはづるものなり
(り) 理も法も立たぬ世ぞとてひきやすき
       こゝろの駒の行くにまかすな
(ぬ) ぬす人は餘所より入るとおもふかや
       耳目の門に戸ざしよくせよ
(る) 流通すと貴人や君が物語り
       はじめて聞ける顔もちぞよき
(を) 小車のわが惡業にひかれてや
       つとむる道をうしと見るらん
(わ) 私を捨てゝ君にしむかはねば
       うらみも起り述懷もあり
(か) 學問はあしたの潮のひるまにも
       なみのよるこそなほ静かなれ
(よ) 善きあしき人の上にて身を磨け
       友はかゞみとなるものぞかし
(た) 種子となる心の水にまかせずば
       道より外に名も流れまじ
(れ) 禮するは人にするかは人をまた
       さぐるは人を下ぐるものかは
(そ) そしるにも二つあるべし大方は
       主人のためになるものと知れ
 
(つ) つらしとて恨かへすな我れ人に
       報い報いてはてしなき世ぞ
(ね) ねがはずば隔てもあらじいつはりの
       世にまことある伊勢の神垣
(な) 名を今にのこしおきける人も人
       こゝろも心何かおとらん
(ら) 樂も苦も時過ぎぬれば跡もなし
       世に殘る名をたゞおもふべし
(む) 昔より道ならずして驕る身の
       天のせめにしあはざるはなし
(う) 憂かりける今の世こそはさきの世と
       おもへばいまぞ後の世ならん
(ゐ) 亥に臥して寅には起くと夕露の
       身をいたづらにあらせじがため
(の) 遁るまじ所をかねて思ひきれ
       時に至りて涼しかるべし
(お) 思ほえず違ふものなり身の上の
       欲をはなれて義をまもれひと
(く) 苦しくとすぐ道を行け九折坂の
       末は鞍馬のさかさまの世ぞ
(や) やはらぐと怒るをいはゞ弓と筆
       鳥に二つのつばさとを知れ
(ま) 萬能も一心とあり事ふるに
       身ばし頼むな思案堪忍
(け) 賢不肖用ゐ捨つるといふ人も
       必ならば殊勝なるべし
 
(ふ) 不勢とて敵を侮ることなかれ
       多勢を見ても恐るべからず
(こ) 心こそ軍さする身の命なれ
       そろゆれば生き揃はねば死す
(え) 囘向には我と人とを隔つなよ
       觀經はよししてもせずとも
(て) 敵となる人こそはわが師匠ぞと
       おもひかへして身をも嗜め
(あ) あきらけき目も呉竹の此世より
       迷はゞいかに後のやみぢは
(さ) 酒も水ながれも酒となるぞかし
       たゞなさけあれ君がことの葉
(き) 聞くことも又見ることも心から
       皆まよひなりみなさとりなり
(ゆ) 弓を得て失ふことも大將の
       こゝろ一つの手をば離れず
(め) めぐりては我身にこそは事へけれ
       先祖のまつり忠孝の道
(み) 道にただ身をば捨てんと思ひとれ
       かならず天のたすけあるべし
(し) 舌だにも歯のこはきをば知るものを
       人はこゝろのなからましやは
(ゑ) 醉へる世をさましもやらで盃に
       無明の酒をかさぬるはうし
(ひ) ひとり身をあはれと思へ物毎に
       民にはゆるすこゝろあるべし
 
「虎狩の巻」 (も) もろもろの國や所の政道は
       人にまづよく敎へならはせ
(せ) 善に移り過れるをば改めよ
       義不義は生れつかぬものなり
(す) 少しきを足れりとも知れ満ちぬれば
       月もほどなく十六夜のそら
 「虎狩の巻」は、文禄、慶長の征韓役當時、薩兵が彼地に於て虎狩を催したる勇壯無比の記録で、藩士高柳好左衞門の作と傳へられてゐるが、之れも亦た武勇の精神を發揮せしむべく、幼少の時より暗誦せしめられた。

     虎狩
文禄元暦壬辰年、太閤秀吉公、我朝の諸將を催し、朝鮮國を征し給ふ。因茲島津修理太夫義久之舍弟兵庫頭義弘、息又八郎忠恒、父子相共に薩隅日三州の鋭兵數萬を引率し、八重の潮路を渡り、彼地に年を經、寒暑風雨を不厭、常蛇鶴翼の陣を展べて、折々軍忠莫大の功名、異國本朝に露顯せり、加之同三年の冬、秀吉公虎肉薬方に用あるにより、虎狩をして肉を可捧之由、木下膳太夫、淺野彈正少弼の奉書、翌年正月到來す。時しも積雪山を埋み、雉兎芻蕘のかよひすらこゝろにまかせず、況や虎狩に於てをや、如月過、雪も村消えて、漸薄氷をふみ、彌生八日には唐島の港より纜を解き、赤國の昌原といへる所に船を寄せて、史編可卜に及ばざれば、勞を休めず、狩場に打出られける形勢は、陷穽の圍よりも猶増りて圍みぬ。然はあれど、深山遠く栖むものなれば輙く狩出す事なし。翌十日には猶深く分入、嶮岨を不辨、徘徊する處に、
 
