日本史探偵団文庫『元帥公爵大山嚴』
第三章 精忠組脱出計畫
 
天下の形勢と島津齊彬公の計畫      第三章 精忠組脱出計畫

 嘉永安政の交に至り、幕府の秕政續出し、皇室尊奉の實を失ひ、天下の人心漸く幕府を離れんとするものあるの時、米露英佛等の諸國が、頻りに條約の締結を迫り、若し應じなけれぱ、兵力に訴へて江戸を焦土と化し、更に軍艦を攝海に進めて、禁闕を脅かさんと示威するなど、内憂外患交々臻れるも、幕府は徒らに姑息策を弄して、只一時を糊塗するのみであるから、天柱地維は益々危殆に瀕するものがあつた。
 是に於て島津齊彬公は幕府に建言するに、内は先づ皇室尊奉の實を擧げて、大義名分を明かにし、幕政を改革して、天下人心の歸一を謀り、外は和戰如何に拘らず、海防を巖にし、武備を充實して、皇威を四海に宣揚せらるべきを以てし、乃ち自ら率先して其の範を示すべく、幕府をして寬永以來の大船製造の禁を解かしめ、日本最初の西洋帆船昇平丸(この昇平丸に掲揚したる日之丸の旗は、公の建言に依り幕府が日本總船印と定めたるものにして、後の國旗日章旗の濫觴なり。)及び幾多の軍艦竝に汽船を製造し、大砲を鑄造し、砲臺を築く等、皆泰西文明の長を採つて、我の短を補ひ、其の他殖産興業を奬めて、民力を養ひ、文武を勵まして士氣を振起せしめ、開國進取の方針を以て、富國強兵の策を講じ、百年の大計、著々として其の緖に就きつゝあつたが、安政五年幕府は勅許を待たすして米國と神奈川條約を締結し、又内勅を無視して、將軍家定公の儲貳を定むるなど二つながら違勅を敢てして恬然たるものがあるから、齊彬公の憂慮一方ならず、薩藩の志士を始めとし、天下勤王有志の議論囂々として
勤王志士の蹶起と安政の大獄 沸騰するに當り、井伊大老は、若し朝廷に於て幕府の爲す所を非難さるゝに於ては、承久の故事に倣ふの外なしと傲語したりと傳へ、大老自ら上洛して、鳳輩を彦根城に移し奉るべく、既に御座船を琵琶湖に泛べたりなどと、流言蜚語盛に行はるゝので、畏れ多くも孝明天皇は、是れ朕の不德の致す所、皇粗皇宗に對して、洵に申譯なしと仰せられ、六月二十八日、關白九條煕忠、左大臣近衞忠煕等を御前に召し、御宸筆の勅書を以て、御讓位の旨を親諭あらせ給ひしかば、近衞左府等は恐懼色を失ひ、事茲に至れるは幕府の罪實に輕からず、速に三家の中一人、若くは大老を召して、違勅の次第を詰問すぺしとの朝議一決し、直に此の議を奏上して、御退位を諫止し奉つたので、主上には姑く其の議を容れさせ給ひたるが、茲に一つの疑問は、九條關白の態度が頗る曖昧で、幕府との間に一脈の連絡を取り、朝廷の御内情竝に朝議の祕密を漏して、井伊大老の便に供し、陰に陽に大老を扶くるの事實ありと稱せられ、新に所司代を命ぜられたる酒井若狹守忠義と共に、在朝正議の公卿堂上、及び在野勤王志士の攻擊非難の焦點となつた。若し此の勢を以て推し移らば、皇國は外患を待つ迄もなく、内訌の爲に瓦解せんことを憂へたる齊彬公は、空しく手を拱して之を傍觀するに忍びす、遂に意を決して、自ら精兵三千を率ゐて禁闕を護衞し奉り、以て天下諸侯の嚮背を定めんと欲し、其の準備に著手しつゝあるに當つて、端なくも同年七月十六日に病を獲て世を辭したのであつた。
 然るに幕府は毫も反省する所なく、井伊大老は益々暴威を揮ひ、幕府に不利なる水戸烈公を幽閉し、尾張慶勝と松平春嶽とに隱居謹愼を命じ、水.戸の當主慶篤と一橋慶喜との登
 
城を差止め、其の他幾多の懲罰を行ふなど、專橫到らざるなき有樣に、遂に勤王志士の蹶起と爲り、先づ九條關白を黜け、酒井所司代を逐ひ、井伊大老を斃さなければ、天下又救ふべからずとて、尊王攘夷と幕奸誅伐を實行すべく志士互に氣脈を通じて、密に義擧の事を謀つた。是時に當り、八月五日、再び御退位の勅諭あらせ給ひ、近衞左府等驚愕色を失つて諫止し奉りたる結果同月八日水戸への勅諚降下と爲り、又薩藩への禁闕護衞の内勅と爲り、更に尾張越前等十三藩(尾張、越前、薩摩、加賀、肥前、肥後、安藝、長門、因幡、備前、阿波、土佐、津)に對し、水戸への勅定謄本の傳達となつたが、井伊大老は之を以て所謂勤王志士の畫策に出づるものと爲し、酒井所司代に命じて此等の志士を一網打盡に附せしめ、九月七日梅田源次郞を京都に捕縛したるを始めとして、茲に安政大獄の端を開き、同月十七日老中間部詮勝の入洛と共に、益々志士逮捕の急なるに至つた。
是時に當り、西鄕隆盛、有村俊齋(後の海江田信義)伊地知正治、吉井仁左衞門(友實)京攝の間に在つて勤王義擧の事を謀り、間部閣老の入洛を待ちて兵を擧げ、先づ間部を屠り、同時に九條關白酒井所司代等を斃し、進んで彦根城を陷れんとし、(水戸藩京都留守居鵜飼吉左衞門より同藩江戸詰家老安島帶刀へ贈れる九月十六日夜認めの書翰)、有馬新七は江戸に出でて同藩士日下部伊三次(九月二十七日捕縛せらる)樺山三圓、堀仲左衞門(後の伊地知貞馨)等と共に越前の橋本左内、長藩の山縣半藏、土藩の橋詰明平、其の他四方勤王の志士と力を協せて義擧を謀り、京攝に於ける西鄕隆盛等と呼應して、東西一時に兵を擧げんとした。然るに間部閣老入
 
