日本史探偵団文庫『元帥公爵大山嚴』
第四章 寺田屋事件
 
島津久光公の大擧東上の決意と準備      第四章 寺田屋事件

 安政の大獄、櫻田門外の變など相踵ぎて起り、幕府は内に人心を失ひ、外交亦た宜しきを得ず、天下の形勢最早救ふべからざるものあらんとするので、島津久光公は今ぞ齊彬公の遺志を繼紹して起つべきの秋なりとし、文久元年十月、遂に薩藩の社稷を抛ちて、公武の間に周旋すべく一大決心を定め、明年春を期し、太守茂久に代り自ら大兵を率ゐて上洛し、勅命を奉じて關東に出で、幕府をして改革を斷行せしめ、皇室の尊奉、皇威の振張を計ると共に、公武一和の實を擧げ、然る後外交問題に及ぶべく、若し幕府にして改革を斷行せざるか、又は尊皇の實を擧げざるに於ては、止むを得ず最後の手段に出でて、兵力に訴ふるの外なしと覺悟したのであつた。
此の覺悟の下に、公は準備行動として先づ使者を江戸及ぴ京都に遣し、朝廷へは勤王の至誠を表し奉り、幕府へは豫め改革意見を述べ置くの必要あると共に、太守茂久の再度の參勤猶豫を請はしめ、以て公出府の素地を作さしめんが爲に、十月十一日堀次郞(仲左衞門の改名)に命じて江戸に出發せしめ、次郞は途に京都に入つて近衞家を訪ひ、公の大策を稟申し、且つ公武一和の急務なるを入説し、既に江戸に著するや、幕政改革の要件を有司に豫告すると共に、太守の參勤猶豫に關し、再三願書を提出したるも、幕府は之に答へないので、鹿兒島出發の際、大久保等と密議したる非常手段を執るに決し、十二月七日午後、自ら火を芝三田の薩邸に放ちて之を燒いたのである。勿論幕府へは失火として屆出で、薩邸燒失を口實に更に太守參府の猶豫を出願に及んだので、幕府も止む
を得ず之を許し、薩邸再築費迄も下賜して、明年九月には必ず參府せよと令達した。是に於て久光公は、明年春、幕府への御禮言上と薩邸再築の監督とを兼ねて參府する旨を屆出で、幕府は公の出府を妨げなしと指令したのであった。
江戸に於ける策略は、茲に一段落を告げたのであるが、京都に於ては、朝廷に對して勤王忠誠を表明し奉る事、近衞家と一層の親交を計る事、竝に時事を建議して朝旨を請ひ奉る事の三要件を具備せねばならなかつたから、久光公は十一月九日、中山尚之介(後中左衞門と改む)をして京都に向はしめ、勤王忠誠を表明し奉らんが爲に、薩摩の刀匠波平行安の御劒を獻納せしめたるが、尚之介は十二月上旬近衞家に賴つて之を進獻し奉りたるに、叡感斜ならず、畏くも左の御宸筆の御製を下し賜ひて、久光、茂久二公の恐誠を御嘉賞あらせられた。
文久はじめの年季冬物部の忠魂磐石をもつらぬく利劒送こせる事時世にあたり實に憂患をはらふ志を賴母しく思ひつゝよめる歌
 世をおもふ心の太刀と知られけり
       さやくもりなき武士の魂
又近衞家と一層の親交を計ることは、近衞家に賴つて朝廷と薩藩との接近を冀ふ所以であるが、之が爲に支族島津兵庫久長の長女貞子を久光公の養女として、大納言近衞忠房卿の御簾中たらしめんとし、此の婚約一條も芽出度成立を告げたのであつた。そこで中山は御宸筆の御製を捧持し、十二月二十四日鹿兒島に歸著し、併せて近衞家との婚約成立をも復命した。
 
西鄕隆盛の召還と小松邸に於ける論議 是に於て殘る問題は、時事を建言して朝旨を請ひ奉る一事であるが、これは時機尚早なりとの近衞忠房卿の意見で、中山は其の旨をも復命した。然るに久光公は押切つて之を實行するの決心であるから、中山の歸著後三日なる十二月二十七日、大久保一藏に上京を命じ御宸筆の御製を拜戴し奉りたる御禮の言上、近衞大納言との婚約成立の御請、且は幕政改革著手の順序方法に關し、近衞家より朝廷向への斡旋を依賴に及ばるゝ件々を取扱はしめた。これぞ大久保が初めて天下の檜舞臺に立つて、其の手腕を揮ふべき時機に際會したのであるが、近衞家に於ては、和宮御降嫁問題の御決著直後の今日、更に幕政改革に關して勅諚を幕府に下さるゝは、事を二三にする虞れありとし、且又大兵を率ゐて朝廷を守護し奉らんとの事は至極當然ながら、却つて或は輦下の騷擾を招かんも測り難ければ、今は尚ほ其の時宜に非ざるべしとて、此の旨を忠房卿より久光公へ答書せられ、大久保はそれを携へて鹿兒島に歸著したるは、翌文久二年二月上旬であつたが、久光公は大久保の歸著を待たずして、正月七日家老喜入攝津をして、二月二十五日公鹿兒島發駕の事、竝に九州路中國路等の日程迄も公表せしめられたので、大久保の復命ありたる後も、公は豫定の方針を變更することなく、斷乎として兵を率ゐて東上するに決した。
斯かる計畫は、固より薩藩の興廢存亡を賭しての事であり、且は元和偃武以降未だ曾てあらざる驚天動地の大問題であるから、天下の耳目を聳動せしめたるは勿論、四方勤王の志士をして千載一遇の好機なりとして蹶起せしむるに至り、之が統制收拾其の人を得なければ、却つて或は不測の禍害を招か
西鄕より久光公への諫言 んも亦た知るべからざるものがあるので、大久保等は西鄕隆盛の召還を久光公に歎願すること再三に及ぴ、公も漸く之を諾して召還することゝなり、菊池源吾の西鄕は、在島三年に因みて大島三右衞門と改名し、文久二年二月十二日久し振りで大島より鹿兒島に歸著したのであるが、我家に入らずして直に大久保と共に小松帶刀邸に入り、中山尚之介も來り會し、四人一座の席上、久光公東上の大策に就いて西鄕より、一、公上洛し幕政改革に就きて勅綻を請ひ奉る手續順序如何。二、勅綻奉行に就きて幕府之を拒絶した場合の對策如何。三、幕府の違勅の罪を責めて、大義名分を明かにするの方法如何。四、以上の諸問題を解決せんが爲に時日を遷延し、其の間幕府は諸外國と結び、軍艦を攝海に差向けて京師を脅さば、之に應ずるの策如何と質問に及ぴたるが、中山等は答ふることが出來ないので、西鄕は然らば今囘の御上洛は更に他日に延期せらるべく、目下焦眉の急務は勤王諸大藩の合從連衡を謀るに在りと論じて、是日の會議は不得要領に終つたのであつた。(この會議に於て西鄕は、先君齊彬公ならぱ斯かる場合に大事を成し遂げらるべきも、久光公は地五郞であって齊彬公の脚下にも及ぱれないから、充分の素地を作つてからでなければ大事の決行は覺束ないと言つた。地五郞は薩摩の方言世間見ずといふことであるが、中山は之を久光公に申上げたので、公は西鄕といふ奴は無禮者だと、御機嫌斜であつたと傳へられてゐる。)是に於て西鄕は、十五日直接久光公に謁し、忌憚なく意見を開陳すると共に、諸大藩の合從連衡を謀られての後でなければ、單獨にては御決擧成就の見込も相立ち申さず、且つ又四方有志の徒京攝の間に雲集し、必ずや不
 