猛虎一ツ走出、爰彼所に驅廻り、既に圍を出行くを、嶋津守右衞門尉彰久の郎黨安田次郎兵衞追懸れば、立戻り喰はむとす、其時虎の口に刀を貫き、目下に切殺すは、憑婦が肱を攘つて向ひしも異ならず。暫ありてまた二ツ出、人皆是を見、義弘、忠恒の立處近く驅來らんかと肝を消す。かゝりける處に、忠恒は老父義弘の恙あらん事を怪しみ、楊香が虎に跨りし心地して、暴虎憑河の死を懼れ給はず、驅向はんとの氣色見えしに、忠恒の舍人上野権右衞門といへる若者、走懸て切らんとす、即彼を噛殺し牙に掛け、五間計か程落し、愈々威をふるひ、山に靠つて嘯くを、帖佐六七捕へんと勇み懸れば、忽向逢ふ頭を三刀切り、直に喰懸て股にかみつき危くみゆるを、福永助十郎尾を取て、松の下枝に引懸れば、時を不移永野助七郎續合ひ、終に斬殺しぬ。誠に彼人々の働は、子路が勇をも欺くべし、其中六七は股痛で程なく死す。今一ツの虎は、圍を破り出にけり。さて獲物の虎二ツ、日本へ渡されければ、殿下におひて貴賤の褒羡不斜、殊更感激の御朱印給り、于今櫃に藏て、子孫に傳ふ文書のうちにこれあり。其事の趣、丹靑の手に附し、寫出して名を留む、後の人圖畫に對して、英氣を起さゞるものはあらじ。
 又「島津家歴代歌」は、禪學と共に朱子學を以て、有名なる文之和尚の作で、漢文を以て簡明に、島津家の始祖忠久公より第二十三代宗信公に至る迄の治績を述べたものであるが、元帥等は藩黌造士館に入學する以前、家庭に於て之れが素讀を受け、又其の暗誦に努めて、歴代藩主の治敎と仁恩とを諒得し、家臣として義勇奉公の道にいそしむべく、幼時よりして敎養せられたのであつた。
 
歴代歌    歴代歌
  高祖忠久號得佛 始領三州曰島津
  二世忠義稱道佛 此時上古風俗淳
  三世久經稱道忍 攻亡禮部安我民
  給黎町田其孫子 伊集院亦骨肉匀
  忠宗道義建長間 都鄙謂之爲歌人
  其子貞久名道鑑 舍弟六人國爲隣
  和泉孫子今殆盡 佐多新納共相親
  樺山北鄕今猶盛 其中石坂跡獨泯
  道鑑有子號川上 子孫至今更詵々
  氏久齢岳六代主 創建即心迹未陳
  元久恕翁創福昌 一子爲僧戴烏市
  有弟久豐號義天 挑惠灯來猶循々
  忠國大岳其諱譽 深固院古栽松荺
  舍弟松夫薩摩守 題橋豐州武威純
  出羽伯耆亦叔季 有五兄弟德已均
  忠國宗子稱天勇 不嗣父位異天倫
  大年登公天勇子 齊名一瓢德不貧
  立久節山民具瞻 龍雲庿古猶薦蘋
  忠昌圓室諱玄鑑 寺名興國近城闉
  忠治蘭窓名津友 忠隆興岳不終晨
  勝久主國國將滅 幾殺忠臣自沈倫
  欲讓貴久以家國 國亂其約皆不眞
  貴久老父問誰某 一瓢之子稱日新
  日新無由散鬱憤 更揚義兵無異論
  從是三州諸家士 仰見貴久悉稱臣
 
  辛未林鐘二十三 正是大中辭世辰
  海潮修梵南林寺 香烟不斷日輪囷
  義久治國猶超古 是時六国臣伏臻
  以歌鳴世是餘事 惟德被民民歸仁
  令人景慕何至此 遐齡猶祝八千椿
  新創妙谷預修善 碧瓦朱甍疊魚鱗
  舎弟義弘兵庫頭 武威振世重千鈞
  匪啻譽聲動我國 朝鮮八道誦名頻
  歸依三寶修妙圓 無人不道希世珍
  久保朝鮮撫軍日 惜罹微恙化作塵
  家久多年在朝鮮 擅施威武似有因
  國務餘力嗜儒學 基本不亂壹修身
  就中心學探其頥 入禪敎門轉兩輪
  細大不捐藝非一 揮劍掃筆共彬々
  球王來降何歳月 慶長己酉在蕤賓
  光久生元和二年 大樹慇懃加首巾
  正保丁亥當霜月 王子犬追親族臻
  綱久明暦發江府 自是歸國隔歳巡
  綱貴承命修東叡 元祿七月越數旬
  吉貴享保壬寅夏 大礒館樓望海濱
  繼豐婦人竹姫君 享保己酉結婚姻
  有弟興兮續狹越 吉貴微意不遠親
  宗信逝去號慈德 萬民如父涙霑巾
  更無繼子立久門 無爲自治太平辰
  吾君運命幾多少 孫子枝葉億萬春
 かくて七歳に至れば、造士館に入學し、鄕中の仲間入りを
鹿兒島鄕中の組織