薩士の活動 洛前の九月十日、僧月照が危くなつたので、西鄕は近衞左府公の依賴を受けて月照保護の任に當り、十一日有村俊齋と共に月照を伏見に送り、西鄕は伏見より京都に引返し、俊齋は月照を大阪に伴ひ、土佐堀の薩摩屋敷に隣れる出入職人の家に潛伏せしめた。
是より先彦根藩士長野主膳は、京都に出でて頻りに虚説を捏造し、九條關白は間部閣老の入洛一日も速ならんことを望み、勅諚を水戸に降されたる經緯に關して、親しく商議せんと欲する旨を井伊大老に報じ、別に又勤王有志の姓名を列記したる一覽表を作成し、是等有志を處罰するの便に供したのであるが、茲に圖らずも是等有志の爲に一大打擊たる事件が突發するに至つた。それは九月十六日の夜、西鄕が水藩京都留守居鵜飼吉左衞門に語れる幕府討伐の計畫を、即夜吉左衞門より江戸詰家老安島帶刀へ密書を以て報告したるが、其の密書が途にして幕吏の奪ふ所となり、十七日所司代酒井若狹守の手に送り屆けられ、是日間部閣老の入洛と爲り、閣老も若狹守も此の密書を見て驚愕狼狽し、十八日には鵜飼吉左衞門及ぴ其の子幸吉を捕へて獄に投じ、且京都町奉行岡部土佐守豐常、小笠原長門守長常、伏見奉行兼禁裏向取締内藤豐後守正繩等に命じて、伏見、淀、山崎等、京都の要路を嚴戒せしめ、同時に長野主膳の人名一覽表に依つて、鷹司家諸大夫小林民部權少輔、同高橋兵部權大輔、久我家の春日讃岐守潛庵、三條家の森寺若狹守儒者梁川星巖、賴三樹三郞、三國大學、伊丹藏人、富田織部、僧六物空萬、畫家浮田一薰等を逮捕せんとし、江戸に於ては水藩の安島帶刀、茅根伊豫之助、薩藩の日下部伊三次、越前の橋本左内等、亦危急に迫り、有馬新七、
 
西鄕隆盛の計畫齟齬

西鄕と月照の西下
堀仲左衞門等も嫌疑を免れず、僧月照は既に大阪に潛伏して纔に難を避け得たるも、今や西鄕の身邊は頗る危く、形勢は急轉直下して、京攝の地は擅に魑魅魍魎の跋扈に委ぬる外なきに至つた。それは西鄕の計畫に大なる齟齬を來たしたからであるが、其の齟齬といふは、當時島津齋興老公が江戸より歸藩の際、江戸藩邸の守備兵二百五十人が交代の爲め、五百目砲四門を携へて京都に向ひ、九月十七日若くは十八日、大阪に到著の豫定であるから、之を伏見に滯在せしめ、此の兵を以て義擧に出でんとしたのであつた。然るに交代兵は豫期に反して著阪せざるのみか、老公は隨從の城代家老島津豐後に命じて、大阪藩邸の守備兵をも歸國せしにめたから、西鄕は全く陷穽の姿となり、如何に英雄豪傑でも、赤手裸體にては施すに術もなく、空しく京都に踏み留まつて、幕吏の爲に縲紲の辱を受けんよりは、暫く難を避けて、捲土重來の計を運らすに若かずと考へ、折しも筑前への脱藩士北條右門の京都に來たれるを伴ひ、有村俊齋と三人、相共に大阪に立退いたのが九月二十二日であつた。
西鄕等が京都を立退くと間もなく、町奉行小笠原長門守は、西鄕の下宿なる錦小路上る柳馬場鍵屋直助親子を喚ぴ出して糺問し、西鄕既に發足したりと知つて、直に多數の捕吏をして追跡せしめ、捕吏は伏見の定宿文珠屋四郞の家宅搜索を行ひ、西鄕の在らざるを見て、又大阪に追跡した。此等の惰報が相踵ぎて大阪に達すると共に、月照も亦危急に瀕したので、今は一日半日も猶豫の出來ない事情となつたから、西鄕は月照を件ふて薩摩屋落ちの決心を定め、二十三日の夜、有村俊齋、北條右門、僕重助を併せて一行五人、土佐堀の薩摩屋敷
 