勤王有志の計畫 測の變動を生ずべければ、今囘は御東上御中止あつて然るべしと諫言に及んだので、公は梢不安を感じ、一旦公布せしめたる二月二十五日の發駕を延期すると共に、更に西鄕に命ずるに、合從連衡は暫く他日に讓るとして、兎も角も現在の場合を以て最も適當と認むる立案を書面にて提出すべきを以てした。それで西鄕は第一、公の參府を延期し、家老をして名代たらしむること。第二、到底參府を延期せられ難しとならぱ、鹿兒島より海路江戸へ直航し、京攝に於ける浪士等の變動を避けらるべしとの二策を提出したので、公は之を藩議に問はしめたるに、藩廳は二策共に之を採用せず、矢張り前定の通り出府せられ、其の途次入洛せらるゝを可とすと決したので、公は此の議を容れ、いよいよ三月十六日を以て鹿兒島出發の事を再び公布せしめた。是に於て西鄕は斷然身を退くに定め、二月十七日飄然として指宿温泉に向つて去つた。
是より先、久光公東上に決するや、藩内の士氣大に昂り、公に隨從を命ぜられざる者は、密に脱出して京攝の間に潛伏し、諸藩勤王有志と連携して相共に難に殉せんとするに至り、就中大山元帥等の同志たる有馬新七、田中謙助等の如きは、藩内に在つて氣脈を諸方に通じ、江戸詰を命ぜられたる柴山愛次郞、橋口莊助等は、又途に諸藩の同志を糾合し、肥後の川上彦齋、松村大成父子、宮部鼎藏、蒲生太郞、轟武兵衞、鹿子木兵助、久留米の眞木和泉及び其一族門弟、筑前の平野次郞、秋月の海賀宮門、豐後岡藩の小河彌右衞門、佐土原の富田猛次郞等に應じ、江戸の同志は閣老安藤對馬守等の幕奸を誅すべく(文久二年正月十五日水藩士平山兵介、小田彦二郞等、對馬守を坂下門に要擊して之を負傷せしめたるも、其の
諸藩有志の入薩 報未だ同志に達せず。)九州の有志は京師に出でて、九條關白、酒井所司代を斃し、然る後久光公の上洛を待ちて錦旗を翻へし鎌倉以前の大御代に復し奉ると共に神州萬全の基本を確立し、更に外夷を掃攘して、以て朝廷を富岳の安きに置奉らんことを約し、別に平野次郞は、長藩士周布政之助に謀り、藩主毛利慶親公をして、江戸より京師に入つて、久光公と會合せしめ、薩長連合して大事に當るべく若し長州全藩擧げて之に應ずること能はざる場合には、吉田松陰の門下生を誘引すると共に、更に平野より肥後藩に説きて薩長肥三藩有志の兵を京師に出すの策を運らすに定め、既に京都に到著したる芝山、橋口は、田中河内介及ぴ淸河八郞と會見し久光公の上洛、九州志士の奮起、竝に義擧斷行の決議を告げ、河内介等に贊同して、久光公を待受けることになつたから、芝山、橋口は伊牟田を伴ふて江戸に向つた。
是時に當つて元帥等の同志樺山三圓は、書を長藩の周布政之助、久坂元瑞に寄せ、薩長二藩の有志相結んで義擧に出でんとの江戸に於ける前約を促したので、茲に長藩士入薩の計畫と爲り同藩士來原良藏を使者とし、名を國産交易に託して鹿兒島に派遣し、久坂玄瑞も亦た別に堀眞五郞を入薩せしめ、相共に形勢を探知せしむることゝし、三月四日來原先づ鹿兒島に到著したるが、時恰も久光公東上の直前に際し、鹿兒島は鼎沸の有樣で、他藩士と應接するの餘裕がないから、小松、大久保等は來原の來麑を喜ばず、來原は滯在二三日にして、手を空うして歸途に就きたるが、來原より稍後れたる堀眞五郞は、北薩阿久根の關門に阻止せられて、入薩折衝の爲に滯在中、豐後の小河彌右衞門、高野直左衞門、肥後の宮郡鼎藏、
 
眞木和泉の入薩と保護 松田重助、山田十郞、堤松右衞門等も亦た阿久根に來るに會した。曩に來原の鹿兒島に入るを得たのは、表面上兎も角も長藩の使者たる名義であつたからで、今此等の諸士は私用を以て入薩せんとするのであるから、規定の通行手形がなければ關門の通過を許されないので、山田十郞と堤松右衞門は、事面倒なりと見て肥後に歸り、堀、小河、高野、宮部、松田の五人は一策を案じ、轉じて天草の牛深港に渡り、牛深より密に薩州市來港に上陸した。それが三月七日で、直に書を大久保及ぴ有馬新七、田中謙助等に贈つて面會を求めたるも、遂に鹿兒島に入るを許されず、有馬、田中等、市來に馳せ來つて事惰を告げ、尚ほ今後の計畫を約して袂を分つた。
當時筑後水田に幽居中の眞木和泉は、脱走して薩摩に入り、久光公の從士の列に加へられて上洛せんと欲したるが、時恰も田中河内介が靑蓮院宮の令旨を奉じて九州に入り、同志を糾合せんとするの報に接したので、今や遲しと待てども、遂に西下の模樣がないので、一族及ぴ門弟等數人をして、上國の義擧に加はらしめんが爲に先發せしめ、二月十六日和泉は、白晝公然幽閉を破つて脱走し、二男菊四郞、淵上謙三、吉武助左衞門の三人之に從ひ、一行四人肥後路を取つた。(和泉脱走の當夜、久留米の原道太、荒卷羊三郞、古賀簡二、中垣健太郞、島田陶司の六人も、亦た脱走して、路を豐後に取り、上國に向つたのであるが、眞木は勿論之を知る由もなかつた。)斯くて眞木の一行は、無事に阿久根の關門通過の許可を得て、二十七日鹿兒島城下に人り、久光公を盟主として勤王の義擧に出でんとする兵革三策なるものを、大久保を通じて公に呈したるが、藩廳は眞木の入薩に依つて藩士の動搖せ
西鄕の先發東上 んことを虞れ、其の東上を促して一旦大隅に向はしめたるも、久光公に先んじて東上せしむるは虎を野に放つものなりとの議論出で、再ぴ鹿兒島に呼ぴ戻し、久留米藩の探索急なるを以て、暫く當地に潛伏すべしと告げ、名を保護に託して優遇を加へ、久光公出發後の三月二十九日に至つて始めて出發せしめ、四月二十一日眞木の一行は漸く大阪に著し、翌二十二日薩摩屋敷の二十八番長屋に入るを得たのであつた。
斯くの如く諸藩有志の入薩、及ぴ久光公を盟主として東西決擧の計畫等實に容易ならぬものがあるので、之を鎭撫するにはどうしても西鄕の力に俟たねばならぬ、其の西鄕が瓢然として指宿温泉に去つたので、西鄕の大島より召還に就いての當面の責任者たる大久保は、一方ならず心を痛め、只管西鄕の歸來を待つてゐた。或は察するに使を遣して其の歸來を促したのではあるまいか。三月上旬に至り西鄕は歸麑して、城北西別府の別墅に入つたので、即日大久保は西別府に西鄕を訪ひ、久光公斷然東上に決せられたる以上は、吾々は其の事に從つて最善の策を講ずるより外はない。然るに今や諸浪士の形勢ますます切迫し、公の上洛を待つて一大變動を起さんことは必然であるから、貴君先づ京攝の間に出で、四方有志の士を統制せられなければ、恐らくは救ふべからざる大事に立ち至るに相違ないと、切に西鄕の奮起を促したので、西鄕も之れには同感で、深く有志の輕擧妄動を憂へてゐた折柄であるから、之れが統制鎭撫の任に當ることは敢て辭しない覺悟だと答へた。大久保は大に之を喜ぴ、久光公に謁して西鄕の先發を請ひ、公は之を許して、然らば途に九州諸藩の形勢を視察し、下之關に於て豫の來著を待たしめよと命じ、三月
 
