日本史探偵団文庫『元帥公爵大山嚴』
第五章 薩英戰爭と決死隊
 
薩英戰爭の原因

生麥事變の眞相
     第五章 薩英戰爭と決死隊

 文永弘安の元寇に、文祿慶長の征韓に、空前の偉勳を奏したる薩摩隼人の傳統的武勇は、延いて幕末に至り、端なくも世界第一の海軍を有する歐洲強大國との一大決戰に於ても亦たその本領を發揮し、中外をして齊しく耳目を聳動せしめたのは、實に文久三年七月二日、三日の薩英戰爭であつて、元帥は從兄弟の間柄で同功一體の人たる西鄕從道と與に決死隊に參加し、而もそれが初陣であつた。
 この戰爭は、去年文久二年八月二十一日(西曆千八百六十二年九月十四日)、島津久光公が江戸を發して歸國の途次、武州生麥街道にて公の儀衞を橫切れる英人四名(男子三人、女子一人)の中、その一人「リチャードソン」なる者を斬り、他の二人を傷けた(女子は無事)所謂生麥事變に原因し、英國政府は之れに對して、幕府及び薩藩の責任を問ひ、幕府へは償金英貨十萬磅と謝罪状とを徴し、薩藩へは幕府を通じて、下手人の逮捕處刑と死傷者竝に遺族への弔慰金英貨二萬五千磅とを要請したのであるが、結局幕府は文久三年五月九日に至り、償金洋銀四十五萬元を橫濱にて英國代理公使陸軍中佐「ジョン、ニール」に交付したるも、薩藩は頑として之れに應じなかつた。
初め鳥津久光公が勅使大原重德卿を輔佐して幕府と折衝し、遂に幕府をして勅諚を奉ぜしめ、一橋慶喜公を將軍の後見職とし、越前春嶽公を政事總裁職とし、いよいよ幕政の改革を行ひ、皇室尊奉の實を擧げしむることゝなり、久光公は大原勅使に先立つこと一日なる文久二年八月二十一日の朝、從士
幕府の手落 一千餘人を率ゐて江戸を出發し、午後二時頃生麥村に差し懸った折しも、前方より騎馬の英人四名進み來り、公の行列の右側を通行しつつあつたが、行列の先驅は二列の足輕銃隊であるから、挾い街道ながらも英人の通行を妨げなかつた。然るに此の銃隊に續く所の中小姓の士は四列であるから、騎馬では英人の通行を許すだけの道幅が無いにも拘はらず、英人は擅に進んで來るので、此の日の御供頭當番なる奈良原喜左衞門は、手眞似を以て之を制止したるも、彼等は知らざるものゝ如く之に應ぜず、無法にも行列の右側より左側に拔け通らんとして、馬を中小姓の列中へ乘り入れたので、行列は亂れて一時進行を中止するの已むを得ざるに至つたから、喜左衞門は御供頭の責任上、無禮者奴と大喝一聲、その一人を斬り、二人を傷け、斬られたる一人は暫く走って落馬したるが、當日非番であつた御供頭の海江田武次(信義)は、之を追ひ行きて止めを刺したのであった。それが「リチヤードソン」といへる英國商人で、日本觀光のために支那の香港より橫濱に來てゐた者であつた。
當時橫濱居留の外人は、治外法權を楯にして、各地を橫行闊歩し、無禮を我が邦人に加へるので、是歳六月二十三日、江戸薩邸留守居西筑右衞門より幕府へ稟申するに、近頃外國人共が無禮を働くから、我が藩主修理大夫竝に修理大夫の實父三郞の江戸往來に際しても、如何なる椿事の出來も測り難けれぱ、慕府は各國長官に命じて充分に取締らしめらるべく、萬一椿事出來の節は、國威を汚さゞるやう機宜の處置を取るべきを以て、此の旨御承知あリたしと屆け出で、幕府は之に對し同月二十七日付を以て、各國長官へは取締方に就いて通
 
生麥事變は攘夷の先鋒にあらず

事變當日の島津久光公の態度
達するけれども、何分風俗も違ひ、言語も不通の外國人であるから、成るべく事を穩便に取計はれ、國難を惹き起さゞるやう注意ありたしとの覺書を西筑右衞門に交付して、豫め橫濱居留の外人に警告を與へたと稱して居リ、且つ又久光公出發の八月二十一日には、橫濱の關門を鎖して、外人の出入を禁じたと辯明して居るが、事實は之れに反し、當日は恰も日曜日であつたから「リチヤードソン」等四人は、騎馬にて橫濱關門を出て、川崎大師に參詣の途中、此の事變を惹き起したもので、幕府は遂に其の失態を暴露したのであつた。
當時世人が外交の不振を憂慮し、外人の跋扈を慨歎するに際し、生麥事變が起つたので、是れ實に空前の快擧であるとて、有志の間に大なる稱贊を博し、殊に山階宮晃親王殿下の如きは、「薩州老將髮衝冠。天子百官免危難。英氣凜々生麥役。海邊十里月光寒」と詠じ給ひたるが、此の事變は固よリ突發的で、決して計畫的のものではなく、且つ又島津齊彬公の遺志を繼紹して、開國進取主義を取れる久光公が、攘夷の先鋒たる筈もないのである。然るに此の事變に對して周章狼狽したる幕府は、口實を設けて薩藩を陷穽せんとし、當日久光公が駕籠の中から從士を指揮して、英人を擊たしめたのだとの虚構の宣傳を試み、後年「リチヤードソン」の遺族に對する舊幕臣からの弔慰状にも、亦た此の虚構の宣傳を事實として記載されてゐるが如きは、返す返すも遺憾千萬であるから、事變當日の久光公の態度に就いて、少しく次に述べることにする。
行列の前衞に於て事が起つたので、久光公の御駕籠が一時止まり、後衞の士が其の列を離れて、事件の起つた場所へ駈け
薩藩の英國要求拒絶理由 著けるので、公は御駕籠の右側に護衞せる松方助左衞門(後の正義公)に向つて、何事なるかと問はれ、助左衞門は外人が前衞を犯しましたと申し上げた時、公は靜に刀の鞘止めの紐を解いて、其の刀をヒタと左の腰脇に當てられた。その態度は實に沈著なもので、唯だ唯だ敬服するの外はなかつた。此の時助左衞門は手を擧げて大聲を發し、列を離れて事變の場所に駈け著けたる後衞の士を呼び戻し、行列は整頓して再び進行したのであるが、此の事變の爲に當日神奈川泊りの豫定を程ヶ谷泊りに變更せられ、助左衞門は橫濱の英人が公を狙擊せんことを慮って、事變以後は公の御駕籠の右側よリ左側に轉じ、英人の狙擊に備へて、身を以て公の楯となつたのであるが、幸に事なくして程ヶ谷に安著し、從士は夜を徹して護衞に努めたるに、公は何事のありしかとも知らぬ有樣にて、鼾聲雷の如く眠りに就かれたので、從士一同は又大に公の沈著に驚いたのであつた。(松方公より編者への直話)斯かる事實に照らしても、幕府側の人々が公を誣うるに、從士を敎唆して英人を殺傷せしめたと言へるが如き捏造説は、兒戲に類するものとして一顧の値もないことは勿論であるが、誤りを後世に貽さゞらんが爲に斯くは附言して置く。
 薩藩が英國の要求に應じなかつた理由には、儼然として犯すことの出來ない武士道擁護の精神に立脚し、正義公道を高唱して、一歩も讓らない所の一大決心があつた。元來大名の行列を犯した者は、其の罪死に當ることは、不文律ながらも我國從來の習慣法であるから、生麥事變に於て曲は固より彼れ英人にあるにも拘はらす、彼れの曲を以て我れの直に對し、尚且つ償金を求め下手人を嚴科に處せんとするが如きは、冠
 