薩藩の形勢一變 の前より一艘の小船に乘り、二十四日天明安治川口を離れて西に向ひ、十月朔日下之關に到著して、勤王の同志たる白石正一郞の宅に投じ、二日別仕立の早船を以て筑前若松に渡り、西鄕は一行に別れて鹿兒島に向ひ俊齋と右門は月照を博多に伴ひて潛伏せしめ、西鄕より月照を迎ふるの報知を待つことゝした。
西鄕が晝夜兼行して鹿兒島に歸著したのは十月六日であるが、齊彬公薨去後の藩廳の情態は全く一變し、幕府の嫌疑を避くるに汲々として、又如何とも爲すべきやうもなく、而かも西鄕を嫌疑者扱ひにし、其の名を變じて難を避けよとの藩命さへあつて、止むを得ず吉兵衞を三助と改めるなど、言語道斷の有樣であるから、月照を鹿兒島に招いて保護を加へんことは思ひも寄らぬことであつた。斯くとは知らぬ有村俊齋も、月照を北條右門に託して鹿兒島に歸つて見れば、藩内の形勢は右の次第であつて、亦た施すべき道もなく、唯だ西鄕と共に大歎息するのみで、空しく日を過ごしたのであつた。
斯かる處へ京都町奉行支配下の捕吏(中野甚介、中野勝之介等)が月照を博多に追跡し來り、筑前藩の應援を得て捕縛すべく、物色甚だ嚴密なので、北條右門等は如何はせんと痛心遣る瀨なきの時、恰も好し同志の平野次郞が肥後筑後の遊説より歸つて來たので、月照を平野に託し、平野は月照と僕重助と共に幾多の艱難を經て薩摩に入り、十一月八日夜漸く鹿兒島に到著し、九日人目を避けて西鄕月照の密會と爲り、種々將來の事を談義したのであるが、藩廳は之を知つて事態容易ならずとし、十日以後は月照を旅舍田原助次郞の處に監禁同樣に押込め、番人を附けて、他人との接見、外出、徘徊、
 
西鄕と月照の入水 書信の往復等も禁じ、西鄕さへも面會を許されなかつた。此時に當つて月照の爲に絶對絶命の最大難事が到來した。それは筑前の盜賊方二人(白石潤太、松尾平太)が、手下の目明數人を引連れ、京都の捕吏を肥後の水俣驛に待たせて置いて、鹿兒島に乘込んで來たのである。藩廳に於ては筑前侯の御眞意を知る由もないから、少なからず狼狽し、(黑田長溥公の御眞意は幕府に對して盡すべき道だけは取らねばならぬから、筑前の盜賊方をして京都の捕吏の案内役たらしめたものゝ、之をして鹿兒島城下に入らしめては、月照は風前の燈火たるは勿論であるから筑前の盜賊方のみを形式的に城下に入らしめた處に深長な意味のあつたことは、薩摩の城代家老島津豐後が筑前侯に謁して始めて承り、此の旨を鹿兒島に報告したのであるが、其の報告の到著した時には、月照既に入水死亡の後、二三日を經過してゐた。)鹿兒島城下に於て月照を縛に就かしめては、薩藩の面目にも關し、又御姻戚なる近衞家に對しても申譯がないから、兎も角も月照を藩外に出さしむるに若かずと一決し、(既に藩外に出づれば、それから先きの行動は筑前盜賊方の爲す所に任すべしとの評決であつた。)十五日西鄕に此の旨を令達すると共に、汝は今夜是非とも月照を海路より隅州福山に送り、それより日州に入らしめよ、然る後は紙屋の關に出でしむるか、或は志布志街道を取らしむるか、汝の意のまゝに方向を定めて然るべし、道案内として足輕肝煎坂口吉兵衞を附けて遣るとの申渡しであつた。古來薩藩に於ては、日向方面に護送せらるゝ罪人は、藩外に出づれば殺害せらるゝを例とし、之を「長送り」と唱へた。西鄕は此の命令に接して、月照の最後の運命を知ると共
 
に、近衞左府公より保護の依賴を受けた責任もあり、且は又齊彬公薨去後の薩藩の形勢を歎じ、最早生き甲斐なしと喞ちつゝあつたのであるから、月照一人を殺さんよりは、死なば諸共と覺悟を定め、此の夜、死出の晴れ衣を著飾り、酒肴の用意までも整へて月照を旅館に訪ひ、告ぐるに藩命を以てしたので、月照も亦其の免るべからざるを知り、二人の間に默契が成り立つたのである。斯くて午後十一時過ぎ、西鄕、月照、平野次郞、僕重助、及び坂口吉兵衞の五人同乘の小船が、鹿兒島海岸より順風に帆を揚げて、隅州福山に向ひ、西鄕は用意の酒肴を出して訣別の小宴を張り、船が鹿兒島の東北二里許なる大崎ヶ鼻に差し懸つた頃には、時既に十六日に移つて、月影も西に傾き、平野坂口等は眠りに就いてゐた。(時に月照は「曇りなき心の月の薩摩潟沖の波間にやがて入りぬる」「大君のためには何か惜しからん薩摩の迫門に身は沈むとも」の二首の辭世を西鄕に示し、西鄕も亦た「二つなき道にこの身を捨小舟波立たばとて風吹かばとて」と返歌した。)やがて西鄕と月照は相抱いて海中に身を投じたのであるが、其の水音に眠より醒めたる平野坂口等は、驚いて帆綱を斷ち截り、船を漕ぎ戻して、浮び上がれる二人を救ひ揚げたのであるが、時既に遲く、月照は四十六歳を一期として永遠の旅路に就き、三十二歳の西鄕は僅に氣息の奄々たるものがあるので種々介抱の結果遂に蘇生したのであつた。
(二人を船に救ひ揚げた時、月照は西鄕の肩に負ぶさり、兩手を左右の肩に掛け、兩足を以て固く西鄕の腰を抱いてゐたので、之を離すに平野、坂口等は隨分カを要した。それより坂口は身を以て西鄕を暖め、平野は自分の着物を脱いで月照
 