元帥の下加治屋町方限
爲し、鄕黨相共に文武の研究、心身の鍛錬に努めたのである。
 薩藩に於ては、文禄、慶長の征韓役以來、宿老新納武藏守忠元等に依つて鄕中なるものが組織せられ、靑少年士の士氣を鼓舞し、文武を奬勵したのであるが、鹿兒島城下に於ては、爾來三百年繼續せられ、今日も尚ほ其の鄕中制度を踏襲したる學舍組織が行はれてゐる。此の鄕中の制度なるものは、靑少年士が其の住居の地域に依つて一致團緒し、各組合規約を設けて、自治的團體を形成し、相共に文武を勵み、士道を磨き、以て有事の日に備へたのである。其の住居の地たる武士小路には、一定の區劃があつて、其の區劃を方限と唱へ、各方限に於ける自治的團體を鄕中といふのであるが、鹿兒島城下には幾十の方限があると共に、又幾十の鄕中がある。即ち鹿兒島城下を中心として以東を上方限、以西を下方限に二大別し、更に小別すれば、上方限には、岩崎、滑川(一名屯田)、城ヶ谷、冷水、町口、家鴨、馬場、淸水馬場、後迫、實方等の小方限があり、下方限には、上平、下平、新照院、草牟田、高見馬場、上加治屋町、下加治屋町、馬乘馬場、樋之口、舊新屋敷、新々屋敷、正建寺、八幡荒田、上荒田、高麗町、上之園、西田、常盤等の小方限があつて、此等の小方限毎に各々鄕中があつた譯である。即ち元帥は下加治屋町方限に生れ、其の方限の鄕中に於て、文武の研究、心身の練磨に努めたのであつた。西鄕隆盛、西鄕從遣、大久保利通、東鄕平八郞、黑木爲禎等の如きも、元帥と同じく下加治屋町方限の出身で、幼時に於ける元帥は、專ら西鄕隆盛に師事したのであつた。
其の鄕中なるものは、稚兒と二才とに依つて組織せられ、
 
鄕中に於ける文武の講習 稚兒は六七歳より十三四歳迄の前髮時代を云ひ、二才は十四五歳即ち元服してより二十三四歳迄の者を言ふのであつて、之れを其の方限全體に就いて見れば、則ち稚兒と二才と、二才以上の先輩長老者との三段より成つてゐる。此の鄕中の幹部としては、稚兒に稚兒頭があり、二才に二才頭があつて、二才頭は其の鄕中を支配するのであるから、又鄕中頭の稱がある。概ね年長者より順次其の後を襲ぎて、鄕中一切の事を處理統督するを常例とするも、特に文武に秀で、才器德望兼ね備へたる者は、必すしも年長者たらすとも、推されて之れに當るのであるから、二才頭即ち鄕中頭といへば、威望隆々として、其の勢力は鄕中を壓するものがあつた。即ち元帥等の下加治屋町方眼の鄕中頭が西鄕隆盛であつたのに見て、隆盛の勢力は察し得られるのである。
 此等鄕中の風習規約等は、各方眼に依つて多少の相違はあるが、全般を通じて、短褐粗食に甘んじ、質實剛健の氣象を養ひ、忠孝仁義を重んじ、文武を奬勵するに至つては、何れも一様であつた。
 鄕中に於ける文武の講習は、齊彬公の治政(自嘉永四年至安政五年)に至つて更に面目を一新した。之れを文事に見るに、專ら讀書と習字であるが、讀書に於ては、稚兒は毎朝午前六時若くは七時の頃、自己方限に於ける二才中の讀書を善くする者の家に行きて、四書の素讀より始め、五經に及んだ。
 習字も讀書と同じく、稚兒は自己方限の二才中の能書なる者に就きて學び、二才は更に同方限の先輩に就きて指南を受けたのである。之れが奬勵法としては、字會、席書なるものが行はれ、稚兒は稚兒、二才は二才同志の間に、各々その師
なる人があつて、浄書紙に批點を施し、優等者は他の全部の浄書紙の配與を受くることになつてゐた。而して之れを受けたる者は、非常の名譽とし、互に其の技を競ひ勵んだのであつた。
 元帥は即ち讀書と習字を鄕中の二才頭なる従兄西鄕隆盛に就いて學んだので、隆盛の感化を蒙つたことは蓋し尠くなかつたであらう。
 元帥の生立に就ては、元帥自筆の履歴に.
予幼年の事業を記載せんと欲すれども茫乎として是を知るに由なし、戯遊の間に光陰を送れり、十五歳にして鎗術を梅田氏の門に學ぴ、五六年の間大に勉強して分陰を惜めり。
とあるのみで、他に文獻の徴すべきもの無きを遺憾とするが、元帥が後年勝田孫彌氏に直接話されたる談話筆記(明治四十二年七月一日)には、左の如く見えてゐる。
鹿兒島に於ける予の家は、西鄕の家に接近して居たので、予は六七歳の頃から西鄕に從ひ讀書や習字を敎はつた。その頃西鄕は禪學を學んで居た。.予が朝早くその家に至ると、西鄕は既に草牟田の誓光寺の佳職無參上人の許に赴き、講習を終つて歸宅して居るのを常とした。
 讀書習字の外に又「軍書讀み」と稱して、一定の期日に同じ方限りの某氏の家に集まつて、「眞田三代記」、「武王軍談」、「三國志」、「太閤記」、「漢楚軍談」、「呉越軍談」等、二才等の輪讀するを聽くのである。元來稚兒の夜間外出は禁ぜられてゐたが、斯かる式日式夜には外出を許されて、必す出席せねばならぬことになつて居り、又稚兒達も喜び勇んで馳せ參じたものである。
 