英國東洋艦隊七隻の西下 履顚倒の甚しきものであつて、我れは斷じて其の要求に應ずることは出來ない。尤も下手人は足輕岡野新助と言ふ者で、其の場から脱走して今に行衞不明であるが、強いて新助を逮捕處刑せよと言ふに於ては、當時の從士一同が皆處分を受けると申出でて居るから、是れ亦た如何とも處置することは出來ない。(岡野新助は假名の人物、下手人は御供頭奈良原喜左衞門なるも、喜左衞門は一騎當千の士であるから、之れを嚴刑に處するを惜みて、假名の人物を設け、脱走を口實としたのである。)彼れ若し兵力を以て我れに臨むならば、我れ亦た兵力を以て之れに對抗し、社稷の存亡を賭して爭ひ、決して皇威を失墜するやうな事は致さないから、此の旨を以て英國へ答辯に及ばれたしと、幕府へ屆出でたので、幕府は色を失ひ、薩英の間に挾まつて、又如何とも爲す所を知らず、漸く幕府の償金だけを仕拂つて、其の責を逃れたのであつた。
 是に於て殘る問題は、英國が薩藩に對する最後の強請で、止むを得なければ武力に訴へても薩藩を屈服せしめねばならぬと言ふ事になり、海軍中將「キユーパー」提督は、英國東洋艦隊七隻を橫濱に集中し、六月二十二日(千八百六十三年八月六日)代理公使『ジヨン、ニール」と共に旗艦ユリアラスに座乘し、(通譯官「シーボルト」及び「ユースデン」の二人を旗艦に、「マクドナルド」、「サトウ」、「ウヰリス」、「ガワ」、「フレチヤ」の五通譯官を其の他の諸艦に分乘せしめ、日本人二名を水先案内人とした。)舳艫相銜みて橫濱を拔錨したるが、同月二十七日(八月十一日)午後二時過鹿兒島灣に入り、午後七時過鹿兒島城下の南約三里の谷山鄕沖合なる七ツ島附近に投錨した。
鹿兒島城下の防備

彼我兵力の比較
 英國艦隊が山川港を通過して鹿兒島灣に進み入るや、沿岸各砲臺及び烽火臺は、順次に狼煙を揚げ、號砲を放ち、尚亦た早打を以て警報を鹿兒島城に傳へた。久光、茂久(後忠義と改む)二公は固より此の事あるを豫期して、敢て驚かれず、直に警備を旗本人數、城下の守衞、及ぴ先手(砲臺守備)の三手に分ち、城下六組の諸士竝に近鄕の諸兵を以て之れに充て、兵糧彈藥の準備は從前より既に整ひ、倉庫には米穀數千石及び多量の糒(此の糒は嘉永以來先代齊彬公の命を以て製造し且つ連年增製したるもの)貯藏せられ、幾十日の戰鬪にも缺乏の患なく、城下の大乘院福昌寺、草牟田村の隆盛院等に兵糧方を置き、守備兵以外の人馬寄所を革牟田村と定め、二十七日夜より各營所に糧食を運搬し、衆士皆馳せて各部署に就き、以て英艦の來るを待つた。
 六月二十八日(八月十二日)午前七時、英國艦隊は谷山鄕沖を拔錨し、小艦を先頭として、水深を測りながら、神瀨と天保山(砂揚場)中間を過ぎ、進みて前之濱沖に來り、鹿兒島城下の前面千二百「ヤード」の所に、旗艦を中央に單縱陣を張つた。時に午前八時半過であつたが、其の勢力を見るに、旗艦「ユリアラス」號(五二五〇馬力、二三七一噸とも三九三二噸ともいひ速力不明)は艦長「ジョスリング」大佐、乘員六百人、大砲四十六門(五十一門ともいふ。)「パール」號(四〇〇馬力、速力一一、噸數一四九六)は艦長「ボーレス」大佐、乘員二百四十五人、大砲二十一門。「バーシュース」號(二〇〇馬力、噸數速力とも不明)は艦長「キソグストソ」少佐、乘員百七十二人、大砲六門。「アーガス」號(二〇〇馬力とも三〇〇馬力とも云ふ、噸數九七五、速力一
 