下之關の混雜と西鄕の無斷東上 十三日西鄕は村田新八を伴ふて鹿兒島を出發したのであつた。(久光公の考へでは、西鄕は月照と共に水死したる旨を幕府に屆出でゝあるから、今尚ほ幕府の嫌疑を憚らねばならぬ。就ては大島三右衞門の名を以てしても、下之關以東の單獨往來は世人の耳目に觸れて、西鄕の爲にも危險の虞れがあり、薩藩の爲にも風聞宜しかるまじ、但し九州路ならば差支もなかるべければ、下之關に待たせて置いて、それより公の行列に加へられる豫定であつたものと見える。)當時下之關には、薩藩軍用米買入の爲に、森山新藏(棠園)が同地の有志白石正一郞の宅に滯在中であつたが、下之關は九州と上國との往來の要衝であるから、此地を通過する勤王の志士は、必ず白石を訪問し、或は宿泊するを常とし、三月十四日には長藩の久坂玄瑞と土屋彌之助、十五日には土州脱藩の吉村寅太郞、十六日には鹿兒島に使したる長藩の來島良藏が著關し、十九日には薩士井上彌八郞も亦た來つて白石を訪ひ、井上は森山等に告ぐるに、本月十三日西鄕は先發し、十六日には久光公發駕せられたる筈なるを以てしたので、下之關滯在の有志は俄に緊張し、形勢頗る急なるものがあるので、森山は直に使を馳せて西鄕を途中に迎へしめたるが、翌二十日には長藩の山田亦助が白石を訪ひて薩士に面會を求め、長藩に於ても勤王の爲には敢て薩藩に讓らない旨を告げ、井上彌八郞は之れと應接の後、長藩の丙辰丸船將松島剛三と共に、借切りの大早船にて上坂し、是より先、下之關に潛伏中の久留米脱藩士原道太等の一行六人も、此の使船に同乘して東上し、二十一日には薩藩の汽船下之關に入港し、乘組員曾山九兵衞等は森山を白石の宅に訪ひたるが、同夜豐後岡藩の小河彌右衞門は、
平野次郞と共に白石に來り泊し、森山、曾山、小河、平野、山田亦助等相會して密議を凝らした。
西鄕は村田新八を從へて筑前飯塚驛に至り、森山の使者に出遇つたので、それより急行して二十二日黎明白石宅に到著し、直に森山を始め小河、平野、山田等と時事を談じたのであるが、平野は月照入水以來の久濶を西鄕に謝し、今囘は京攝の間に義兵を擧げんとする旨を告げたるに、西鄕は今度はいよいよ諸君と死を共にする時節が來ましたと答へたので、平野は大に喜び、西鄕先生は我黨の首領として必死の盡力を致さるゝものと信じた。然るに西鄕の眞意は是等志士の輕擧妄動を憂ふるの餘り、自ら死地に入つて之を統制鎭撫するの必要があるから、所謂虎穴に入らざれぱ虎兒を獲ざるの筆法で斯く平野に告げたのであるが、此の一言が奇禍を招きて、遠島流竄の身とならうとは、夢にも思ひ設けぬ所であつた、是日即ち二十二日には、小河彌右衞門の一列なる岡藩士田近陽一郞等の主從二十餘人が、亦た下之關に著して白石宅に會合し、即日彌右衞門は之と共に出帆東上し、平野も同船であつた。斯かる形勢で、上國の變動は眼前に迫り、之れが統制上今は寸時も猶豫が出來ないから、西鄕は到底久光公の御著關を待つの遑もなく、同日夕刻村田新八と森山棠園の二人を從へ、無斷にて下之關より海路大阪に向つたのである。西鄕出發の翌々二十四日、長藩の山田亦助も藩許を得ずして、下之關より無斷東上し、同日肥後の轟武兵衞も下之關を過ぎつて東上し、二十五日には久坂玄瑞が、藩許を受けて公然出京の途に上り、二十六日には筑前秋月藩の海賀宮門が、白石を訪うて上阪するなど、下之關の混雜は非常なものであつた。
 
久光公の上洛

阿久根より海江田武次の先發

下之關より大久保一藏の先發
 斯かる間に久光公上洛の準備整ふや、三月十日及び十四日の二囘、諭書を藩士に下して、諸浪士と私に結ぷなかれ、武士の面目を汚すなかれ、黨同異伐を敢てするなかれ、宜しく協力一致、以て事に當れと誡め、いよいよ十六日、側役小松帶刀、御小納戸中山尚之介、大久保一藏等以下、凡そ一千人を率ゐて鹿兒島を發し、公は陸路を北上し、從兵の一部は海路を取つた。時に從兵の中堅として、一騎當千の士を選拔して組織されたる中小姓組は、一組を十人とし、十人の中より伍長二人を置き、什長一人之を統べたのであるが、大山元帥は、是枝萬助、柴山龍五郞等と共に、五番什長藥丸半左衞門組に屬し、從兄の西鄕信吾は、十番什長仁禮源之丞組に屬し、田中謙助、篠原冬一郞、橋口吉之丞、岸良俊助、谷元兵右衞門、岩元勇助、有馬休八、深見休藏等は、拾貳番什長永田佐一郞組に屬し、有馬新七は其の伍長であつた。いづれも皆武勇絶倫の士、公の前後を護衞して北上したのであるが、十八日公は北薩阿久根に到りて、諸藩亡命の志士陸續京攝に向つて馳せ行けりとの惰報に接したので、阿久根より海江田武次を先發急行せしめ、京攝に於ける亡命志士の動靜を探索したる後、播州姫路に公を迎へて復命せよと命ぜられ、海江田は晝夜兼行東上したのである。
 斯くて二十八日、公下之關に到著して見れば、西鄕は既に村田、森山を從へて無斷上阪の後であつたので、公の憤怒一方ならず西鄕の先發を請ひたる大久保の恐懼は又非常なもので、其の責任上晏如たることが出來ないから、二十九日自ら下之關より先發して西鄕の後を追ひ、其の行動を探ると共に、京攝の形勢をも視察して、兵庫若くは大阪に於て公に復命せ
海江田武次の復命

西鄕等と堀次郞の伏見藩邸の會見
んとし、公の許可を得たのであるが、船の都合に依り翌三十日を以て出發した。
 四月朔日、公藩船天祐丸にて下之關を出帆し、三日播州室津に著船上陸、四日及び五日は室津滯在、六日姫路に到著一泊せられたるが、此日阿久根より先發したる海江田武次は、公を迎へて復命する所があつた。海江田は大阪に於ては亡命志士の動靜を探り、京都に於ては朝幕の形勢を視察し、伏見に引き返へし再び大阪に赴かんとする淀川下りの舟中に於て、測らずも平野次郞と同乘邂逅したのであるが、平野は海江田と舊知の間柄であるから、得意の辯舌を揮つて倒幕論を語り、且つ下之關に於て西鄕が、平野に向ひ「今度はいよいよ諸君と死を共にする時節が來ました」と言つたことを告げたので、海江田も亦た平野と同樣に西鄕の眞意を解することが出來なかつたから、西鄕は諸浪士と結託して暴擧に與するものと考へ、寧ろ却つて浪士を煽動するものと速斷したので、公への復命には、諸浪士の状況と誤斷に依れる西鄕の行動とを以てしたのである。公は之を信じ、西鄕が下之關より無斷上坂したるに對して憤怒一方ならざる所へ、今又浪士煽動の事を聞かれたから、其の激怒は最早頂點に達し、西鄕を死罪に處せんとの決心の下に、西鄕、村田、森山の三人を捕縛せしむべく、小監察喜入嘉次郞、橫目志々目獻吉等に命を下されたのであるが、後ち死一等を減じて流罪に處した。
堀次郞は藩邸自燒の後江戸に滯在したるが、三月十二日京都に入り、近衞忠煕卿に謁して、久光公上洛の趣旨を陳べ、長藩の長井雅樂の航海遠略説に左袒して、岩倉具視卿等に入説し、却つて岩倉の訓誡を受けるなどの失敗をも演じた。(長
 