 それで元帥が幼時より讀書の嗜み深く、殊に軍書の類を愛讀したのも、斯かる式日式夜の然らしめたるにも由るであらうが、殊に記憶力が強く、「眞田三代記」や、「武田三代記」等を克く暗誦して鄕黨を驚かしめたものであつた。
 元帥と同じ下加治屋町出身で、嘗て埼玉縣知事をしてゐた吉田淸英氏の談話に、
大山さんの家は、貧乏屋敷の中では少し廣い方であつたから、大西鄕さんが頭領で此の屋敷に土俵を作り、みんなで盛んに相撲を取つた。少年時代の大山さんは今の樣に肥えては居なかつた。どちらかと云へば瘦せた方であつた。大山さんは家中でも評判の槍遣ひで、能く大山さんが庭で槍の稽古をして居るのを見た。此の頃の武士の學問と云へば、經書と源平以後の軍書であつたが、大山さんの好きで得意なのは、元龜天正の軍書の中でも、「武田三代記」「眞田三代記」等で、悉く之れを暗誦し、「武田三代記」の何卷目の何枚目と云へば、聲に應じて宙で讀んだものだ。その記憶の好いのには皆々感服して居た。今でこそあの樣に圓滿に見えるものゝ、若い頃は西鄕從道さんに上を越した腕白者で、又豪膽で思ひ切つた橫着者であつた。そして機敏で機略に富んでゐた。併し長ずるに從ひ、其の敏捷も機略も内に包んで外に顯わさないやうになつた。彼の人が巴里から歸つた明治初年の頃は、日本一の大ハイカラで、加治屋町時代の蠻骨彌介どんとは受取れなかつた。
とある。
 元帥の記憶力が強かつたことに就いては、海軍大将樺山資紀伯も亦た左の如く語つて居る。
 
 大山の記憶の宜いのは有名なもので、西洋の歴史なども年代や人名を能く覺えてゐる。
 元帥が讀書家であり、且つ記憶力に富んでゐたことは、天才であつたに相違なからうが、又隆盛の感化も尠くなかつたと思はれる。元帥の外戚に山口直記といふ藏書家があつて、大久保利通の父次右衞門(子老)が、嘉永二年の薩藩內訌事件に連坐して蟄居の頃、山口家の藏書を借りて次右衞門の閲覽に供したるが、その使者がいつも元帥であつたといふから、之等も元帥の讀書家たるべき誘因となつたであらう。
此の事は勝田氏の元帥直話聞書に左の如く見えてゐる。
嘉永二年、薩藩の内証に關係して、大久保の父子老も鬼界ケ島に遠島に處せられたが、渡海の前には座敷牢に謹愼して居た。西鄕は當時二十二三歳の頃であつたが、朝夕子老の牢側に至つて慰籍して居た。その頃予は七八歳であつた。平之馬場にあつた予の親戚山口直記の家には澤山の藏書があつたので、予は西鄕の命を受けて山口の家から繪本三國誌等を借り受けて座敷牢の大久保子老の閲覽に供した。山口家より本を借りる使は常に予が務めたものである。山口直記は予の母の從弟である。
又阿久根成麿翁の直話に、元帥等幼年時代の敎育に關して、島津齊彬公が鄕校を吉野村に建てられたるに就いての興昧深き左の物語がある。
安政の初、齊彬公は山口直記に命じて鹿兒島の近郊吉野村の中別府、帶迫二個所に學校を設けしめ、子弟百餘名を収容して造士館より交代に敎官を派し、敎養の任に當らしめた。吉野村より別府晋介・桐野利秋・陸軍大將子爵川上操六等の英
 
傑を出したることは、之れに負ふ所尠くないであらう。この學校建設に就いては面白い逸話が存してゐる。鹿兒島城下の警備區域を六組に分けてあつて、各組が日を定めて調練を行ひ、齊彬公自ら之を検閲せられたのであるが、吉野村の中、實方、帶追、菖蒲谷が五番組の小組六番に屬し、中ノ丁、中別府が六番組の小組十一番に屬してゐた。五番組であつたか、六番組であつたかは判らないが、公一日吉野の士を呼出して其の調練を閲せられた時、一人の男が月代もせず、繼ぎだらけの俗に「大根賣りバツチ」と稱する半股引を穿いた者があつたので、公は侍臣をして其の故を間はしめられたるに「昨夜剃刀を借り得なかつたので、この爲躰である」との旨を答へた。依つて重ねて「家督であるか部屋住みであるか」を間はしめられたるに、「そんなことは親戚のものが取計つて呉れるので一向與り知らない」との事に、之れを聞かれたる公は「是れ敎へざるの罪である」と長大息せられたとのことであるが、公が異日鄕學劈頭第一に吉野村に學校を創立せしめられたのは、之れに縁由するものであらう。
 武藝に於ては、弓・槍・鐵砲・馬術があるが、必すしも其の總てを修むるを要しなかつた。槍術では鏡智流、馬術では大坪流、砲術では天山流といふやうに、多数の師範家があつて、各々好む所に從ひ其の師に就いたものであるが、獨り剣道は藩士共通の武術として、之れを修練した。其の剣道には薩摩獨特の示現流と、示現流より岐れたる薬丸流とがある。示現流は慶長年間東鄕重位の創めたもので、第十八代太守家久公の時代に、御流儀として採用せられ、爾來師範家たる東鄕家は非常に勢力があつた。元帥は東鄕家に就いて學ぷと共
 
に、又各自の家に立木を作り、柞の木刀を以て之れを打ち、朝夕鐵腕の鍛錬をしたのであつた。元帥は又槍を鏡智流の師範家梅田九左衞門に就いて學び、元帥の自筆履歴にもある如く、熱心に修練したる結果、遂にその奥儀を究めて免許皆傳を受けたのである。その免許證は今大山公爵家に傳はつてゐないから、(大山家の戊辰以前の書類は兩囘に亘る元帥渡歐の際、不幸にして多くが散逸した)元帥と同門生たりし篠原冬一郎(國幹)家に傳はる免許證を参考として次に掲げる。
本心鏡智流鍵鎗曲尺合
右是者弓之敎と就相近以巻藁前可稽古事
  中極意   三本
一圓宗
 位突
 連懸
第一 手合足合手元の曲尺突の曲尺中墨の曲尺口傳
第二 中墨の曲尺ねらひの事口傳相手之構上段中段下段左右、ともにおなしかるへし
第三 一圓取あけの突き一尺の曲尺をねらひ箭を以甲を射貫と思を志にて仕掛突へし口傳
第四 十文字薙刀小太刀無刀このしなしな皆以一圓宗取上ケの仕掛一尺の曲尺を志し突掛突へし
第五 間積の心得口傳有之但しいまた間遠きとおもふ時はやくとりあけ曲尺え突込事口傳
第六 身の曲尺釣合掛引稽古なるへき事口傳
第七 位突に仕つけ後のせり付仕寄仕掛やうの事口傳
第八 連懸に仕かけ時節心もち大事有之口傳左右の掛出し曲
 