薩藩内外に於ける同志の活躍 に着せたのであるが、船中では何分不自由であるから、大崎ヶ鼻より距離の最も近い華倉坂下に船を著けて上陸し、火を焚いて二人を暖めたるも月照は遂に蘇生しなかつた。藩廳に於ては、西鄕も月照と共に水死したる旨を幕府に屆出で、蘇生後の重態を自宅に靜養せしめ、其の快復を待つて姓名を變じて大島に潛居せよと命じた。これは幕府の嫌疑を避ける爲の窮策で、罪あつての遠島でないから、一年十石の扶持米をも給せられたのであるが、病氣快復して菊池源吾と變名し、大島に到著したのは安政六年正月十二日であつた。
 西鄕の大島潛居後に於て、鹿兒島靑年有志の牛耳を執つた者は大久保一藏(利濟次に利通)であるが、當時在江戸の同志有馬新七、堀仲左衞門、有村雄助、弟有村次左衞門、田中直之進(後謙助と改む)樺山三圓、高崎猪太郞(後に五六と改む)等と遙に氣脈を通じ、内外相應じて幕奸誅戮の策を運らし、大山元帥は藩内に於ける同志の一人として、夙に此の策に參畫したのであつた。時恰も越前春嶽公は、自ら兵を率ゐて京師に出で、朝廷の爲に盡力せらるべく一大決心を定められたことを、橋本左内より有馬新七等に通じたので、新七等は此の好機逸すべからずとし、從來の計畫たる井伊大老要擊の事は、姑く之れを他日に讓り、新七は自ら西上して、先づ大阪城代土屋采女正の公用人大久保要と談合し、春嶽公の上京を待ちて共に事を擧ぐべく、堀仲左衞門は薩越聯合を謀り、鹿兒島に歸つて擧藩義旗を翻すべく盡力し、其の事困難なるに於ては、同志の者のみ脱藩して、春嶽公の壯擧に參加するに定め、路を東海道に取つて西向し、安政五年十二月中旬、鹿兒島に歸著して見れば、何ぞ圖らん入水後の西鄕は病
を其の家に養ひ、變名して大島に潛居せよとの命に接して居り、藩情は江戸に於て考ふる所と雲泥の相違があつて、只管幕府の嫌疑を怖れ、到底出兵の運び所ではなく、又同志の脱藩突出も、今俄に其の時機でないから、大久保等と談合の上再び江戸に出でて、諸藩有志の動靜を探索することに決した。時に西鄕は十二月二十九日鹿兒島を船出して、大島に向ふの途次、山川港に順風を待ちつゝ安政六年正月元旦を迎へたのであるが、大久保は堀の出發に就いて、同志の取るべき方針を西鄕に質すべく、一書を認めて伊地知正治に託し、伊地知が船中に西鄕に面して、其の書を手交したのは正月二日である。書中の要件は八箇條より成つてゐるが、肥後藩が擧兵に決したとの堀からの報知あり次第、我々同志が脱出すべきやとの問に對し、西鄕は之に答へて、それは宜しくない、先づ越前に懸合つて、薩越聯合の上繰り出すべく、尚又筑前、因州、長州の樣子にも注意し、事を擧ぐるの機會を見たならば、躊躇することなく疾風迅雷的に突出あつて然るべしと説き、幕府が水戸、越前、尾張の三藩へ此上の暴命を發しならば、突出すべきは申す迄もなかるべしとの問に對しては、それは勿論の事であつて、其の際には三藩より我が薩藩へ應援を求むるに相違ないから、三藩と力を協せて死生を共にすべしと答へ、幕府が一網打盡に附したる勤王志士を極刑に處し、且又難を公卿堂上に及ぼしたる場合は如何にとの間に答ふるに、其の場合には勤王諸藩も傍観しないであらうから、決して軽擧に出でず、諸藩と合體して力を盡すべきである、憤激の餘りに事を急ぐ時は、却つて公卿堂上の難を重からしむるの虞れあるを以てした。大久保は西鄕の此の答書の旨を同志に示
 