〇)は艦長「ムーア」少佐、乘員百七十人、大砲四門。「レースホース」號(二〇〇馬力、噸數速力共に不明)は艦長「ボツクサ」少佐、乘員百〇三人、大砲四門。「コクエツト」(一〇〇馬力とも二〇〇馬力ともいふ噸數六七〇、速力一一)は艦長「アレキサンダー」少佐、乘員七十八人、大砲四門。「ハボツク」號(六〇馬力、噸數速力共に不明)は艦長「プール」大尉、乘員五十人、大砲三門。以上乘貝合計千四百十八人、大砲九十門(九十五門とも)總て最新式の「アームストロング」砲で、彈丸は蛋形彈であつた。
 之に對する我が砲臺の位置、物主(隊長)、守備兵、及び大小砲數を見るに、鹿兒島城下海岸砲臺の最右端より順次左方に數へて第一が天保山(砂揚場)この物主島津織之介、守備兵は城下四番組士族、大砲十一門(加農砲七門、野砲二門、臼砲二門)露砲臺、防彈火藥庫がある。次は大門口、物主關山糺、守備兵は城下三番組士族、大砲六門(加農砲三門、野砲一門、臼砲二)露砲臺、番兵小屋三棟がある。次は南波戸、これは臨時增設で、物主町田少輔、守備兵は明かでないが、大砲五門(野砲二門臼砲三門)を備へてゐる。次は辨天波戸、即ち城下一番組士族と其の物主北鄕數馬、及び元帥等の二番組士族と其の物主相良兵部、大砲十三門(加農砲十門(八十斤爆砲一、三十六斤爆砲二、二十四斤長砲一、二十四斤短砲二、十八斤短砲二、十二斤短砲二)六斤野砲一、臼砲二門(二十拇一、二十九拇一))露砲臺、番小屋一棟がある。次は新波戸、物主川上右膳、守備兵は城下五番組士族、大砲十七門(加農砲十三門、野砲一門、臼砲三門)露砲臺、防彈火藥庫二箇所、番兵小屋三棟がある。次は砥園洲、これは最左
彼我の談判 端で、物主島津權五郞、守備兵は城下六番組士族、大砲九門(加農砲七門、臼砲二門)露砲臺、番兵小屋七棟がある。以上の六砲臺が鹿兒島城下の海岸に竝列し、海を隔てゝ之れと相對する櫻島の袴腰(橫山ともいふ)砲臺には、物主肝付兵部、守備兵は櫻島士族、大砲四門(加農砲)橫堤五箇所を設け、同じ櫻島の洗出(赤水ともいふ)砲臺にも肝付兵部が物主となり、守備兵は櫻島士族、大砲六門(加農砲三門、野砲三門)露砲臺、防彈火藥庫がある。海中の鳥島(今は其の形を失ふ)砲臺にも、同じく肝付兵部が物主で、守備兵は櫻島士族、大砲三門(野砲)橫堤二箇所を設け、沖小島には物主靑山愚痴、守備兵は靑山の門人で、大砲五門(加農砲)小砲十門(野砲)陰砲臺のやうに見えてゐるが、實際は砲臺を設けなかつた。但し之を合して以上總計十砲臺、大小砲八十九門(大砲七十九門、小砲十門)で、英艦の砲數と伯仲の間にある。而して諸砲臺總物主川上龍衞は祇園洲に在つた。尚ほ櫻島には、隅州の國分、淸水、牛根、囎唹郡の鄕士を配備し、軍賦役大山格之助と談合役郡山一介とが櫻島に出張した。別に水軍隊としての船六艘(或は十二艘とも云ふ)があり、これに十二封度砲一門づゝを載せ(或は十八斤短銅砲若くは二十四斤砲を一門づゝ載せたとも云ふ)一艘毎に十一人の乘組員であつたが、左程の勢力でもなかつたから、解隊上陸(七月二日の戰にて)せしめて、鹿兒島海岸砲臺の守備に當らしめた。
久光、茂久二公は、使者四人、軍役奉行折田平八、軍賦役伊地知正治、造士館助敎今藤新左衞門(宏)庭方重野厚之丞(安繹)を旗艦ユリアラスに遣して、其の來意を問はしめた。
 
時に午前十時頃であつたが、代理公使「ジヨン、二ール」は、將校數人と通譯官を從へて、使者を將官室に引見し、國書を交附して、二十四時間内に囘答あるべく、此の期間を經過して囘答なきに於ては、直に自由行動を取るべしとて、其の言辭頗る嚴なるものがあつた。之に對して使者は遁辭を設け、今藩主は疾を以て霧島温泉に療養中である、霧島は鹿兒島を距ること二十餘里、報を齎らすに往復數日を要するから、到底二十四時間内に返答することは困難で、從つて公使の期待に添ふことは出來まいと思まと、言ひ殘して引き上げた。其の國書なるものは代理公使より茂久公へ(茂久公不在ならば攝政又は藩廳の上官へ)宛てたもので、去年九月十四日(我が八月二十一日)生麥に於て、罪もなき英國商人「チヤールス、レノックス、リチヤードソン」を斬殺し、「ウヰリアム、クラーク」と「ウヰリアム、マーシヤル」の二人に重傷を負はせ、「ボラデール」夫人のみは無事であつたが、之れ實に英國政府及ぴ國民に大なる侮辱を與へたものである。條約上外國人の通行を許したる道路に於て、殺傷を行へる無法の大罪人は、宜しく英國海軍將校一二名の目前に引き出して死刑に處すべく、且つ殺傷に遇ひたる者及ぴ其の遺族に對する弔慰金二萬五千磅を提供すべし。是れ本國政府よりの命令である。若し此の命令を承諾せざるに於ては、英國艦隊は兵力を以て、此の命令を履行せしむる手段を取ると言ふのであつた。
之れに対して、二公は、書翰の往復を以て折衝するは事甚だ面倒であるから、代理公使及ぴ提督並に諸艦の長官を鹿児島城下に招き、有司をして彼我の曲直を論辯せしむるに若かずとし同日薩州政府の名を以て通牒を代理公使に贈り、明二十
西瓜賣決死隊の組織と其の計畫 九日午の刻、外國人應接公館(御舂屋内客室)にて、事理明白の應接に及ぴたいから、公使、提督及び上官の人々の上陸ありたし、但し端艇などより上陸あるに於ては、無禮を働く藩士のあらんも計り難い、就ては番船二艘づゝを各艦へ附け添へさせるから、其の番船で上陸ありたく、尚又薪水其の他の物品は、御希望に任せて其の番船で送り屆けると申入れた。實は之には深い計畫のあることで、彼等が上陸して應接公館に入つたならば、藩士は火を公館に放つて彼等を燒き殺すか、若くは其の上陸を待ちて一擧に之れを刺し殺さん策略であつた。それを悟つたか否かは知る由もないが、此の通牒を受け取つた代理公使は、使者に向つて薪水魚卵及ぴ果物類を買ひ求めたしと依賴し、使者は之れを諾すると共に、明日の上陸を促して歸つたのであるが、是日の夕景に「クーパー」提督は旗艦々長「ジヨスリン」大佐等をして、端艇に乘つて諸所を偵察せしめ、大佐等は重富沖に、薩藩汽船天祐丸、白鳳丸、靑鷹丸の三隻が停泊してゐるのを見屆けて歸艦した。これは談判破裂の場合に償金の代りとして拿捕する心組であつたからだとは、後にて知られたのであつた。
 二十九日(八月十三日)の朝、二公は側役伊地知壯之丞貞馨と軍賦役伊地如正治とを旗艦に遣し、公使等の上陸を促さしめたるが、彼等は危險を感じて上陸を肯んじない。且つ答へて曰ふには、我が旗艦に於て商議するか、然らざれば「ハボック」號は小艦であるから、海岸近くに碇泊せしめ、同艦に於て會合すべしとて、彼等の爲に安金の策を取つた。併し之は當方の望む所でない、當方の望む所は彼等を上陸せしめて、一擧に之を討ち取らんとするにあるから、伊地釦等の還
 