遊戯の種類 尺合附り鍵を押候時仕拂口傳第九 前後の張同摺手のうち并に足の踏込出稽古の事口傳
第十 鍵鎗直鎗にても十文字薙刀小太刀無刀突様仕掛色々有り稽古なるへき事口傳
右極意曲尺合之條々口傳之趣相傳申候而も急に其儘事能成申にては無之候乍併數百度稽古候得は事理ともに手足に染付申候左候得は如何様なる剛敵にも勝候事也
   安政四丁巳年
     六月吉日          梅田九左衞門
                     治啓(花押)
此の槍術師範家の梅田家の租先は杢之丞忠治と云つて、江戸の人であるが其の二男の九左衞門治繁が、元祿九年鏡智流槍術を以て島津氏に仕へ、世祿二百石を給せられ、爾來師範家として代々其業を繼いだのである。
 以上文武の講習は、各鄕中の日課であるが、又別に藩黌造士館及び演武館に於ける修業があつた。
 更に鄕中に於ては、身體の強健を期するために「旗奪り」、「大將防ぎ」、「降參曰はせ」等の武張つた運動遊戯が行はれた。何れも二組に分れて擬戰を行ふのであるが、其の方法は頗る猛烈を極め、互に攻め合ひ打ち合ひ、「旗奪り」は旗を奪つて勝負を決し、「大將防ぎ」は定めたる大將を倒し、「降參曰はせ」は其の名の如く降參を曰はしめて凱歌を奏するのである。
 又正月に限つて行はるゝ遊戯に「破魔投げ」がある。之れは直徑二寸位の樫などの堅き木を五分位の厚さに輪切りにしたるを、恰も今日の、「ゴルフ」のやうに三尺ばかりの手頃
 
加治屋町河原  の棒を以て、雙方に分れて打ち飛ばし、受け合ふもので、壯絶な遊戯である。此の棒を振ふのは太刀に擬したものと云はれてゐる。
 又「念木打ち」といふのがある。これは季節に關係はないが、多く秋に行はれる。長さ一尺四五寸の棒の一方を削り尖らしたものを互に地に打ち込み、他の棒を打ち倒して勝負を爭ふものである。之れは手裏剣に擬したものと云はれてゐる。
 殊に仲秋八月十五夜には、盛んなる綱曳きが催される。此の外、角力、徒歩競爭、繩飛ぴ、棹飛び、豚追ひ、馬追ひ、遠足、山登り、水泳等、苟も體力を練り、健脚を圖り、筋骨を鍛ふるに於て益する所のものは、一として行はざるはなかつた。
 元帥等の武士小路なる下加治屋町方限は、極めて狭隘なる一區劃であるから、道路に於ての此等の遊戯は禁ぜられてゐたので、甲突川畔の加治屋町河原は、元帥等が少年時代唯一の遊び場であつた。尤も元帥の屋敷は平士の中では、廣い方であつたから(俗に五畝屋敷と云つて五畝を標準としたが元帥の屋敷は一反六畝あつた)庭に土俵を作つて隆盛等が頭となり相撲を取つたことは前に述べた通りであるが、併し大勢寄り集まつて行ふ遊戯は、此の河原で行はれたので、元帥等は日夕この河原に出でて、或は水泳を行ひ、或は相撲を試み、或は東西兩軍に分れて「戦爭ごつこを爲し、其の少年時代を過ごしたのであつた。さればこの河原こそは、實に元帥等が後年震天動地の目覺ましい働きを爲すべく養成せられた揺藍地であつた。
加治屋町河原は、甲突川の左岸高見橋より高麗橋間の加治屋
 
元帥の左眼負傷  町に接した河原で、その延長は加治屋町の長さと略ぼ同じく四町許、幅は廣い處が川幅の三分の一位を占めてゐた。此の甲突川は鹿兒島城下の西南部を西北より東南に流れて鹿兒島灣に注ぎ、川幅四十間位、諸所に洲があつて、その高麗町涯にあるを下の河原と云ひ、新屋敷町涯にあるを新屋敷河原と云ひ、加治屋町涯にあるのを加治屋町河原と云つた。
元帥はこの加治屋町河原に於て、或る日いつものやうに自ら笊を冠り、他の友人は竹竿を槍に擬して嬉戯してゐたが、湊川甚之丞と云ふ友人が、竹槍で誤まつて笊を貫き、元帥の左眼を傷つけた。之れが爲めに元帥は後年まで左眼の視力が充分でなかつた。併し幸ひ左であつたから、射撃には差し支へなかつたのであつた。
元來寡言の元帥も、時には串談を云ふこともある。後年人に向つて「厭なものを見るときは左の眼を以てするのだ」と語つてゐられる。尤も其の創痕は晩年に至つては、大抵の人には殆んど氣付かれぬ程度であつたが、嘗て印刷局御雇の伊國人「キヨソネ」に囑して肖像を描かしめた時、流石に「キヨソネ」は左眼の異状を發見して之れを質したので、元帥は少年時代の實歴談をしたと云ふことである。
又元帥は或る日家人に向つて、この左眼負傷のことを語り、彼の「ナポレオン」一世が、少年時代に石を投げて誤つて朋輩を傷けたが、後年武運隆々として遂に皇帝の位に即くに至つた時、曩の負傷者たる舊友が、遙々訪ね來て謁を求めたのを快く迎へて優遇し、懐舊談に耽つたといふことであるが、自分はそれと反對に傷けられた方であるとて哄笑一番、少年時代の思ひ出話をせられた。
 