水薩有志の聯合 し、堀仲左衞門は此の旨を體して、再び江戸に向つて出發したのであつた。
 一方有馬新七は、長藩士山縣半藏と共に北陸街道を取つて京師に入り、十一月二十八日半藏と連署して、建白書を前内府三條實萬卿に呈し、幕府の罪を鳴らして好賊誅戮の急務なるを説き、近く弊藩の幼主又次郞君(茂久)が江戸參府の途次、伏見に著するを待つて事を擧げ、禁闕を護衞し奉ると共に、直に間部閣老と酒井所司代等を斃す手順であるから、願くは此の旨を叡聞に達せられんことを請ひ奉つた。既にして十二月八日又次郞君が伏見に到著せられたので、新七は側役竪山武兵衞に面會して天下の形勢を説き、此の際又次郞君が齊彬公の遺志を繼紹せられ、暫く伏見に滯留して朝廷の爲に盡力せらるゝの急務なるを述べ、別に同樣の趣意を認めたる又次郞君への建白書を提出したるも、竪山は遁辭を設けて受付けず、翌九日には、又次郞君は伏見を發して江戸に向ひ、後に取り殘された新七は茫然自失の態であつた所へ、京都留守居からも大坂留守居からも、幕府の嫌疑が深くて足下の身邊が甚だ危いから、速に歸藩せよと命ぜられ、涙を呑んで中國路を西向し、安政六年正月七日下之關に到著したるに、恰も堀仲左衞門の再ぴ江戸に行くに會したので、尚ほ今後の打合せを爲し、九日仲左衞門は江戸へ、新七は鹿兒島へ、各々袂を分つて出發し、同月二十一日、新七は鹿兒島城下を距る四里なる伊集院石谷村に到著潛伏したのであつた。
 堀が江戸に到著したるの頃は、越前春嶽公の出兵上洛の壯擧は頓挫してゐたので、專ら水藩士、高橋多一郞、金子孫二郞、鮎澤伊太夫、關鐵之介等と交はり、屢々會合密議を凝ら
して、井伊大老を殪さんことを約し、其の決擧の機會を待ちつゝあるの時、江戸にも京都にも大事件が起つて、薪上更に油を注ぎ、勤王志士の激昂勃發を促進せしめたのであつた。それは幕府が九條關白と結んで朝廷を壓迫し、幕府に不利なる宮堂上の貶黜を謀つた結果、安政六年二月十七日、靑蓮院宮尊融法親王(後の中川宮朝彦親王)を始め奉り、内大臣一條忠香、權大納言、二條齊敬、議奏權大納言萬里小路正房、權中納言正親町三條實愛等に蟄居謹愼を命じ、四月二十二日には、前關白鷹司政通、前内大臣三條實萬に落飾謹愼、左大臣近衞忠煕、右大臣鷹司輔煕に辭官落飾謹愼を命じ、六月二十七日に至つて、幕府は露英佛米蘭五國との條約、及ぴ税則を天下に公布し、且つ神奈川、長崎、函館の三港に於て外國貿易を許可したる旨を朝廷へ屆捨てにし、暴状不臣の有らん限りを盡したるが上に、八月二十七日には、去年謹愼幽閉を命じたる水戸老公を再び處罰して、藩地の水戸に永蟄居を命じ、水戸現當主中納言慶篤に差扣、一橋慶喜に隱居謹愼を命じ、水戸の家老安島帶刀を切腹せしめ、同藩士茅根伊豫之介、及び同藩京都留守居たりし鵜飼吉左衞門を斬罪に、吉左衞門の子幸吉を獄門に、同藩士鮎澤伊太夫、竝に鷹司家諸大夫小林民部を遠島に、京都の儒者池内大學を中追放に、近衞家老女村岡を押込に處し、越前の橋本左内、長州の吉田松陰等も、亦近く死刑に處せられんとするなど、幕府の亡状は最早勤王有志の默視すべからざる所となり、九月江戸に於ける水薩兩藩同盟の士は、斷乎として從來の計畫たる井伊大老の誅戮を決行するに定め、檄を諸藩の同志に飛ばして、相共に奮起せんことを促した。その檄文は左の通りである。
 
水薩有志の檄文      水薩有志の檄文
嘉永癸丑墨夷浦賀江入港以來、征夷府之御處置方、古今時勢之變事も有之、一概に御國威御主張至難之儀者、治世之風習、左も可有之事候得共、夷狄之貪惏元より無饜、邪蘇之術中に陷り、神洲之泰否に拘り候重大之事に候得ば、華夷之辨、和戰の機、始終着眼之大基本、廟議御一定之上、御變革無之候而者不叶筈候所、近年諸蠻夷之御扱振推察候に、御廟算如何可有哉、去る卯年迄は追々内備嚴重之御達も有之、邊海之守衞被仰付候大名に至而者、多年防禦之爲、國カを費し、被勵忠勤處、不圖も去辰年和親交易被差許、恐多も征夷將軍之御居城江夷賊登城被仰付剩御饗應尊敬を被盡候有樣、古今比較之致樣も無之實に冠履倒置之御措置、と可申、縱令御國政之儀、關東江御任に相成居迚、斯る重大之事件、僅か掛り之有司數輩之了簡を以、五箇國江本條約取繕、將軍家御印章之御書翰迄被差遣候始末、何程偸安之末賂、戰爭に及候儀を恐懼致候迚、天下後世に對し、大義名分與申も有之、征夷之御任如何可有之哉、德川家譜代恩顧之有志、東照宮之神靈江奉對、沈默傍觀致居相濟可申哉、忝も武門之列に連り、二百年の恩澤に浴し候者、不堪幽憤儀には無之哉、斯く天下興亡之機關に迫り、苟も生を偸み愧を忍び、因循姑息罷在候儀、大丈夫之魂には決而有之間敷、陳る迄も無之天下之所見聞に候得共、前件夷狄交易之儀、如何とも勅許申受度所存に而、去る午年春、堀田備中守并川路左衞門等上京致し、百計手段を盡し、金銀賄賂を以、關白殿下を奉欺、無勿體も
龍顏を可奉暗與陰謀祕計不一方候所、
今上皇帝聰明絶倫千歳不世出之
 
聖主に被爲渡、皇國開闢以來、尊嚴之國體、淳厚之風俗、
今上之御代に及ぴ、夷秋之爲に被致汚穢候而者、第一伊勢
大神宮御初、御歴代被爲對、
王位之御任不被爲濟、戰を被爲好には無之候得共、國體を不失、萬民安堵に被遊度與之
叡慮より、かしこくも一七日之間、供御を御絶被遊、石淸水江御祈誓被爲寵、關東より如何樣被申立候共、一切 御許容難被遊、萬一非常之節は、萬里之波濤を越え、孤島に被爲終候共、御慽不被爲在候得共、泉涌寺を御離れ被遊候事難被爲忍與竊に
宸襟を御濕し被遊候御事傳承仕り、四海人民誰在て血涙に不咽哉。當此時神國之命脈、實に累卵よりも危き事候所、百官群臣忠憤切齒之餘り、八十八人之堂上方禁中江馳參り、萬然之力を以諫奏を奉り、其外有志之大名、竊に勤 王之微忠を被爲獻候故、三公御初彌增感憤被遊、近畿及ぴ數箇所之開港、并夷狄永住、邪敎寺建立等之儀は、一圓 御許容難被遊趣、
勅命を以御下知被爲在、猶又内地人心之居合如何に付、大小名之赤心も被知食度尤衆議奏聞之上、
叡慮難被決候はゞ、伊勢
大神宮神慮可被伺與之御儀、三月二十八日議奏傳奏衆より、堀田備中守へ御返答書被差下俄に下向被 仰出之由候處、夷狄内條約之儀は、遠に被差許候事故、諸大名之赤心、右體達
叡聞候事不相成仍之表向天下江意見建白之御達は有之候得共、蔭より岩瀨肥後守等を以、專ら西洋之事態を強大に主張し、交易御差許は一時之權道に而無御據萬一關東之御旨意に違候而者、家之爲に不相成と、吉凶禍福を以て説入、猶又御三家
 