り報ずると共に、生麥事變の責任者たる奈良原喜左衞門と海江田武次は決死隊を組織して各艦へ斬入り、皆其の艦を奪ひ取らんとの計畫を立て、之を二公に請ひて許しを受けたので、當年二十二歳の元帥を始めとし、左記決死の士忽ち百五名を得た。
奈良原喜左衞門、海江田武次、大山彌介、毛利喜平太、土橋休五郞、淵邊直右衞門、川上助八郞、山本矢次郞、四本十左衞門、永山喜之介、嶺崎半左衞門、飯牟禮喜之助、石原直左衞門、最上才二、折田善次、町田六郞左衞門、内山伊右衞門、牛山龍助、湯地休左衞門、川北新九郞、大野四郞助、上村善之丞、岩元勇助、有馬熊次郞、春山越右衞門、房村猪之次、帖佐彦七、井上直次郞、和田八之進、古川直次郞、西鄕信吾、篠原冬一郞、平田平六、鈴木源五右衞門、鈴木壯七、久留助四郞、川上十郞太、園田與藤次、志岐藤九郞、山口仲吾、八木新七、吉田淸右衞門、基太村萬之介、江夏喜藏、木藤市介、門松喜兵衞、林矢之介、久留矢之介、鎌田五左衞門、大田八郞、赤塚源六、仁禮平介、是枝萬助、柴山龍五郞、池上四郞左衞門、松元直八、中島矢次郞、河野四郞左衞門、法元英介、甲斐宗之進、永山休淸、貴島卯太郞、重久直哉、永山彌一郞、中山吉太郞、大橋八郞右衞門、坂元彦右衞門、床次正藏、山口鐵之助、和田五左衞門、新納源四郞、大山彦助、黑江喜右衞門、平山喜八郞、大迫喜右衞門、上村喜兵衞、伊集院直右衞門の七十七人は、「薩藩史料」の記載する所であるが、今茲昭和九年八十五歳なる兒玉友介翁の記憶に據れぱ、以上七十七人の中、松元直八といへるは翁と入塊の間柄で、當時族行不在であつたから、此の一擧に參加しなかつたと本人より
慥に聞き及んだといふことである。又法元英介は餘りに弱年だから、其の參加は如何あるべきや、疑問に屬するといふことである。
尚ほ此の一擧に參加したる森元休五郞自記、椎原小彌太日記、平山龍助自記、及び野津侯爵家記録に據れば、前記七十七人の外、更に左記二十八人の參加を見る。益滿新八郞、上床源助、鈴木武五郞、千田壯右衞門、深見休蔵、林床之進、有馬休八、谷元兵右衞門、森新兵衞、橋口吉之丞、岸良彦七、小川小次郞、伊東四郞左衞門、森元休五郞、川北十兵衞、野津七次、谷山彦右衞門、黑田良介、弟子丸翁助、木場傳内、千田喜三次、椎原小彌太、及ぴ川畑要平、白石慶之丞、川口庄太郞、川畑半助、川口周吉、濱田甚八。以上の中、川畑要平以下の六人は、谷山鄕邊田の鄕士である。
 久光、茂久二公は、決死隊總員を二之丸に召して謁を賜ひ、懇ろに慰諭せらるゝ所あり、且つ賜ふに酒肴を以てして、其の行を壯ならしめられた。衆皆感激して退き、演武場に會合して、更に實行の順序方法を熟議したのである。それに依れば、一同は身を商賈に扮し、盛夏三伏の候であるから、西瓜其の他の果物、竝に鷄卵魚肉等を小船に積み、各艦に漕ぎ寄せて之を與へ、陸上よりの號砲を合圖に艦内に闖入し、縱橫奮擊して英人を殪し、悉く七艦を奪ひ取らうといふのである。これを西瓜賣決死隊と唱へ、十一人を一組とし、内一人を什長と定め、旗艦へは四十餘人(旗艦座乘の「キユーパー」提督の報告に據る)小船二艘に分乘して向ひ、他の六艦へは六十餘人小船六艘に分乘し、足輕十人づゝを同乘せしめて向ふことゝなり、其の旗艦への一艘には海江田武次を什長とする
 