井の航海遠略説には長州の志士の反對する所と爲り長井を刺し殺せと騷ぎ立てたる結果、長井は遂に歸國自刄を命ぜらる。)此時に當り元帥等の同志橋口壯助、柴山愛次郞、橋口傳藏、伊集院直右衞門、弟子丸龍助、河野四郞左衞門、永山萬齋、木藤市助、町田六郞左衞門、益滿新八郞等は、相前後して江戸より大阪に來り、中之島の魚屋太平方に合宿して、久光公の上洛を待受けた、之を魚太組といつて田中河内介等と氣脈を通じてゐるから、堀次郞は公上洛の妨害を爲さんことを憂へ、其の頃河内介の身邊が幕吏の爲に危きを奇貨とし、陽に之を保護すると見せ懸け、實は其の暴發を抑止するの方策として、三月二十五日夜、河内介及ぴ其子瑳磨介、甥千葉郁太郞、肥前の人中村主計、其の他靑木賴母、淸河八郞、安積五郞、藤本鐵石、飯居簡平、薩藩亡命の伊牟田尚平等、總て河内介の一味徒黨を京都より大阪土佐堀薩邸の二十八番長屋に移し、同時に久留米脱走の原道太、荒卷羊三郞、古賀簡二、中垣健太郞、淵上謙三、吉武助左衞門の六人、竝に後れて來れる筑前秋月の海賀宮門も、亦た共に二十八番長屋に投ぜしめた。是に於て堀は一と先づ安心の上、轉じて伏見の薩邸に留守居本田彌右衞門を訪ひたるに、恰も西鄕が村田と森山を從へて來るに會した。
西鄕が下之關より大阪に到著したるは三月二十六日の夕暮で、直に大阪の形勢を探りつゝ、長藩の大阪留守居宍戸九郞兵衞等にも面會し、長井雅樂の朝廷への建白書と其の航海遠略説の不評判、及ぴ掘が長井と同説を唱ふるを聞き、折もあらば堀を面責せんと思ひながら、兎も角も長井の建白書なるものを一見するの必要があるから、本田彌右衞門に依賴して、其
堀の久光公への復命

大久保の驚愕と耦刺の擧
の建白書の寫しを京都より取寄せんが爲に、伏見の薩邸に本田を訪ひ、期せずして堀と面會したのであつた。そこで西鄕は堀に向つて、足下が術策を弄して事を謀るが如きは言語道斷である。殊に長井雅樂と同腹であると聞くが、長井は幕府の依賴を受けて朝廷を愚弄し奉る大奸物であつて、長藩士でさへ彼れを刺殺せんとしてゐる、足下が之れと同論を主張するが如きは斷じて容赦相成らぬと面責し、一座の靑年諸士を顧みて、今後若し堀が尚ほ長井と同論たるに於ては、諸君は堀を刺殺すが宜しいと命じた。
堀は一大痛擊を加へられ、倉皇として伏見を辭し、四月六日久光公を姫路に迎へて、浪士を大阪藩邸に潛居せしめたこと、竝に西鄕の擧動に就いて、報告を兼ねての復命に及んだのであるが、其の報告は西鄕の爲に不利なるは勿論で、同日公が海江田よりの復命に依つて、激怒の頂點に達してゐらるゝ所へ、更に堀の報告を以てしたので、遂に西鄕は四ヶ條の罪名を以て處罰せらるゝことゝなった。即ち一、公命に背きて下之關より無斷上阪したること。二、浪士と結びて暴擧を企つること。三、久光公を要して公の滯京を謀ること。四、靑年血氣の者を煽動すること。といふ罪名であつた。
斯かる事のあるべしとは露知る筈もなき大久保は、下之關より先發して四月五日大阪に著し、西鄕の後を追ふて六日夕暮伏見の藩邸に來て見れば、西鄕は諸有志來訪の煩を避けて、村田、森山、本田彌右衞門と共に四人、宇治の萬碧樓に酒を酌んで時事を談じてゐることが判つて、急使を馳せて之を伏見に呼ぴ戻し、西鄕との會談曉に徹したのであつた。此の會談に於て大久保は、西鄕の下之關より無斷上阪したるに對し
 
ての久光公の激怒、且つ浪土と結託して暴擧に出づるの疑あること、竝に足下の先發を公に請ひたる自分の責任上、足下の眞意を聞き糺さんが爲に、公に先立ちて下之關を發し、今夜漸く此處に來著したのだと告げ、西鄕は之に答へて、諸有志が續々下之關を通過して東上するので、京攝の形勢容易ならぬものがあるから、無斷とは言ひながら許可を受くる暇もなく、急遽上阪したる次第なるが、浪士と結託し若くは之を煽動するなどゝは思ひも寄らぬ虚構の説、虎穴に入らなければ虎兒を獲ずであるから、自分は身を死地に投じて決死の有志を制馭しつゝあることは、此處に集まれる一座の諸君の知る通りである。事甚だ廣言に似たれど、有志はいづれも自分に信賴し、偏に鎭靜を守れる次第で、自分が手綱を弛めたなら、忽ち爆發するに相違ないとて、其の經過を説いたので大久保は初めて疑團を氷解するを得て、四月七日朝伏見を發して西向し、八日播州大藏谷に至り、久光公に謁して復命するに當り、先づ堀次郞に面會したるに、何ぞ料らん西鄕處罰の事既に決せる旨を堀より聞き、且つ自分も亦た公の側近より遠ざけられたことを知つて、夢かとばかり驚愕嗟歎したのであるが、遂に西鄕に關して公に復命することの出來なかつたのは遺憾であつた。
久光公は九日朝大藏谷を發して、午後四時頃兵庫に到著せられ、大久保は側近を遠ざけられながらも隨從したのであるが、同日晩景西鄕は村田、森山と共に伏見より兵庫に來り、久光公に謁して其の携へ來れる長井雅染の建白書の寫しを呈せんとし、村田と森山を海江田武次の旅宿に待たしめ、西鄕一人で先づ大久保を其の旅館に訪ねて、久光公に拜謁の手都合を
西鄕等の處罰 問合せたるに、意外々々大久保は顏色を變へて、今は拜謁の沙汰どころではない、實にこれこれだと西鄕が公の激怒に觸れて處罰せらるべく、既に逮捕の命ありしを告げ、人目を避けて西鄕を濱邊に誘き、斯くなる上は吾等の大事既に去る、お互に此世に長らへても詮なし、寧ろ潔く耦刺して死出の旅路に就かうではないかと、恨然として勸めたのであるが、西鄕は之に答へて、今二人共に死せば誰か後事に任ずるものぞ、自分は謹んで君命を奉じ、如何なる罪にも服する、敢て辯解を試みない、足下は宜しく奮發して事に當れと説き、耦刺の事は危く取り止めとなつたのである。此夜大久保と奈良原喜左衞門、海江田武次の三人に命が下り、西鄕、村田、森山を海路より密に大阪に送致し、大阪より追放歸藩せしめよとの事であつた。然るに風浪烈しくして出帆が出來ないので、西鄕等は此夜大久保の旅宿に一泊し、翌十日大久保、奈良原、海江田の三人は、西鄕等を大阪に送り、與力兒玉某等が足輕數人を率ゐて警護し、安治川口に繫留中の薩州市來港の海運業者海江田某所有の和船天神丸に乘込ましめた。此時急を聞きて馳せ著けた見送りの人々に對し、西鄕は勤王の成れの果てぢやと笑語しながら、十一日船は薩摩に向つて安治川口を解纜したのであつた。(船は山川港に到著の後、一箇月餘も罪状が定まらず、六月に至つて始めて西鄕は德之島へ、村田は喜界ヶ島へ流謫となりたるも、森山には何等の命令がないので、いづれ死罪と覺悟したる森山は、其の子新五左衞門の伏見寺田屋に鬪死せる報に接して決心し、六月三日「生きのびて何にかはせん深草の露と消えにし人を思ふに」の一首の辭世を殘して山川港に於て自刄を遂げた)
 
久光公の著阪と諭示  四月十日、久光公は兵庫より大坂の藩邸に著し、大山元帥等の從士も亦た皆邸内に入つたのである。時に西鄕、村田、森山の追放處罰は、人心の動搖を慮つて、極めて祕密に附せられたるも、隱すより顯はるゝはなしで、何時しか邸内の藩士に洩れ、元帥等一同は、深く此の處置を不當なりとし、小松帶刀、中山尚之介等に向つて抗論したのであるが、西鄕等の船は既に出帆の後で、又如何ともすべきやうなく、一同は遂に泣き寢入りの止むなき次第となつた。且つ又二十八番長屋の田中河内介、平野次郞等も、西鄕の追放に失望落膽したるが、事茲に至つては飽く迄も初志を貫徹し、久光公を擁して倒幕の擧を決行すべしとて、有馬新七、柴山愛次郞等と密議を凝らした。その密議は、四月八日に平野が朝廷に上れる三策の建白に基くもので、三策中の上策なるものは、今囘島津久光の上洛は、勤王討幕の爲に千載一遇の好機であるから久光の大阪滯在中、勅命を下して大阪城を拔かしめ、轉じて二條城を屠り、彦根城を燒き、粟田宮の御幽閉を解きて、朝政に參與せしめられ、鳳輦を大阪城に奉じて大に皇威を張り、然る後天下の諸藩に令し、主上親ら兵を率ゐ給ひて、大纛を函嶺に進め、暫く行宮を此地に定めて、幕府の罪を糺し給ひ、慕府は前非を悔いて其の罪を謝せば、將軍の官爵を剥ぎて諸候の列に下し、若し命に叛くに於ては、速に御親征あらせられんことを冀ひ奉るといふにあるが、此の建白の趣意は平野一人のみでなく、二十八番長屋の田中河内介及び其の他の同志を代表しての意見と見て差支なからうと思はれる。それを久光公は知つてか知らずしてか、大阪に著せらるゝと共に、大久保等をして田中、平野等の諸浪士を諭さしめらるゝに、
浪士鎭撫の勅命