方江は、建議之文意認直候樣、御内諭も有之候由候得共、水戸前中納言殿には、關東輔弼之名將に而、尊 王攘夷之御論始終相貫き、御廟算伺書といふ書一册、當今之急務より將來之大害を丁寧誠實に建白被致、尾張中納言殿にも御内諭に不泥、京師之 御旨意に本き御所置無之候而者不相濟與被申立候由、其後彌
勅許之有無に不拘、關東之御決斷を以假條約御差許に相成候樣に付、御三家には尾張殿、水戸殿、御三卿には田安殿、一橋殿、御家門には越前殿、忠誠無二之御方一同登城に相成、將軍家江御對顏被願候所。御所勞に付御逢無之、依而元老井伊掃部頭初御呼出し、
勅命御遵奉無之、假條約御差許に相成候而者、將軍家御違
勅之罪御遁被遊間敷、東照宮以來、御代々樣江御對、如何可有之哉、各方之丁簡も承度旨、御一同御演述に相成候所、御目前に而者、掃部頭初致畏服候由候得共、執頭之威權を以我意に募り、不日に條約差許し、恐多も將軍家を御不忠御不孝に奉陷、德川氏之御稱號を千百歳之後迄奉穢而巳ならず、人事をも御辨無之、將軍家御大病之砌に乘じ、無實之罪を羅織し、御親戚之御方々迄奉禁錮、其他正議之大名松平土佐守始兩三人隱居せしめ、御威光を以、御幼君之御時節を幸とし、御三家方之權勢を摧ん爲、御連枝又は家老にて、主家を押領せんと奸曲之巧み有之、松平讃岐守、水野土佐守、竹腰兵部少輔等、徒黨に引入、種々之奸計を施し、且我意に隨ひ不申正議之人板倉周防守、佐々木信濃守貶斥いたし、東照宮以來之美意良法、近日破壞に及候事、長大息之至に候。其後八月に至り
 
叡意難被默視三家大老之中上京致候樣
勅書相下候處、御請にも差支、水戸家之儀は、不平之儀有之愼申付、掃部頭儀は、御用多に而上京難相成、且先輩堀田備中守等取扱之儀、今更致方も無之、仍而嚴重に申付候旨、議奏衆迄申立、己が逆罪を遁れ可申與相工み、間部下總守上京爲致、專恩威を以到壓倒賄賂を以九條殿下を逆徒に引入れ、内藤豐後守江申付、御所向取締增嚴重にいたし、恐多も
天子御讓位をも被遊候樣奉要候得共、三公方御賢明之御方、ますます奉輔佐
叡慮候に付、
朝威確乎として御搖不被遊、依之御羽翼を奉殺、上下隔絶いたし、御孤立之勢に取計、無實之御罪申觸れ、鷹司殿、近衞殿、三條殿、御遠慮御愼被遊候樣奉仕向、其他諸大夫始全罪科無之者を召捕へ、關東江差下し、專虎狼之猛威を振、天下を屏息せしめ、當年に至り、畿内之開港、又は邪敎寺取建等、本條約差許し、且靑蓮院宮樣御英邁を奉忌、御失德有之樣申觸し、御寺務取揚、奉幽閉候所業、乍恐
玉體にも可奉迫機顯然に而、北條足利之暴橫よりも甚敷、不共戴天之國賊與可申候。此儘に打過候はゞ、赫々たる神州一兩年を不出、内地之奸民邪敎に靡き、彼が勢焰を助け、遂に全國低頭平身して、彼が正朔を奉候事掌上に候。周衰る、婦人すら不恤緯して、周家之亡るを憂しに、まして
二千年餘之
天恩を戴き三百年來 東照宮之恩澤に浴候者、一日苟且相過時節に有之間敷、幸 東照宮之德澤未墜地、御三家御一門家には、尾張殿、水戸殿、一橋殿、越前、阿波、因州如き、德
 