決死隊の歸還 一組があり、他の一艘には奈良原喜左衞門を什長とする一組があつて、何れ劣らぬ一騎當千剛勇無比の士であるが、元帥、西鄕信吾、黑田了介、野津七次、和田八之進、木藤市介、赤塚源六、江夏喜藏、房村猪之次、森元休五郞の十勇士は、海江田武次を什長とする一組で、此の一組に町田六郞左衞門が使者として同乘した。六郞左衞門の容貌は貴公子然としてゐるから、藩主の一族であるとの觸れ込みで、月番家老井上但馬から代理公使への答書を携帶し、江夏喜藏は雄辯家であるから談判掛と爲り、奈良原喜左衞門組の志岐藤九郞は、眞つ先に代理公使に斬り付ける役目を帶び、斯くて部署既に定まり、準備亦た整つたので、一同は辨天波戸臺場の邊より船に上つて七艦に向つた。時に午後三時であつた。
 元帥等既に旗艦に達し、手眞似を以て西瓜などを與へんとする状を示せぱ、彼れも亦た手眞似を以て無用なりとの意を示すと共に、我が行動を怪み、他の六艦も皆悉く梯を撤して登艦を許さない。然るに旗艦にては、答書を持參したるを知つて、其の答書を持參する者一人のみを登艦せしめることゝなつたが、此の機失ふべからすとして、元帥等四十餘人は、我も我もと先を爭ふて登艦したのであつた。
此の登艦の事情に就いて、少しく述べて置きたいと思ふ。それは二艘の小船が旗艦の艦側に達して、西瓜を與へんとし、彼れは無用なりとし、互に手眞似で示してゐる時、年少なる通辯の「シーボルト」が甲板上に出で來り、何の用向かと尋ねるから答書を持つて來たのだと告げると、通辯は直に甲板下に去り、暫くして再ぴ出で來り、答書を持參する者だけ一人艦上に登れと言つて梯を下したから、言下に一人が登つた。
通辯は足下答書を持參するかと問ひ、否と答へる。又一人が登つた。足下答書を持參するか、否と答へる。斯くして又一人、二人、三人、四人と續々登るので、彼は大に怒つて其の登り來るのを遮つた時、奈良原喜左衞門が丁度登つて來て「シーボルト」に向ひ答書を持參する者は島津侯の一門であるから、多少の從士を率ゆるは禮である、何うして唯だ一人で遣はすことが出來るかと釋明したので彼は又甲板下に去つた。想ふに事情を艦長に告げたのであらう、暫くして彼は數人の士官と共に再ぴ出で來り頗る激したる語氣で、諸君悉く登艦して宜しいと言つた時には、既に大抵登艦の後であつたが、尚ほ小船に殘つて居た使者の町田等は、是に於て登艦したのであるが、甲板上の反對側には、劍銃を擕へた水兵が整列して、變に備ふる所があつた。「キューパー」提瞥の報告書には、敬意を表したのだと見えてゐるが、薩人の眼には威嚇だと映じたのであつた。
 代理公使は、使者町田六郞左衞門と志岐藤九郞、江夏喜藏の三人のみを將官室に引見し、町田は答書を交附し、江夏は彼我曲直の談判を開始して、故らに時を移すに努め、心密かに陸上からの號砲を待つてゐた。其の答書は家老川上但馬が、藩主の命を受けて裁したもので、左記の六項より成つてゐて、六月二十九日の日附である。
一、脱走したる下手人は未だ縛に就かないから、其の處刑は他日を期せらるぺし、但し他の罪人を下手人なりとして處刑するも足下等は其の眞僞を知るに由なかるぺし、とは言へ我藩に於ては、祖先以來人を欺かないのが傳統的精神であるから、左樣な事は出來ない。
 
二、條約中に外人が大名の往來を妨げても宜しいといふ條項は無いであらう。我が國法に從へば、大名の行列を犯した者は其の罪死に當る、幕府は斯かる大事を條約中に規定しないで却つて大名の過失とするのは、其の罪幕府にあるか大名にあるか、足下の判斷に待ちたい。
三、右に就いて幕府の重役と我藩の重役と立會の上の論判でなければ、今日此處にては一方の議論のみに止まつて、何の効果もない。
四、遺族扶助料の事は、右論定の後にする。
五、幕府は貴國軍艦の鹿兒島に向へることを蒸汽船を以て我藩に報じたりと言ふも、未だ其の報に接しない、幕府に反覆の事多きは、之を以ても證據立てられる。
六、我藩は幕府の命に從って萬事を處置するのであるから、幕府の命なき限りは、貴國の要求に應じられない。
〔備考〕第五項は幕府より既に蒸汽船を以て鹿兒島に報ぜしめたるも、途中機關に故障を生じ戰後に至つて延著したのであつた。
 此の答書に就いて、江夏は又説明を加へつゝあつたが、號砲は未だ響かない。陸上から諸艦の動靜を見れば、旗艦には黄色旗を掲揚して、何事か警戒を加ふるやうであり、各艦は之に應信する所があつて、戰雲が動くやうであるから、鹿兒島海岸砲臺では、大砲に彈藥を裝塡して、何時でも發砲の出來る準備を整へたのであるが、旗艦以外の六艦に向つた勇士は、登艦を許されないで、其の小船は空しく艦側を徘徊してゐるから、一齊に決死隊の斬込み計畫を施すの術がない。是に於て止むを得ず使者を旗艦に遣り、答書に誤謬の點がある
彼我の戰鬪準備 から持ち歸れと命じた。奈良原、海江田を始め元帥等は、髀肉の歎に堪ヘなかつたのであるが、亦奈何ともすることが出來ないので、命に應じて引上げ、他の六艦に向つた小船も、之を見て相共に歸途に就いた。而して一旦持ち歸つた答書は、使者が傳命の間違であつたといふ事にして、間もなく再び旗艦に送致せられたのである。一方「クーパー」提督は、此の決死隊の計畫を察知することは出來なかつたにしても、少くとも之を以て敵對行動の準備と見て取り、各艦の位置及び勢力の強弱如何を偵察する爲に來たものだと判斷し、決死隊の歸還後、軍艦の錨地を櫻島方面に移し、小池沖及び袴腰沖に碇泊した。(卷末附圖第一、參照)
 明くれば七月朔日(八月十四日)いよいよ戰鬪開始の決心を定められたる久光、茂久二公は城を出でて一旦平之馬場なる島津彈正の屋敷に移られ、申の上刻(午後四時)常盤の千眼寺を本營として、此處に移られた。(本營たる千眼寺内の遠望臺は、常磐山の半腹にあつて、鹿兒島灣内を一眸に收め、敵艦の進退も、我軍の守備状況も一々指顧することが出來る。)是日午後より天候險惡と爲り、夜に入つて風雨烈しく、各砲臺の守備兵は、布屋(天幕)を漏れ來る雨滴の爲に假睡することも出來なかつたが、交替で警戒を嚴にし、以て天明を待つた。又此の夜の風雨を利用して宇宿彦右衞門、川上六郞、大山彦助等は、密かに沖小島と燃崎の間の海中に、電氣仕掛の水雷三個を敷設して、豫め英艦敗退の歸路を絶つた。(此の水雷は、先代齊彬公の研究に基いて完成せられたもので、是日敷設した三個の水雷は、何れも厚さ一寸五分の松板を以て作り、其の高さ六尺、幅三尺、火藥三百斤を裝塡した
 