大阪藩邸内外の形勢
諸士にして眞に勤王の志あらば、久光上京して叡慮を伺ひ奉るべければ、それ迄の間靜肅に大阪に滯在せよとの事を以てせられ、一同之を承諾して、只管公の義擧を期待したのであつた。且つ又公は藩士に令して、浪人等と私に面會すること、竝に命を受けずして猥りに諸方へ奔走することを禁じ、四月十三日、從士の三分の二を大阪に殘し、三分の一を率ゐて伏見の藩邸に入られた。時に大山元帥等は大阪殘留組であつた。
 公が伏見より入京して近衞邸を訪ひ、大納言忠房卿と面會せられたるは、四月十六日の夜であつて。中山忠能、正親町三條實愛、岩倉具視の三卿も亦た列席あり、公より幕政改革及び其の他に關する九箇條の建白書を呈し、且つ大阪に於ける浪士誡諭の事を上陳せられたるが、中山卿等は直に參内して、之を上奏に及ばれたるに、主上は公の建白を御嘉納あらせらるゝと共に、左の浪士鎭撫の勅命を傳へしめられた。
 浪士共蜂起不穩企有之候處島津和泉取押置候旨先以
 叡感 思召候別而於御膝元不容易儀於發起者實々被惱
 宸衷候事ニ候間和泉當地滯在鎭靜有之候樣思召候事
是に於て公は、勅命拜受の責任上、極力浪士鎭靜の事に當らねばならぬ立場となり、田中河内介、平野次郞が、公に賴つて討幕の擧に出でんとしたる期待は全く裏切られたのであつた。
是より先、豐後岡藩の小河彌右衞門の一列主從合計三十人(小河彌右衞門、田近陽一郞、赤座彌太郞、堀謙之助、夏目惇平、樋口勝之助、安野藤次郞、井上金吾、高野直左衞門、森玉彦、田部龍作、宇野關藏、福原武三郞、高崎善右衞門、廣瀨友之允、矢野勘三郞、堀田左一、野尻武右衞門、野溝甚
 
四郞、渡邊彦左衞門、及び從僕十人、合計三十人)柴山愛次郞、橋口壯助の周旋を以て、三月二十九日二十八番長屋に田中河内介等と同居し、其の後肥後藩の内田淸と竹下熊雄等が、百姓榮八と共に、又二十八番長屋に來り投じ、佐土原藩の富田猛次郞、池上隼之助の二人は、中之島の魚屋太平方に投じ、所謂魚太組は更に此の二人を加へ、且つ又久光公の從士の選に洩れたる森山新五左衞門、大脇忠左衞門、坂本彦右衞門、指宿三次、山本四郞の五人は、三月十五日鹿兒島を亡命東上し、續いて美玉三平も上阪し、相共に魚屋太平に投じたので魚太組は新に又六人を增加した。此の他土州藩亡命の吉村寅太郞、宮地宜藏、重松縁太郞の三人は、大阪の長州邸に潛伏して、薩邸二十八番長屋の平野次郞等と氣脈を通じてゐたのである。
四月中旬に至り、淸河八郞等の脱退、竝に平野等の歸國事件が起つた。それは或る日、淸河が長州邸に潛伏中の同志本間精一郞、及び薩邸二十八番長屋の藤本鐵石、安積五郞と共に四人、不謹愼にも妓女を携へて天保山沖に舟遊し、亂舞喧噪の醜態を極めて、天保山番所の幕吏と激論の結果、大阪町奉行所より長州邸への談判と爲り、累を薩邸にも及ぼさんとするに至つたから、柴山愛次郞と橋口壯助とは、田中河内介と小河彌右衞門とに内談し、大事を目前に控えての淸河等の不謹愼は恕すベからずとし、淸河等を敬遠する事となり、薩邸潛伏中の飯居簡平は舟遊仲間ではないが、藤本との親交上、之れも共に脱退し、淸河、藤本、安積、飯居の四人が薩邸を去つたのであつた。然るに淸河は此の事を含み、他日人に向つて、散々に薩藩に對する惡言を放つたので、却つて人をし
有馬新七大山元帥等の決擧計畫 て淸河の人格を疑はしめたのであつた。
是時に當り四月十五日、筑前の黑田長溥公が參勤の途中、播州大藏谷に來られたるが、會々流説が行はれ、長溥公は久光公の行動を無謀なりとし、大阪伏見の間に出づるを機として久光公に會見し、大に警告する所あらんとすと言ふのである。平野は之を聞きて顏色を變へ、若し果して然らば我等同志の目的を貫徹すること能はずと絶叫し、伊牟田尚平と共に大藏谷に馳せ、長溥公に入説するに、久光公は先代齋彬公の遺志を繼紹して、王室の爲に盡力せられんとするに際し、長溥公は久光公の此擧を中止せしめらるゝの意向なりと聞き、諸藩有志の憤激甚しければ、長溥公にして京攝の間に出でらるゝに於ては、如何なる變事の勃發するも測り難しとの旨を以てしたので、公は大に驚き、平野、伊牟田に隨從を命じ、大藏谷より踵を廻らして筑前に還られたのであるが、後に至つて平野の入説は、事實無根の捏造なること暴露し、平野は博多に於て縲紲入牢の身と爲り、伊牟田は薩藩の嚴譴を蒙り、喜界ヶ島に流謫せられたのであつた。
 大阪藩邸に在つて久光の命令今や遲しと待受け居たる有馬新七、大山元帥等は、其の後公より何等の御沙汰もないから、公の行動を以て甚だ緩慢なりとし、柴山、橋口、竝に田中河内介、小河彌右衞門等と協議の上、斷然同志のみを以て事を擧げ、先づ九條關白を斃し、酒井所司代を屠り、二條城を奪ふべしと議決し、其の頃大阪より京都に入れる長州留守居宍戸九郞兵衞を始め、家老浦靱負竝に竹内正兵衞等の諒解の下に、三條木屋町の長藩邸に寓居せる久坂玄瑞等の同志二十餘人(久坂玄瑞、寺島忠三郞、中谷正亮、佐世八十郞(後の前
 