精忠組脱藩突出計畫 川家輔佐之良將も有之、外諸候にも、薩州、仙臺、福岡、長州、佐賀、土佐、宇和島、立花等、忠憤之御志無怠有志之諸候方も、不少事に候得ば、諸藩之有志江合力同心して、奉内奏候上、十月中を期として、惱
叡意亂德川家候姦賊一兩人誅伐いたし、右之頭を提夷狄江示し、條約取返し、奉安
宸襟本朝安堵 皇威復び四夷に耀候樣いたし度候間、各方之御志之程承度、感激幽咽之至に不堪布腹心謹白
 巳未九月
 斯くて同月堀仲左衞門は、江戸より京都に上り、此の檄文に添ふるに朝廷への願書を以てし各一通を靑蓮院宮と近衞忠照卿とに奉呈し、事の由を叡聞に達し給はんことを願ひ出でたのであつた。
 これと同時に鹿兒島に於ける精忠派の人々、それは西鄕、大久保を領袖とする勤王靑年組で、當年十八歳の大山元帥を始めとし、凡そ一百人を算するのであるが、西鄕は既に大島潛居中であるから、今は大久保が牛耳を執り、元帥等は腕を扼して、從來の計畫たる斬奸の機運の熟するを待つてゐたのであつた。恰も好し江戸に於ける水薩有志の井伊大老誅戮の計畫あるに際したので、事茲に及んでは最早他を顧みるの遑もないから、江戸と東西相應じて京都に出で、九條關白と酒井所司代とを斃して、勤王義擧の血祭に上げ、一同潔く討死したならば、諸藩勤王の士も亦た相踵ぎて起り、必すや尊王倒幕の擧に出づるであらふ、然る時は吾等は決して犬死ではなく、故君齊彬公の遺志を奉じて、大義の爲に先驅たり得ると談義一決に及び、互に血を啜つて、密に脱藩突出計畫の斷
 
血誓の人數  行を誓つた。其の人數は凡そ左の通りである。

大久保一藏(利通)、岩下佐次右衞門(方平)、堀仲左衞門(伊地知貞馨)、有村俊齋(海江田信義)、大山彦八(成美、元帥の實兄)大山彌助(巖)西鄕龍庵(信吾、從道)、有馬新七(正義)、吉井仁左衞門(幸輔、友實)、奈良原喜左衞門(淸)、奈良原喜八郞(繁)、伊地知龍右衞門(正治)、鈴木勇右衞門、税所喜三左衞門(長藏、篤)、森山新藏(棠園)、樺山三圓、中原猶介、山口金之進、本田彌右衞門(親雄)、高橋新八、橋口壯助(隸三)、柴山愛次郞(道隆)、橋口傳藏(兼備)、大山正圓(格之助、綱良)、森岡善助(昌純)、松方金次郞(助左衞門、正義)、村田新八(經滿)、仁禮平助(景範)、三島彌兵衞(通庸)、弟子丸龍助、有村雄助、有村次左衞門、增山三次、江夏仲左衞門、柴山龍五郞(景綱)、永山萬齋、野津七左衞門(鎭雄)、野津七次(道貫)、道島五郞兵衞、有村如水(國彦)、鈴木源右衞門、鈴木昌之助、高崎猪太郞(五六)、田中直之進(謙助)、鵜木孫兵衞、赤塚源六(眞成)、坂木六郞、德田嘉兵衞、田中新兵衞、大山彦助、坂本喜右衞門、大山角右衞門、野本林八、山之内一郞、山之内作次郞(貞竒)、高橋淸右衞門、中原喜十郞、山口三齋、森山新五左衞門、益山東碩、平山龍雲、坂木藤十郞、谷村愛之助(昌武)、永田佐一郞、神宮司助左衞門、伊地知源右衞門、大山十郞、高島一次、中島健彦、房村猪之次、貴島淸、田代稻麿(義德)、深見休八(有幸)、平山新助、木藤彦次郞、山口彦五郞、大野四郞助、高崎善次郞、竹内三十郞、坂元彦右衞門、吉田淸右衞門、五代東一郞等
 
突出の準備成る  以上人數の中、或は江戸に在る者、京都大阪に在る者、若くは旅行中の者を除き、在藩者四十餘人を三組に分ち、一組には大久保一藏、一組には有馬新七、一組には大山正圓を各組長として、門地名望ある岩下佐次右衞門を總取締に推し、一切の軍資金は森山新藏之を擔當することゝなり、先づ鰹船二艘を購ひ、田中新兵衞を船長とし、糧食等を整へて、突出の準備殆ど成り、吉井仁左衞門の如きは父に宛てたる左の遺書を認めたのであつた。
  〔吉井仁左衞門の遺書〕
私事今度士臣の分を不盡候而不叶儀有之、御暇乞をも不申上京師に出張仕申候、生きては再可歸儀に無御座候間、御杯共頂戴仕趣意をも得と申上出足仕筈御座候得共、同盟四拾餘人堅申合候儀御座候間、不本意千萬御座候得共、態と不奉告、爲御知申上候へば、却而御喜び御勸め可被下奉存候得共、何分前文通申合候儀御座候故、無是非次第御座候、尤も趣意之儀者、御家老座え向け一封差出置申候間、自ら追々御聞及可有之奉存候、只此節に至り難忍者、御老身之御末如何と是而氣懸り御座候得共、古より大義之爲に父母妻子をも不顧身命を捨候儀、士たる者之職分に而素より甘心可仕儀に御座候間、何卒宜御推計被下候而折角無御障御渡り被下度奉合掌候、妻子之儀者別段可申上置所存無御座候間、平次郞樣、藤左衞門樣抔被仰談何分宜御願申上候母上樣御遺言之旨も被爲在候間、御一生者成丈御不自由無之樣不仕候而不叶儀と兼々承用意致居申候間、少者安心仕居申事に御座候、私儀は天朝之御爲、且御國家之御爲順聖公之御遺志に隨ひ、隨分働申候間戰死仕可申、誠以武士之冥加無此上、色々申上度儀山海御座侯得共、
 