 
この図をクリックすると大きい画像が別窓で開きます
薩藩汽船の拿捕 ものであつた。)
 是日英國代理公使も亦た事茲に至つては、最早外交談判を以て其の功を奏することは出來ないと考へ、いよいよ兵力を用ふるに決心し、同日夕刻、「クーパー」提督に對して、適宜の彈壓手段を取るべく依賴したので、提督は斷然明日を以て戰鬪を開始すべく各艦に命令を發した。時恰も暴風雨襲來の虞れがあつたので、各艦に於ては荒天準備として、皆其の「ゲルンマスト」(高墻)と下したのが誂へ向きに明日の戰鬪準備となつたのである。且つ同時に提督は、小池沖に投錨せる「パール」、「アーガス」、「レースホース」、「コクエツト」、「ハボツク」の五艦に命するに、「パール」艦長指揮の下に、重富沖の薩藩汽船三艘を拿捕すべきを以てし、明日戰鬪開始の第一行動を取るに決した。
 七月二日(八月十五日)風雨益々急であるが、「パール」艦長「ボーレス」大佐は昨夜の命令に從ひ、拂曉五艦を指揮して重富沖に到り、「コクエツト」、「アーガス」、「レースホース」の三艦をして、それぞれ、天祐丸、白鳳丸、靑鷹丸の三汽船を傘捕せしめ、各艦は一汽船づゝを舷側に決著し、小池沖の錨地に牽引拉致した、時に午前十時過であつた。
この拿捕に際し汽船内の薩士は憤激して抵抗を試みたるも其の力及ばず、元長崎海軍練習所の太鼓役練習生たりし天祐丸士官本田彦次郞は、英兵の爲に銃劍を以て突かれ、海中に投じて行衞不明となり、吉富直次郞も亦背後より銃劍を以て突かれ、海中に飛び込み、柿内作之助は之を助けんとして同じく海中に飛び込みたるが、二人共に小船の救ふ所となつて重富に上陸した。此等薩士の抵抗を試みたる者は、天祐丸の乘
戰鬪の開始 員であつたから、英艦は天祐丸乘組全員を重富の脇元浦に上陸せしめ、白鳳靑鷹の乘組員は、小池沖の錨地に達したる後、悉く櫻島に上陸せしめた。但し天祐丸乘組の船奉行添役五代才助(友厚)と靑鷹丸乘頭(船長)松木弘庵(後の寺島宗則)の二人を捕虜として英艦に拘禁した。後ち二人は橫濱に於て釋放せられた。そもそも「キユーパー」提督が此の三汽船を拿捕したのは、之を以て生麥の償金に引き充てんが爲であつて、斯くすれば薩藩に於ても必ず考慮し、我が要求に應ずるであらうと推測したからであつた。その天祐丸は原名を「イングランド」と言つて、百馬力、七百四十六噸、千八百五十六年(安政二年)の英國製で萬延元年(千八百六十一年)に十二萬八千磅を以て買入れ、白鳳丸は原名「コンテスト」、百二十馬力、五百三十二噸、千八百六十一年(萬延元年)の米國製で、文久三年(千八百六十三年)に九萬五千弗を以て買入れ、靑鷹丸は原名「サー、ジヨージ、グレイ」、九十馬力、四百九十二噸、千八百六十年(安政六年)の米國製で、文久三年(千八百六十三年)四月に八萬五千弗を以て買入れたもので、此の總額三十萬八千弗であるから、英國の要求する償金二萬五千磅を差引いて尚ほ餘りがある。それで此の拿捕行爲は、薩藩を牽制し得べしと思ひの外、却つて戰鬪を激發せしめたのであつた。
 此の拿捕行爲を見て、重富からの急飛脚二人が鹿兒島に馳せ來り、英艦の暴状を軍役方に報じ、軍役方は又直に之を千眼寺の本營に急報したので、本營に於ける軍議は、いよいよ英艦擊攘に一決し、開戰命令を各砲臺に傳達せしむべく急使として大久保一藏(利通)を差遣した。本營との最近距離は
 
七月二日戰鬪の状況 天保山砂揚場砲臺であるが、開戰の命令今や遲しと待つて居た所へ、大久保が馳せ來たので、未だ命を傳へ終る間もなく、轟然一發、旗艦「ユリアラス」號に向つて火蓋を切り、續いて各砲臺からも亦一齊に砲擊を開始した、時に正午であつた。或は最初の第一彈を放ちたるは新波戸臺場だとも言はれてゐる。又旗艦は白色に塗られてゐたので、薩軍では之を白壁軍艦と唱へ、各砲臺からの攻擊目標となり、砲彈は專ら旗艦に集中したのであつた。戰鬪が既に開始せられたので、英艦隊は其の陣容を整へんが爲に、朝來拿捕したる三汽船を小池沖に拘留監視中の「コクエツト」、「アーガス」、「レースホース」の三艦をも隊列に加はらしむる必要があるので「キューパー」提督は最後の手段を取り、信號を以て三汽船を燒沈すべきを命じ、「ハボック」號一艦をして其の全燒に至る迄之を監守せしめた。
 時に櫻島袴腰砲臺に於ては、鹿兒島海岸砲臺の開戰と共に直に砲門を開きて、眼下に碇泊せる「パーシユース」號を急擊し、一彈又一彈、艦上に命中するので、袴腰砲臺のあるを知らなかつた艦長「キングストン」少佐は、此の意外なる砲擊に狼狽し、錨を引き上ぐる暇もなく倉皇として錨鎖を切斷して奔つた。(戰後薩藩は其の錨を分捕つたのであるが、他日無償にて之を英國に返却した。)「クーパー」提督は之を見て、同艦に信號命令を發し、袴腰砲臺を沈默せしめて、然る後艦隊に來り加はるべきを以てしたるも、其の沈默は遂に實行するを得なかつた。
 是日艦隊の鹿兒島海岸砲臺攻擊の方法は、一砲臺毎に順次沈默せしめるに在つたから、其の戰鬪隊列の整ふと共に單縱
 