原一誠)、入江九一、久保淸太郞、楢崎彌八郞、福原乙之進、楢崎仲助、大野淸三郞、中谷茂十郞、中谷彪次郞、小倉梅三郞、伊藤傳之助、品川彌次郞、香川助藏、山縣少助(有朋)、白井小助、堀眞五郞、舟越淸藏等)と結託し、四月十八日夜を以て事を擧ぐるに定めた。時に久光公は京都の錦小路の藩邸に在つて不穩の報に接し、大に驚いて奈良原喜左衞門と海江田武次の二人を大阪に遣し、有馬等を諭さしめたのであるが、西鄕隆盛ならばイザ知らず、海江田等を以てしては到底鎭定し得べくもなく、有馬等は之に答へて、久光公は順に依り正道を踏みて事を行はんとせらる、故に其の行動は緩慢に流れて、事情切迫の今日に適しない。それで我等は奇に依り權道を取り、突進急擊して奸物を斃さんとするのである。是れ則ち正奇相椅り相俟ちて、始めて尊攘の大義を達し得られるのであるから、我等の決擧は畢竟するに又公の志を成す所以で、唯だ其の先驅たるに過ぎないのだと論じて、毫も説諭を聽き入れないので、奈良原、海江田は已むを得ず此事を以て公に復命したるが、公は益々之を憂へ、更に大久保を遣して深く訓諭せしめられた。時に大久保は再び公の側近に在つて要務に參與してゐたのであるが、十九日京都を發し、二十日大阪に著し、直に主謀者たる有馬、柴山、橋口(壯助)、田中(謙助)、小河(彌右衞門)等と會見して之に諭すに、畏くも主上には久光公の建言を御嘉納あらせられ、京都に滯留して盡力せよとの勅書を下し賜ひ、且つ又幕府に令達せしむるに、閣老久世大和守を上京せしむべき旨を以てし、幕政改革の事を命ぜらるゝ筈であるから、足下等尊王の志は自ら達し得らるべければ、暫く鎭靜して時機を待つに若くはない、
元帥等有志の出發 若し夫れ禁闕の護衞に至つては、特に足下等の有志を以て之に充てらるべければ、尚更ら愼重の態度を取らるべしと説いた。之に對して新七等は、禁闕の護衞に任ぜらるゝことは、實に臣子の至榮であるが、併し今日の場合に於ては、唯だ一身の榮辱を顧みるべき時節ではない、必す先づ好賊を除いて、天下を覺醒せしめ、因循姑息の人心を一新して、尊王攘夷の目的を達成するに努むるより外ないのであると抗論し、大久保は更に諭すに、事を謀るに急激なれば、其の成功は期し難かるべし、殊に況や少數者の輕擧妄動は尤も愼むべく、擧藩一致協力して朝廷を補佐し奉り、靜に皇威の御振張を圖るに若かざる旨を以てし、懇諭太だ力めたのであつた。是に於て柴山等は稍之に服したるの状が見え、大久保も聊か心を安んじて大阪を出發し、二十一日京都に歸著して具さに久光公に復命したのであるが、實は有馬等は衷心より之に服したのではなく、寧ろ抗論するも益なきを知つて、此上の諍ひを中止したるに過ぎなかつたので、大久保の京都に歸著したる二十一日の夜を以て、京都に闖入する豫定であつたが、準備時間の餘裕なくして其の機を失ひ、いよいよ二十三日夜を以て決行するに定め、元帥等は用意おさおさ怠りなかつたのである。
 斯かる處へ、二十一日、眞木和泉一行四人が遲れ馳せながら鹿兒島より大阪に著し、此夜は旅館松屋に投じ、翌二十二日薩邸二十八番長屋の會議に臨んだ。其處には久留米脱出の原道太等の六人も既に居り、田中河内介を始め、小河彌右衞門等の一行が所狹しと充滿し、明二十三日夜決擧の事を告げた。然るに從來眞木の持説は、無名の師を不可なりとするに在るから、直に異議を唱へたのであるが、河内介は眞木に向
 
ひ、吾々同志は先づ靑蓮院宮の相國寺の御幽閉を破り、宮を推して參内あらせ奉り、宮の令旨を奉じて事を擧げんとする旨を説いたので、一時の口實と知らぬ眞木は、然らば名正しく事成るであらう、共に伏見に馳せ登るべしと約し、會議畢つて眞木父子一行四人は、八軒屋の京屋に轉居し、二十八番長屋の久留米脱藩の原道太等六人も、亦た同じく京屋に移つたのであつた。
 然るに大阪滯在の有志のみを以て、九條關白と酒井所司代とを同夜同時に討たんことは、人數の不足よりして困難であるとの議が起り、所司代は在京の長藩同志に任かせ、吾々は九條關白を斃して、雲上の人々を覺醒せしむるに若かずとの田中河内介の説が成り立ち、魚太組の一列と二十八番長屋の河内介等の一列、竝に京屋に於ける眞木和泉等の一行、及ぴ有馬新七、大山元帥等の薩藩同志は、船四艘に分乘して、二十三日の拂曉八軒屋より先發し、夕刻伏見に到著して、寺田屋に準備を整へ、直に京師に討入るべく、小河彌右衞門の一列三十人は、比較的多人數の一團であるから、事の發覺を避けんが爲に後發とし、同夜伏見に著すると共に京師に進入し、新手を以て先發隊の勞を扶くべく、又長州屋敷の久坂玄瑞等の同志二十餘人は、京都に火の手の揚り次第、酒井所司代邸に攻入るべく、議茲に決したので、二十八番長屋より海賀宮門を使者とし、早駕籠にて京都の長州屋敷に報告せしめたのであつた。斯くして在阪有志の人々は、それぞれ準備に著手し、二十二日の夜より二十三日の早朝にかけて八軒屋に集合し、それより船で淀川を遡り、相前後して伏見に向つたのであつた。
元帥が鎗取り出しの苦心

鎭使の伏見出向
 當時二十一歳の元帥は、藥丸半左衞門の部下の戰士であつたが、鏡智流の鎗術達人で、細柄の長鎗を携帯したるも、一擧出發に臨みて之を邸外に持ち出すことは、人の怪みを受けんことを恐れ、如何はせんと苦心の餘り、柴山龍五郞の實弟なる是枝萬助に其の策を謀れるに、萬助は事甚だ容易なりと一諾に及び、元帥を邸外に出して待たしめ、萬助自ら邸内を窺へぱ、鎗は劍道の達人なる藥丸半左衞門の枕頭の床上に在るので、目敏き半左衞門の覺らんことを慮り、四邊を見渡せば頃は四月の下旬、部屋々々の襖は悉くはづされ、閾を隔てゝ各隊枕を竝べて熟睡しつゝあり、獨り谷山彦右衞門のみ故山に贈る手紙を認めてゐたるが、萬助は密かに藥丸の枕頭に忍び奇り、床の上に立て掛けたる長鎗をすらすらと取り出し、邸内の水流し口より邸外に待ち居たる元帥に手渡せば、元帥の喜び一方ならず、直に柴山愛次郞等の宿泊せる魚屋太平方に馳せ行きて之を預けたのであつた。(此の鎗は薩藩示現流劍道十哲の一人たる木場鐵之助の手に成れる名作で、元帥の友人岸良俊助の斡旋に依り大河平隆より贈られたもの、元帥が居常祕藏せる逸品である。大河平は神宮司爲右衞門の實弟で、岸良と同じく城下西田常磐の人であるが、其の話に此の鎗は元帥が寺田屋事件に連坐の折、多分藩廳に沒收せられたであらうと言ふことで、鎗の所在は明かでない。)斯くていよいよ元帥等の決擧出發と爲り、雨か嵐か京師の風雲は容易く豫測すべからざるものがあつた。
 時に十二番什長永田佐一郞は、部下の伍長有馬新七を始めとし、田中謙助、岸良俊助、篠原冬一郞、橋口吉之丞、谷元兵右衞門、有馬休八、岩元勇助等の出發するを見て、之れを
 