太守茂久公自筆の諭書  只至要之事迄申上置度如此御座候、恐惶謹言
 九 月               吉井仁左衞門
  父上樣
 右の吉井の遺書に在るが如く、元帥等は此の突出計畫を絶對祕密に附し、同盟以外に對しては、骨肉の親といへども之を告げざるを約し、所謂大義親を滅すとも勤王先驅の犧牲たるぺく、順聖公即ち齊彬公の遺志を繼紹して、忠誠天日を貫かんとする壯烈なる意氣を窺ふに足るのである。
 然るに此の計畫は、未だ實行に至らずして、端なくも藩廳の要路に漏れ、久光、茂久二公は事態容易ならずとし、種々御協議の結果、同年十一月五日を以て、茂久公自筆の左の諭書を下されたのである。
方今世上一統動搖不容易時節に而萬一時變到來之節者、順聖院樣御深意を貫き以國家可抽忠勤心得に候、各有志之面々深く相心得國家の柱石に相立我等の不肖を輔、不汚國名誠忠を盡呉候樣偏に賴存候、仍而如件
 安政六年己未十一月五日       茂 久(花押)
   精忠士面々へ
 右諭書中に「以國家可抽忠勤心得」とあるは、薩藩の社稷を賭しても勤王の爲に盡瘁せ
んことを誓はれたるものであり、「不汚國名誠忠を盡呉候樣」とあるは藩祖忠久公以來七百年の盛名を汚すことなく、國家の柱石と爲つて、盡忠報效の至誠を捧ぐべく依賴に及ばれたのである。斯くの如く太守公より直接其の臣下に對し、極めて懇切叮寧、恐懼措くべからざる諭書は、實に前例を見ない所であり、將又斯く迄の一大御決心あらせらるべしとは、何人も思ひ測らぬ所であつたから、
 
諭書に對する請書  大久保は申す迄もなく、元帥等一同は感激身に餘つて、隨喜の涙を流し、翌六日連署して、左の請書を奉呈した。
請書
方今世上一統不容易時節に付萬一變事到來之節者
順聖院樣被爲貫 御遺志以 御國家
天朝奉護被抽 御精忠候尊慮之趣以 御書取 御内諭被爲仰聞謹而奉拜見候卑賤之私共存立候子細被聞召通御旨被爲在不容易 御機密之 御深志 御洩被仰付實以難有不奉堪恐懼候畢竟是迄之御國體に而者姦賊妨害之恐も有之萬一變事到來之節全國義應速に難被爲調候はゝ乍恐
順聖院樣 御在世中
朝廷 御尊奉之 御遺志難立御座候に付聊爲 御國家奉盡臣子之分度素志に而不得止一同申合候得共右樣被爲貫 御遺志御忠孝之 御大志御卓立被爲在候上者被爲對御租先樣 御國家千載不朽之御美事與一同難有畏伏候仍而奉請御意候證書如斯
   未十一月六日
 右請書中に「御國家」叉は「御國体」とあるは、いづれも薩藩を指したもので、一同は此の請書を奉呈して脱出を思ひ止まり、將に來らんとする一大機會を待つべく、鳴りを鎭めて天下の形勢を注視したのであつた。
 此の請書連名の筆頭には、菊池源吾の名を記して呈上したのであるが、後日大久保より改めて大島潛居中の西鄕へ手紙を以て、突出義擧の事は、畢竟貴兄の意見に依つて、一同決心したのであるから、貴兄に無斷ではあつたが、請書の連名筆頭に貴名を記入したと報告し、諭書の寫を添へて事後承諾
擧藩一致  を求めたのである。之に對して西鄕からの返書中の一節に、
然處不容易御直書迄の一條夢々如斯時宜に及申間敷と考居候處何とも難有御事只々此死骨さへ落涙仕候儀に御座候畢竟諸君の御精忠感應と飛揚仕候次第に御座候御國家の柱石に相成れとの御文言奉恐入候御事に御座候
 思ひ立つ君か引手のかぶら矢は
      ひと筋にのみいるぞかしこき
 一筋にいるてふ弦のひゞきにて
      きえぬる身をもよびさましつゝ
尚々周公旦の御忠膽實に奉感佩候
とあつて、感激驚喜の状は言外に溢れ、尚且つ太守茂久公を周の成王に比し、補佐の任に在る久光公を周公旦に擬して、其の勤王の大志に對し、言を極めて贊嘆したのであつた。茲に最も注意を要することは、此の諭書あつて以來、大久保を始めとし、元帥等有志一同は、少數者の輕擧妄動を戒め、擧藩一致、上下協力して事に當るに決したことである。乃ち一同は從來の如き脱藩浪人説を據棄し正々堂々、勤王の爲に盡すことゝなり、茲に一大新時期を劃して、他日の王政復古、囘天の偉業に向つて遭進することゝなつた。
    ×     ×     ×     ×
     猪の陣羽織
二十五日でありました。私は日曜であリましたから、文部省の繪畫展覽會に見物にまゐり、夕方この話を父上に申上げ、色々近世の繪畫に就き御物語り致しました。父上の十八歳の頃、京都に出られて買求められた陣羽織に、當時有名な畫家梁川文麟の所に行かれ、これに揮毫を依賴せられました。文
 
  鱗は心よく靑年の希望を入れましたが、畫題は何にするかと問ひました。靑年父上は直に野猪がよいと返辭しますと、文麟は笑ひ乍ら、昔から智慧の足りないものを猪武者と云ふのに、何んで猪が畫いて欲しいのかとの反問に、若い武家は言下に、今時は猪武者でなくては、との答に文麟は手を拍つて、これは面白い、これは面白いと繰返しながら、其陣羽織を着て背向に座らせ、着たままの羽織に、墨痕鮮に大きな猪を畫きました。父上はこの陣羽織を長く御召しでしたが、後年誰れかに與へ今はない。又文麟には其時銀三枚を御渡したことを記憶して居ると御話になリました。
   大正三年十月二十七日        大山家日記
 
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