陣を張つて進航し來り、午後一時半頃、先づ祇園洲砲臺を破壞すべく、今囘初めて海戰に使用する最新式の「アームストロング」砲を以て、左舷右舷の囘天打方を爲しつゝ、潮音院及び良英寺の前面より斜に側面攻擊の位置を取り、盛に十字砲火を加へたので、同砲臺は頗る苦戰に陷り、右側の一二門を殘すの外、他の砲門は悉く破壞せられて、使用するを得ざるに至つた。時に風雨益々加はり、海波簸蕩して諸艦の動搖甚しく、敵艦隊の爲には頗る不利なりしにも拘はらず、彼れが命中彈は巧に我が砲口を破つて、其の秀絶せる披能を示したのであつた。(卷末附圖第二、參照)
 斯くて旗艦「ユリアラス」號は、單獨にて南に進み、新波戸及ぴ辨天波戸の二砲臺を攻擊したるが、新波戸砲臺は南面せるが故に、是日の暴風雨に依つて激浪が砲臺内に迸流し、船橋は破斷せられ、陸上との交通竝に糧食運搬の自由を失つたのであるが、決死の守備兵は之を意とせす、奮戰を繼續したる有樣は、實に目醒しいものがあつた。年後三時、辨天波戸砲臺より洋式砲術師範成田彦十郞の照準を以て發射せる二十九拇臼砲の一彈は、旗艦の砲門に命中して、甲板上に炸裂し、艦橋に在つて指揮せる艦長「ジヨスリン」大佐及び副艦長「ウヰルモツト」少佐を斃し、同時に砲員約二十名の死傷者を出さしめ、他の一彈は旗艦の舷側「ヒユルウオーク」に巨孔を穿ち、又一彈は「ブーム」に載せたる端艇の底を破つた。(一説に旗艦に大損害を與へたのは新波戸砲臺よりの砲彈命中に依るとも言はれてゐるが、成田家々傳及び市來四郞翁の記事に據れば確かに辨天台場であつて、二十九拇臼砲は殊勳の名を揚げた。)
 
 
この図をクリックすると大きい画像が別窓で開きます
 
大山元帥の奮戰 此の二十九拇臼砲即ち「ボンベン」は、各砲臺に備へてあつて、今その一門が遊就館の中央廣間に、二門の彌介砲即ち長四斤と十二斤綫臼砲と共に陳列されてゐる。此の「ボンベン」の砲身上面に、王冠の下、月桂樹葉に抱かれて、「薩」の字の「マーク」が附してある。之れに就いて面白き歴史を有してゐる。それは我國泰西砲術の鼻祖高島秋帆が、此の二十九拇臼砲彈の形に擬したる茶釜に「報國芹誠」の銘を刻し、別に又左の和歌一首を詠じたのである。
  ほむへんの釜うちかけて君が代を
    夢のたゆまににむととそおもふ
右に就いて齊彬公も亦た御手製の「ボンベン」茶碗に、
  爐にかまに道具そろへてこと國の
    船をみちむに打やほむへん
の歌を記され、大砲の圖を描かれたのが今に現存してゐる。公の此の歌の御趣意ほ、圖らずも薩英戰爭に依つて實現を見るに至つたのである。想ふに公の威靈の然らしめらるゝ所、此の大捷を得たものであらう。
 元帥及び西鄕從道等(西鄕南洲は沖永良部島に謫居中)の下加治屋町方限の武士は、二番組として辨天波戸砲臺の守備に就いて奮戰しつゝあつたが、殊に元帥は敵彈の飛來を物ともせす、烈風暴雨に身を曝し、雙肌脱ぎとなつて盛に大砲を發射したる勇壯無比の情景は、當時戰友に依つて傳へられてゐる。(文政七年の夏、薩藩封内七島の一なる寶島に於て、英人の狼藉者を成敗し、其の勇名を揚げたる吉村九助氏の後孫で、此の薩英戰爭に從軍し、最近まで健在であつた吉村貞寬氏の談話に據る。)
 旗艦が辨天波戸砲臺よりの砲擊を受けて大損害を蒙つた時、「レースホース」號は尚ほ祇園洲砲臺の前面に於て同砲臺を砲擊しつゝあつたが、風浪の爲に吹き流されて、砲臺前二百「ヤード」の近距離に來り、午後三時十分遂に淺瀨に擱座して艦底を破り、艦は甚しく傾斜して、又大砲を發射することが出來ないので、艦長「ボツクサ」少佐は艦員に命じ、頻りに檣樓より小銃を以て砲臺を急射せしめた。
此の祇園洲砲臺の備砲で、是時砲身數箇所に敵の小銃彈痕を留めたる八十斤加農砲が、現在東京九段坂上の別格官幣社靖國神社境内遊就館正面外庭に保存せられ、當年を偲ぶべき唯一無二の記念物として尊重せられてゐる。此の砲が安政五年以前齊彬公時代の鑄造に係れるものと推察せられ、特に記すべきは其の砲身上面に彫刻せられたる「マーク」である。それは王冠の下に月桂樹の葉を以て抱かれたる環内に薩の一字が刻せられ、普通一般に用ひらるゝ家紋などゝは選を異にし、如何にも開明的進取的な象徴である。
 時に祇園洲砲臺の各砲門は、既に破損して用を爲さないので、我が守備兵は「レースホース」號の擱座を見て、空しく此の好機を逸するを惜むと共に、彼れ或は陸戰隊を上陸せしめて襲擊し來たらんことを慮り、衆皆砲臺の背後に伏して之に備ふる所があつた。(初め齊彬公時代に此の祇園洲砲臺の後方なる多賀山上にも砲臺築造の設計があつたが、間もなく公の逝去と共に實現するに至らなかつた。若しそれが實現せられてゐたなら、今此の「レースホース」號を思ふ存分に粉碎せんものをと、守備の人々切齒せざるはなかつた。それで戰後、英艦の再擧を慮つて、多賀山上にも砲臺を築かれたの
 