智力膽力の試練

年中行事 
 以上の如く鄕中に於ては文武の奬勵、心身の鍛錬を怠らなかつたが、更に智力の試練として、「詮議」と云ふ方法を行ひ、膽力の試験には「幣立て」といふことを行つた。
 「詮議」といふのは、武士となるべき「メンタルテスト」で、武士道的精神に立脚して種々の場合に處すべき方法を間答するのである。例へば君公と自分の父とが同時に重態で、其の命旦夕に迫つてゐるが、これを治すべき良藥唯だ一粒を自分が所持してゐる場合に、それを何うするかといふやうな問であつて、これを「詮議をかくる」と云ひ、その答が可なれば之れを賞し、不可なれば訓戒して、その方法を誤らぬやう指導するのである。
 又「幣立て」は十三四歳の稚兒が、進んで二才組に入るに當つての膽力試験で、暗夜物淋しい墓地とか、鹿兒島城南一里許りなる境瀬戸と稱する血腥き刑場等へ、深夜子の刻頃、紙の御幣を結び付けたる竹竿を立てに行き、それを又他の一人が取つて歸るのであるが、之れだけでも稚兒達の身の毛をよ立たしむるに充分であるのに、二才達は先廻りし、妖怪の姿を叢の間や樹の枝の上に現はして、之れを驚かすのである。此の試験に及第した者は二才組に編入せられるのであつた。斯やうにして少年時代より膽力の養成に努めた結果は、事に當つて泰然自若たる襟度を示すに至つたのであつた。
 此の外風敎の振興、士氣の鼓舞の爲に、苦心慘憺の跡を留めたことは、之れを年中行事に見ることが出來る。即ち年中行事としての主なるものは、「曾我の傘焼」、「日新寺詣り」、「心岳寺詣り」、「妙圓寺詣り」、「義臣傳讀み」等である、「曾我の傘焼」は建久四年の昔、曾我十郎五郎兄弟が親の敵
 
  工藤祐經を討取つたる孝道を模範とし、破れ傘を松明に代へて討入つたる故事に因み、毎年五月二十八日夜、螢飛ぷ甲突川原で、一同が貰ひ集めたる古傘を持ち寄つて之を焼き、五郎十郎の昔を偲ぷ行事である。
 「日新寺詣り」は、「いろは歌」の作者なる日新齋忠良公を祀れる南薩加世田の日新寺(今は竹田神社)に公の命日なる六月二十三目に詣でて、公の遺烈を偲ぷのである。加世田は鹿兒島城下を距る十餘里の地、舊暦六月といへば炎暑嚴しき季節であるが、夜半より駈足にて參拜し、此處にて行はるゝ士踊りを觀て、直ちに駈け戻り、その夜、薩藩中興の英主貴久公を祀れる城下南林寺(今は松原神社)の六月燈に參列するのであるが、いづれも皆其の早きを競ひ、先登第一を名譽としたのであるから、往復二十餘里の「マラソン」競爭とも云ふべきものであつた。
 「心岳寺詣り」は、貴久公の第三子にして、豐臣秀吉に屈せずして自害したる島津金吾歳久公を祀れる隅州姶羅郡帖佐の心岳寺に、公の命日たる七月十八日を以て參拜し、其の英靈に對して深く敬虔の意を表するのであつた。
 「妙圓寺詣り」は第十八代太守島津義弘公の關ヶ原役の苦戦を偲ばんが爲に、その記念日たる九月十四日夜、公を祀れる城西四里計の伊集院妙圓寺(今は徳重神社)に參拜するのであるが、二才組は鎧具足に身を固め、稚兒組は陣羽織姿で、折からの月明に並木道を數百の健兒が列び行く様は頗る壯觀であつたと言はれてゐる。
 「義臣傳讀み」は、元祿十五年赤穗義士の吉良家討入りの快擧を偲ぷ爲に、其の討入りの十二月十四日夜、二才組は定
座頭講  められたる某家に集まつて、義臣傳を輪讀し、稚兒組は之を聽聞するのであるが、その家にては粟の粥などを饗し、一同舌鼓を打つて之れを啜り殆んど夜を徹するのであつた。
 是等行事と共に式日式夜といふものゝあつたことは、前述の通りであるが、その式夜の中に「座頭講」といふがある。座頭は盲目の琵琶法師であるが、それを招じて薩摩琵琶を聽く會である。これは間断なく行はるゝ文武の講習、心身の鍛錬に對する慰安として行はれたもので、其の鄕中の定められたる家に集まることは、「軍書讀み」や、「義臣傳讀み」と同様であるが、是れ又士氣を鼓舞し、精神修養に資する所が甚だ多かつた。
薩摩琵琶は薩摩獨特の音樂で、歌詞には段物と端歌の別があり、段物は「木崎原」、「小敦盛」、「赤星崩れ」等の勇壯悲痛なる戰鬪の状況を謡つたるもので、端歌は「迷悟もどき」「墨繪」「武藏野」等、禪味を帶ぴたる中に人生觀や敎訓を含んだものである。又目出度き意味を謡へる「新玉」や「蓬萊山」等も端歌に屬する。
座頭講にては、「新玉」を先づ彈じて、段物に移り、最後の彈き納めとして「蓬萊山」を彈奏するを例.としたるが、今日に於ては「蓬萊山」は、目出度き席に於ては彈き始めにも謳はれてゐる。
元帥が明治三年に國歌の濫觴たる「君が代」を、薩藩軍樂隊の秦樂歌詞として撰定したのは、此の「蓬萊山」の琵琶歌にある「君が代」を咄嵯の間に思ひ出しての事であつたとも言はれてゐる。(本書第十一章「国歌君が代の撰定」参照)
薩摩琵琶歌には「武士の情」とか、「武士は物の哀れを知
 