寺田屋の悲劇 中止せしめんと力めたのであるが、事茲に至つては到底中止の行はるべくもなく、却つて罵詈の言を浴せかけられて憤慨すると共に、什長としての責任觀念より、其の場に於て壯烈なる自刄を遂げた。これが抑も同志の事の破れの基となつた。是より先、久光公は大久保の復命後、更に不穩の状を聞きて大に驚き、有馬等を懇諭せしむべく、再ぴ奈良原、海江田の二人を大阪に遣し、續いて又松方三之丞(助左衞門、正義、後の大勳位公爵)を遣し、別に藤井良節(井上出雲の工藤左門の改名)を大阪に下して、田中河内介、小河彌右衞門等と應對せしめ、二十二日藤井は著阪して、先づ柴山、橋口等と會見し、二十三日河内介等と談議の筈であつたが、會々永田佐一郞自刄の事あり、異變旦夕に迫れるを見て、直に自ら京都に急行して之を報じ、奈良原、海江田も亦た高崎左太郞(後の男爵高崎正風)をして京都に急報せしめたので、京都の薩邸は大騷ぎと爲り、殊に久光公は浪士鎭靜の勅命を拜せられてゐるから、我藩より事變を起しては其の罪輕からず、彼等を諭して抑止せしめ若し聽き入れざるに於ては上使打ちも苦しからずとて、劍道の達人大山格之助、奈良原喜八郞、森岡善助、江夏仲左衞門、鈴木勇右衞門、鈴木昌之助、道島五郞兵衞、山口金之進の八士を選定し、伏見に向はしめたのであるが、更に上床源介も亦た特に願ひ出でて許可を受け、九人の鎭使は竹田街道と鳥羽街道とに別れて伏見に落合ひ、晩景に至り寺田屋に乘り込んだのである。
 大阪を出でたる元帥等の同志は寺田屋に集合し、田中河内介及ぴ眞木和泉等の一行十餘人は、階下の奧座敷に陣取り、元帥等の薩藩同志及び佐土原藩士等數十人は、二階に陣取つ
て既に食事を濟ませ、辨當を腰に著け、中には草鞋を穿つもあつて、用意殆ど成り、京都討入りの部署を定めて、「囘天」と言へぱ「天」と答ふべき暗號までも作り、佐土原の富田猛次郞の如きは、鎗を提げて二階正面に立ち、頻りに「囘天々々」と獨語しながら、鎗を素扱く樣子の可笑しさに、元帥等一同は其の滑稽の状を見て、猛次郞を「囘天先生」と綽名するなど、目前に大事を控えながら、餘裕の綽々たるものがあつた。此の時田中河内介の前議に依つて九條關白邸のみを襲擊するの方針は、更に最初の計畫通り二條城をも奪ふといふ事になり、同志中の年少者は戰士たらしめずして、城内討入りに際し、廊下及び四方の壁に燭光を照らす役目たらしめ、竹を伐って同一の寸法に作り、竹の先に蠟燭を插みて、火を點じたるを廊下に立つることゝし、今しも其の竹の伐り揃へられたる折も折、俄に階下に斬合が始まつた。
 それは大山格之助等九人の鎭使が、既に寺田屋に乘込んで、主謀者と目せらるゝ有馬新七、柴山愛次郞、田中謙助、橋口壯助の四人を階下に招き、諭すに久光公の命を以てし、暴擧を中止せよと説き、有馬等は事茲に及んでは斷乎として義擧の外なしと答へ、雙方激論の結果、誰とは知らず「今は是非もなし」と言ふや否や、道島五郞兵衞は「御上意でござる」と大喝一聲刀を拔いて田中謙助に斬り付け、茲に雙方の亂鬪となった。此の騷ぎに弟子丸龍助と橋口傳藏とは、二階より降り來つて、龍助は鎭使と斬り絡び、傳藏は降るに際し足を拂はれて殪れ、西田直五郞と森山新五左衞門は、厠よりの歸るさに此の騷ぎに會して鬪ひ、有馬新七は其の刀折れて脇差を拔くに遑なく、道島五郞兵衞を兩手に擁して壁に押し付け、
變後の處分 二人共に刺せと叫んで、傍に居合はせたる橋口吉之丞の刺す處となつて無殘にも斃れ、柴山愛次郞は思ふ仔細あつて(是より先、愛次郞人に向つて言ふ、若し上使打ちに際すれば、自分は之に抵抗せず、甘んじて處分を受けると。)刀を二階に置き、無腰にて其の儘斬り伏せられ、橋口壯助は肩先より斜に乳にかけて斬り下され、倒れながら傍に鬪ひ居たる鎭使の奈良原喜八郞に向つて末期の水を求め、喜八郞之を諾して與ふれば、「後は宜しく賴む」と言ひ殘し、其の水を飮んで絶命した。傳へて以て美談としてゐる。田中謙助と森山新五左衞門は、重傷ながら息絶えざりしも、翌朝に至り伏見の藩邸に於て自刄を命ぜられた。斯くて鎭使中の道島五郞兵衞は即死、森岡善助と山口金之助は重傷、大山格之助と鈴木昌之助の二人は無疵、其の他は輕傷であつたが、同志の之に斃るゝ者は、有馬新七、柴山愛次郞、田中謙助、橋口壯助、橋口傳藏、西田直五郞、弟子丸龍助、森山新五左衞門の八士であつた。いづれも有爲の士、文武兼備の偉傑で、世人は之れを惜んだのであるが、若し西鄕隆盛をして京攝の間に在らしめば、其の統制宜しきを得て、斯かる悲劇は演ぜられなかつたであらうと言はれてゐる。
 此の悲劇は極めて瞬間に行はれたので、元帥を始め二階の人々の多くは、毫も其の事情を知らず、又固より同士打とは氣付かないから、伏見奉行の手より取り押への人數が來たものと考へ、皆々覺悟を定めて用意怠りなく待ち構へたる折しも、激鬪の終ると共に奈良原喜八郞唯だ一人二階に駈け上り、刀を投げ捨て、雙肌脱ぎとなつて大音聲に、「諸君驚き騷ぎ給ふなかれ、我々は決して諸君を敵とする者ではない、有馬
元帥等の歸國謹愼 君等は勢ひ止むを得ずして打ち果したるも、其の仔細は錦の屋敷にて語り申すべし、兎も角一刻も早く京都に引上げ、明晩は一同に義擧に出づるであらう」と告げ、續いて田中河内介、眞木和泉も二階に上り、元帥等一同に向つて鎭靜あるべしと慰諭し、一同は之を承知して錦の藩邸に引上げたのである。一方大阪後發の小河彌右衞門の一列は、二十四日の曉天に至り、伏見に到著したので、此の事變には直接の關係を持たなかつた。
 鎭使の一人山口金之進は、重傷ながら馳せて京都に急報したので、久光公は大久保、吉井中助(初め仁左衞門、後ち幸輔、伯爵友實)、竝に今しも大阪より歸著したる奈良原、海江田に命じ、鎭撫の爲に伏見に急行せしめたるが、續いて大阪より騎來せる松方三之丞も亦た大久保の後を追ひたるに、いづれも途中にて喜八郞等數十人の同勢に出會したので、相共に錦の藩邸に引上げ、二十四日の午前一時頃藩邸に到著し、元帥等一同は一と先づ七番長屋に收容せられ、嚴重なる監視の下に夜を徹したのであつた。
 然るに寺田屋に於て奈良原喜八郞が一同に向ひ、明晩は相共に義擧に出づるであらうと告げたのは、一時の方便であつた事が判つたので、一同は自刄を命せらるゝものと覺悟を定め、中にも柴山龍五郞の如きは密に同志と議して屠腹の隙を窺つて居つたのであるが、「御沙汰を待つべし」との令達もあり、巖重なる監視もあつて、其の機を失するの間に、美玉三平が邸内の窓を破つて脱出し、(後ち三平は平野次郞等と共に生野銀山の義擧に加つた)取締が一層嚴重となつたので、龍五郞等は遂に屠腹の目的を達せず、二十七日に至り一同大
 