天吹

柴笛 
る」とかの仁侠慈愛の道を訓へ、武士蓮の眞髄を説いたものが多いので、不知不識の間に斯かる精神を涵養鼓吹せられたのであつた。譬へば「赤星崩れ」二段目の「鳥窮すれば懐に入るとかや」、或は「昨日の敵は今日の味方」等の文句、又は「木崎原」の「君、臣を見ること腹心の如くする時は、臣、君を見ること手足の如く、君、臣を見ること土芥を見るが如くする時は、臣、君を見ること仇讐をみる如くする」等の文句、その他「小敦盛」の中の熊谷の心惰を謳へるなど、何れも人情の機徽を穿つてゐる。
明治二十七八年戦役に、聯合艦隊司令長官たりし伊東祐亨元帥は、北洋艦隊の降伏に際し、毒死したる水師提督丁汝昌に敬意を表して汝昌の柩を迭らしむる爲に、降伏軍艦中の康濟號を與へたのであるが、大本營に於ては斯かる獨斷の處置を不當とし、電報を以て其の故を質したるに對し、伊東長官は只だ一言「武士の情」と返電したので、大本營も其のまゝ默して了つたといふ美談が傳へられてゐる。之れも全く琵琶歌に依つて養はれたる武士道精神の發揮に外ならぬとは、後年伊東元帥が薩摩琵琶の名人西幸吉氏に物語られた所であつた。
 又た「天吹」といへる薩摩獨特の笛がある。關ヶ原役に捕へられたる藩士北原某が、其の死に臨みて之を吹奏したるに、妙音人をして感動せしめ、之れが爲に助命せられた實例がある。天吹の形は尺八に似て稍々小さきものであるが、靑年は多く自ら製し、好んで明皎々たる月夜や、又は陣中に吹奏して風流を樂しんだものであるが、今日に於ては殆ど之れを學ぶものゝ跡を絶ちたる觀あるは惜むべきことである。
 尚ほ樂器とは云へないが、音律が天吹に似て更に高調なる
 
少年隊の軍事敎練  ものに「柴笛」がある。之れは橙や樫などの葉を唇に當てて吹くのであるが、其の抑揚流麗なる妙音は、聽く者をして無我の境に彷徨せしめる。之れ亦た靑年が娯樂の一つとして、優雅なる情緒を喚起し得たことは、蓋し尠少ではなかつた。
 以上は鄕中に於ける元帥等日常の心身訓練と、之れに件ふ慰安娯樂等であるが、又別に藩主の奬勵に依つて、少年隊の軍事敎練が行はれた。即ち島津齊彬公が薩藩の太守として立つた嘉永四年には、元帥は十歳であつたが、公は其の頃、八九歳より十二三歳までの所謂稚兒衆を以て少年隊を組織し、和蘭式に據つて軍事敎練を施し、自ら之を検閲せられた。元帥もこの少年隊の一員として訓練を受けたのであるが、此等可憐なる少年達が、緋の筒袖に立揚を穿ち、草鞋脚絆に身を固め、白鉢巻に木銑を肩にした扮裝は、雄々しくも亦た末頼母敷き姿であつたといふことである。
元帥の左眼を傷けた湊川甚之丞は、元帥と同じく下加治屋町少年隊の一員であつたが、大正九年筆者が鹿兒島に歸鄕の折、示現流劍道の師範家なる東鄕重毅氏を介して訪問したる時には、尚ほ矍鑠として、元帥に關する得難き物語や、島津齊彬公に關する貴重なる逸事等を聞くを得たのであるが、齊彬公の二の丸御庭に於ける少年隊調練親閲の事を筆者に語るの時、肅然として容を改め、追懐の情に堪へぬ面持で左の如く述べられた。
私は元帥と同方限の下加治屋町だつたので、いつも一緒に御呼ぴ出しを蒙てつ、二之丸外御庭の調練に罷出でた。或る日上様(齊彬公)には御庭内の御茶屋に居らせられ、御机に凭つて御書物遊ばしつゝ調練を御覧になってゐましたが、其の
 
元帥の立志  隊中に少しく歩調を紊したものがあつたのを御氣付かせ給ふや否や、天地に響かん許りの大音聲を揚げて鋭く御叱責なされた。元帥を始め私共一同少年ながら、上様が御聰明にましまして、軍事を重んじ給ふに恐懼感激措く所を知らなかつた。斯く上様が御熱誠を籠めさせられて軍事を御奬勵遊ばされたのでいづれも感奮興起し、調練御呼出しと云へば、元帥ともども何は差措いても相競つて馳せ參じたのであるが、その有様はさながら今にも外患が迫つて来たかのやうな觀がありました。
同氏は斯く語り終つて、「私は往昔の元帥に對する粗忽を痛感してゐるだけに、私の此の話が他日元帥の傳記中に役立つこともあらば、せめてもの本懐である」と附言せられたのであつたが、それが今や測らずも此の傳記に一異彩を放つことになつた。
 齊彬公薨去の安政五年には、元帥は十七歳であつて、槍術に於ては既に達人と云はれてゐたのであるが、是歳より翌安政六年にかけて、かの安政大疑獄が起り、勤王の志士が幕府の爲に一網打盡に附せられ、憐れ刑場の露と消えたるさへあるに、尚ほ之れに飽き足らぬ幕府は、暴虐のあらん限りを盡し、朝廷を侮蔑し奉りて、畏れ多くも孝明天皇御譲位の御沙汰さへあらせらるゝに至り、更に關白鷹司輔熙、内大臣三條實萬、左大臣近衞忠熈に落飾を命じ、今大塔宮の稱あらせられたる粟田口宮尊融法親王は永蟄居に處せらるゝなど、言語道斷の始末で、天下の人心大に激昂し、物論騒然たるものがあつて、元帥等は到底空しく手を拱して之を黙視することは出來なかつたのであるが、此時に當つて尚ほ亦た元帥等をし
 