他藩士に對する處分 阪に護送せられたるが、是日曩に森山新五左衞門等と脱藩上阪したる山本四郞が、伏見に送らるゝ途中に於て憤慨自刄し、寺田屋に於ける殉難者八士と合せて、茲に同志の犧牲九士を算したのであつた。斯くて大阪に護送せられたる寺田屋組の薩士は、元帥を始め柴山龍五郞、三島彌兵衞、西鄕信吾、是枝萬助、吉田淸右衞門、橋口吉之丞、伊集院直右衞門、永山萬齋、木藤市助、坂元彦右衞門、林正之進、谷元兵右衞門、岸良三之介、深見休藏、町田六郞左衞門、吉原彌次郞、河野四郞左衞門、森新兵衞、岩元勇助、有馬休八、篠原冬一郞の二十二士であるが、二十九日一同は大阪より歸國謹愼を命ぜられたのであつた。
事變の當夜、長藩士中にも有馬新七等の同志があるとの情報が錦の薩邸に達したので、堀次郞は三條木屋町の長州邸に駈け著け、留守居宍戸九郞兵衞に面會して、貴藩士中暴擧に關係の者あらば取押へられたき旨を申入れたるに、邸内には高張提燈などを樹てゝ何となく動搖の状あるにも拘はらず、宍戸は事破れたる以上は其の色を包むに若かずと考へ、それは意外の事、弊藩には一人も暴擧に同志の者は御座らぬと答へて、體能く堀を還らしめたるが、續いて又吉井中助が、大阪より馳せ歸れる奈良原、海江田より長州も大に暴擧に加擔する由を聞いて宍戸を長州邸に訪ひ、詰問に及んだのであるが、時既に事變後であつて、宍戸は寺田屋の情報に接してゐたから、痛く有馬等の死を惜み、吉井の詰問を巧みに受け流したのであつた。
翌二十四日の朝に至り、田中河内介の子瑳磨介、甥千葉郁太郞、土州の吉村寅太郞、官地宜藏等が錦の薩邸に河内介を訪
五人の慘殺 ね來り、筑前秋月の海賀宮門も肥前の中村主計も亦た來り、再擧を謀るの考へであつたが、薩邸にては其の入るを許して出づるを許さず、是等を河内介竝に眞木和泉の一行と共に七番長屋に同居せしめて、警戒最も嚴重を極め、同日七番長屋の薩士を他に別居せしめて相互の連絡を絶ち、二十七日夜富田猛次郞と池上隼之助は、京都に於て佐土原藩に引渡され、同夜田中河内介、田中瑳磨介、千葉郁太郞、海賀宮門、中村主計の五人は、薩藩の保護を加へて鹿兒島に下さるゝことゝなり、監督役丹生彌兵衞、伊集院直二、澁谷三之丞、折田平兵衞、兵具方足輕二組之に付添ひ、歸國を命ぜられたる元帥等二十二人の薩士と共に錦の藩邸を出でゝ大阪に護送せられた。實は丹生彌兵衞は、大阪より西航の船中に於て此等五人を殺害せよとの密命を受けてゐたのである。斯くて翌二十八日夜、眞木和泉の一列十人と、土州の吉村寅太郞、宮地宜藏の二人とは、京都の薩邸より大阪に送られ、二十九日夜大阪に於て、眞木の一列は久留米藩の留守居に、吉村等は土州藩の留守居に引渡され、他藩土の處分は茲に一段落を告げたのであつた。
 寺田屋殘留組の元帥等二十二士は、豫定の如く二十九日二艘の船に分乘して大阪を出帆し、田中河内介父子二人は其の一艘に、海賀宮門、千葉郁太郞、中村主計の三人は他の一艘に乘せられ、五月朔日船は讃州小豆島沖を通航する頃、警護の人數は河内介に向つて殺害の内命を傳へたるに、河内介は神色自若として、實は然かあらんと思ひ居たるなり、疾く疾く殺害せよとて「ながらへてかはらぬ月を見るよりも死して拂はん世々の浮雲」の一首の辭世を殘し、父子共に刺殺せら
 
烈士に對する追悼  れて、死骸は海中に投ぜられたのであつた。又他の一艘の海賀宮門等三人は、船中に於て縛せられ、五月四日船は日州細島の海岸に著すると共に、三人を上陸せしめて斬殺したのであつた。既にして元帥等は鹿兒島に護送せられ、それぞれ謹愼を命ぜられつゝ、思ひは禁闕に馳せて、只管忠勇義烈の心血に燃ゆるものがあつた。
 初め寺田屋事變の當夜、恰も在京中の隅州志布志大慈寺の柏州和尚は、殉難烈士に引導を授け、同時に左の追悼の一詩を手向けた。
   惜見雨前紅躑躅。不堪聞雨後殘英。
   八九義人肝如鐵。麟麟閣上最功名。
    文久壬戌四月二十三日大慈柏州題
 斯くて有馬新七等の當夜の八烈士、及び二十七日に自刄したる山本四郞を合せての九烈士は、伏見の大黑寺に葬られ、鎭使として斃れたる道島五郞兵衞は、京都東福寺内なる即宗院に葬られ、大阪に於て自刄せる永田佐一郞は、上福島五百羅漢妙德寺に葬られた。(妙德寺は近年に至り河内牧岡村額田に移轉し、永田の墳墓も亦其處に移された。)
 當時眞木和泉が八烈士を弔ふた詩があつて、人口に膾炙してゐる。
     弔薩八子
   所見高超不世同。尋常爭得古來隆。
   用權討賊機誰識。乘勢酬邦義自通。
   伏水淋漓忠迸血。嵐山馥郁骨生風。
   天明魏闕陰氛散。旭日先光八子功。
 
聖恩枯骨に及ぶ

大山元帥の追悼歌
 翌文久三年には、平野次郞が弔歌を九烈士の靈前に捧げて、其の遺烈を遣懷してゐる。
  去年の春伏水にてみまかりし人々の靈にたむけ侍る
    なかなかにしゝたる人ぞ
       いさぎよきいきてなしえし
              こともあらねば
    あだなりと人はいふとも
       山櫻ちるこそ花の
              まことなりけり
                 國 臣
 後年此等烈士の祭典に當り、福羽美靜も亦た其の遺烈に對して、左の國風一首を手向けた。
  有馬新七君一列の祭典の折よめる
                 美 靜
    さきがけて伏見のつゆと
       きえし君光は千代に
             猶のこりけり
 明治二十四年十二月十四日、畏くも聖恩枯骨に及ばせ給ひ、有馬新七等九烈士は、一列に從四位を贈られ、田中河内介は、贈正四位、田中瑳磨介、千葉郁太郞、海賀宮門は、共に贈正五位の特典に浴せしめられ、皆靖國神社に合祀せられたのであるが、大山元帥は之を聞きて感激極まりなく、恰も其の頃官命を帶びて西行の途次、わざわざ伏見に過ぎりて、大黑寺の九烈士に展墓し、轉た當時を追懷して無量の感に堪へず、左の國風一首を手向けたのであつた。
 
 
薩藩九烈士遺蹟表       追 懷        清 海
    二つなき身もふリすてし
       眞こころは雲の上まて
             あらはれにけリ
 後ち明治二十七年四月二十三日、九烈士の三十三囘忌を期し、有志相謀りて伏見の逆旅寺田屋の烈士の遺跡に一碑を建て其の精忠義烈を不朽に傳へた。題して「薩藩九烈士遺蹟表」といひ、其の篆額は有栖川宮熾仁親王殿下の御染筆、稗文は當代の文豪川田剛博士の撰に成つたものである。
   薩藩九烈士遺蹟表
大丈夫擧事不必身收其功使後人繼起以成吾志則喪元斷脰亦無所憾焉何哉志在天下國家非爲一身謀故也征時幕府失政内訌外侮衆心乖離識者皆知起師問罪以復 王權之爲急務然告之士太夫則曰時機未至告之候伯則曰時機未至乃告之公卿縉紳亦曰時機未至鳴呼坐待時機日復一日孰能挺身發難於是薩藩九烈士糾合同志奮欲擧兵有司諭止不聴挌闘殞命于伏見逆旅寺田屋世或惜其徒死無功殊不知一死以鼓動海内士氣是其素志他日于五條于生野于天王山豪傑踵起百折不撓薩長諸藩亦出師勤 王成中興大業果不違其所豫期死者而有知應含笑地下也九烈士者爲誰曰有馬新七曰田中謙助曰橋口傳藏曰柴山愛次郞曰弟子丸龍助曰橋口壯助曰西田直五郞曰森山新五左衞門曰山本四郞其死實文久壬戌四月二十三日今茲甲午三十三囘忌辰伏見人追慕修祭建碑表于寺田屋遺址請文于餘餘嘗過宇治平等院弔源三位故跡所謂扇芝者彽徊不能去蓋壽永中平氏專橫賴朝義仲等擧兵討伐以亡之然非三位首倡發難安能得遽奏偉勳此地距字治咫尺而九烈士事又相類焉故餘揮筆大書表其功烈與扇芝竝傳美千載後人
 
 
  過此亦必有彽徊不能去者矣
   明治二十七年五月
            正四位勳四等文學博士川田剛撰
                   從五位長 苂書
    參謀總長兼神宮祭主陸軍大將大勳位熾仁親王篆額
 あゝ勤主倒幕の先驅として、九烈士等の如き貴き犧牲を拂ひたればこそ、神武の創業に亞ぎ給へる王政復古明治中興の基を開かせられたるなれ。固より此の事變に於て、討つ者も討たるゝ者も、共に純忠至誠の士、唯だ其の取る所に正道と奇道との別があり、又事を擧ぐるに緩急遲速の差あるに過ぎなかつた迄で、其の間何等の怨讐もなければ、毫も敵視する所もないのであつて、王政復古の御大業が成就せられ、お互の目的が達せられたる以上は、恰も光風霽月、雲霧を排ひて天日を見るが如きの感があり、幽明境を異にするも、其の精神に於ては即ち一で、天鑒儼明なればこそ、聖恩枯骨に及ばせられたる所以であるから、烈士等定めて地下に感泣し、必ずや安んじて瞑することであらう。
 
 
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