鄕黨の譽れ  て悲憤糠慨に堪へざらしめたのは、恩師であり從兄である西鄕隆盛が、幕府の嫌疑を受けて京摂より脱し、僧月照と共に薩摩潟に入水するの悲劇を演ずるの止むを得ざるに至つた事である。幸に隆盛は蘇生したのであるが、齊彬公薨去後の藩廳は幕府を憚り、隆盛を變名せしめて大島に潜居を命ずるなど藩廳も藩廳であり、幕府も幕府であるから、此の國家多難なる所謂非常時に際して、吾等の執る可き道如何とは、元帥等が日夜砕心焦慮した所であつた。
 是に於て元帥等の執るべき道は、古來薩藩の傳統的なる薩摩隼人の武勇を發揮し、豫ねて養はれたる武士道精神に依つて、大義を明かにして、名分を正し、一意勤王の爲に邁進するに在つた。その勤王尊皇、それは藩祖忠久公以來終始一貫し來れる薩摩武士の生命であり、使命であるから、當時の藩廳は如何にもあれ、元帥等の同志のみを以て勤王倒幕の先驅たらんことを約し、一死以て皇恩に酬い奉らんことを期したのであつた。偶々元帥十九歳の萬延元年、同志の一人たる有村次左衞門が井伊大老を斃すを得たのであるが、國家の危急存亡を救はんが爲には、尚ほ幾多の義擧を要するものがあるから、元帥等はますます士道を磨き、日夜文武の研鑽に努め、他日の驚天動地の偉業に向つて全力を注いだのであつた。
 斯くの如く元帥等が、勤王倒幕の爲に大勇猛心を起したればこそ、全國無比とも稱すべき下加治屋方限の鄕黨の譽れを揚げた譯であるが、そもそも下加治屋方限は、面積一萬餘坪、戸數七十餘戸に過ぎない猫額大の武士小路であつて、元帥の生立當時の居住者を調査すれば實に左の通りである。
 
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   以上の中、有名なる硯學石塚崔高の後孫や、陽明學者の伊東猛右衞門、奧醫師として藩の樞務に參與したる川畑魯水、「大石兵六夢物語」の著者として如られたる毛利治右衞門正直などは、同方限の先覺者であるが、其の後進として王政復古明治中興の御大業を翼賛し奉り、尚且つ明治朝に於ける元勳名將として屈指せらるゝ偉人を列擧すれば、西鄕隆盛、大久保利通の兩雄を始めとし、大山元帥、西鄕從道、東鄕平八郎、黒木爲禎の諸將、即ち一公爵、四侯爵、一伯爵を出し、王政復古も下加治屋町、日清日露の大戦も下加治屋町で遣つたのだと言はれてゐるのも、強ち無稽の言ではない。
 後ち元帥の主唱に依つて、西鄕、大久保兩雄の誕生地記念碑が建てられたのであるが、(大久保利通の誕生地は實は高麗町方限であつて、下加治屋方限は生立地である)之れに就いて元帥の左の談話がある。
   兩雄誕生碑の話
西鄕大久保兩雄の誕生地記念碑建設の事に關しては、予が主唱したものであつた。元來日本人は墳墓に重きを置くが、西洋人はその誕生地に最も重きを置き誕生地とその地方との關係に注意する風がある。是は誠によき風習であると思ふ。
 我が鹿兒島に於ける西鄕、大久保の生誕地も宜しくその碑を建設して保存し、後世に傳へなけれぱならぬと感じたので即ち先年同鄕の伊地知休八(休八は父を伊地知甚左衞門と云ひ、後の海軍大佐伊地知弘一)に謀つた。伊地知は東鄕(平八郎)等と共に英國に留學した人である。東鄕は寡黙有爲の人であるが、伊地知も亦才氣あり、學識ある人であつた。予は伊地知に「建設費は予等が之を負擔するから企てゝもらひ
 
  度い」と話した處、伊地知も大いに喜んで、色々斡旋して遂に建碑を見るに至つた。その費用は、予及ぴ西鄕從道がその大部分を負擔した。今は有名な場所となり、外國人等も旅行して鹿兒島に來つたものは、必らずこの兩雄の誕生地を訪ふと云ふ事である。
はじめ誕生地記念碑建設の議の起つた時、鹿兒島の在住者の中には、大久保の誕生碑建設に反對した者があつた。予は「西鄕と云ひ大久保と云ひ、共に國家の爲に盡瘁したのであるのにその死後是を區別して、西鄕の誕生地記念碑のみを建立せんとするが如きは甚だよろしくない。もし兩雄の碑を建設する事が出來ないならば、予は斷然之を拒絶する外はない」と云つた。そこで大久保の碑建設反對の議も止み、共に建設するに至つた。(明治四十二年七月一日大山元帥談話、勝田孫彌氏聞取書)
 
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