 
 
鹿児島市街の火災 である。尚ほ又陸戰隊の上陸に就いては、當時皆思ふに彼等西洋人の脚は日本人のやうに曲らない、殊に長靴を穿いてゐるから進退に不自由である、彼等若し上陸したならば、大根を切るやうに、斬つて斬つて斬り斃してやるのだと言ひ合はせてゐたと傳へられてゐる。)然るに午後四時頃、僚艦「コクエツト」、「アーガス」、「ハボツク」の三隻來り救ひ、一方には祇園洲砲臺に掩護砲擊を加へ、一方には曵索を以て「レースホース」號の引卸しに從事し救助作業一時間餘を要して、遂に曵航退却したのは午後五時半頃であつた。此の間新波戸砲臺より盛に砲擊を加へ、「アーガス」號は爲に三彈を被り、一彈は右舷後甲板に命中し、一彈は大檣を貫き、一彈は舷側水平線を穿つた。
 既にして午後七時頃、「ハボツク」號は磯(鹿兒島城東約一里の海岸にして藩主の別墅なる茶亭のある所)の前面に碇泊せる琉球船三艘と日向の赤江船二艘とを燒棄し、更に「パーシユース」號と共に磯の集成館(大砲、小銃、琉球通貨等の鑄造及び其他各種の製造所)を砲擊して之を燒き、又火箭を放つて鹿兒島市街を燒き、然る後諸艦悉く小池沖の錨地に集合した。
 午後八時頃に至り、火災市街に起り、終夜炎焰天を焦し、上町方面の大半は其の炎を蒙り、民家三百五十餘戸、士屋敷百六十餘戸、及び淨光明寺、不斷光院、興國寺、般若院等の大刹も亦た皆燒失した。(淨光明寺の地は高くして白壁を繞らせるに依り、英艦は之を鹿兒島城と誤認したらしく、同寺を目標に砲擊したるを以て、上町方面は多く火災に罹つたのであるが、下町方面が損害を免れたに就いては、又實に特記
彼我の死傷

七月三日戰鬪の状況
すべき事がある。それは齊彬公在世當時、下町市街の石燈籠通りより上の方廣小路(現在の筑町)までの海岸に、高さ三間、居七間、留り九尺、長さ最短十一間、最長二十八間六合の大堤七個を築き、以て萬一の際に於ける掩堡とせられたるが、是日の戰、多く敵彈を此の大堤に遮り、爲に下町方面の民家人馬の損害を免るを得たのは、實に大幸であつた。)
 是日の戰、旗艦「ユリアラス」號に於ては、艦長、副艦長を始め即死十人、傷者二十一人(内死亡士官二人)、合計死傷三十一人を出し、「パール」號にては傷者七人(内死亡一人)、「パーシユース」號にては即死一人、傷者九人(内重傷致死四人)、合計死傷十人、「アーガス」號にては傷者六人、「レースホース」號にては傷者三人、「コクエツト」號にては即死二人、傷者四人を出し、合計即死十三人、傷者五十人(内七人死亡)總計死傷六十三人を算すると共に、最小艦「ハボツク」號を除くの外、他の六艦は悉く其の艦體に大破小破を蒙り、中にも擱座したる「レースホース」號は、獨自の航行力を失つた。
 薩軍に於ては、鹿兒島海岸六砲臺の中、祇園洲砲臺伍長税所淸太郞唯だ一人の戰死者と、同砲臺に於ける傷者七人を出したに過ぎなかつた。(諸砲臺總物主川上龍衞は祇園洲砲臺に在つて負傷し、同砲臺守備兵落合四郞左衞門、家村幸之丞、門松源之丞、肱岡伊之助、平田甚五郞の負傷者を合せて七人。)此の他市街遊軍守衞兵に於て、死者三人、傷者五人を出してゐるが、孰れも敵の流彈を受けたものであつた。
 七月三日(八月十六日)雨尚ほ止まないのであるが、午前十時、英艦隊は前日の戰死者、「ユリアラス」艦長及ぴ副艦
 
長以下を悉く水葬に附し、嚠喨たる軍樂隊の響きが鹿兒島城下に聞えた。.折しも「キユーパー」提督は、袴腰山上の樹木鬱蒼(今日は樹木なし)たる蔭に於て、新に砲臺を築造せるを見て(但し誤認)小池沖の錨地の不利なるを知り、谷山沖に退いて諸艦の損傷を修繕するに決し、午後三時單縱陣を作つて南下し來り、一方には袴腰山上に發砲し、一方には鹿兒島海岸砲臺と多少の砲擊を應酬しつゝ、鳥島砲臺を過ぎて、殿艦二隻は洗出の前面に近づき、赤水砲臺を猛擊し、先頭艦は今や沖小島と燃崎との間に其の針路を取らんとした。其處には七月朔日夜風雨に乘じて敷設したる電氣仕掛の三個の水雷があるので、鹿兒島海岸砲臺の守備兵は、手に汗を握つて之を望見し、其の結果に對して大に期待する所があつたが、何ぞ圖らん艦隊は俄に針路を右轉したので、一同は失望落膽したのであつた。
 艦隊の針路右轉は、沖小島砲臺からの砲擊を受けた爲であつた。沖小島は天山流砲術師範靑山愚痴を物主として、其の門下生の守備する所、前日の戰には唯だ砲聲を聞くのみで、髀肉の歎に堪へなかつたのであるが、是日幸にも敵艦隊の南下し來るあつて、今や目前を通過し去らんとするを見ては、如何でか手を空しうすることが出來よう。愚痴は砲彈を膝に載せて、「今日は氣張れよ今日は氣張れよ」(氣張るとは奮發の意義)と其の砲彈を撫でながら、滿を持して血氣にはやる部下を制し、艦隊が命中彈の圈内に入り來るを待つて初めて先頭艦に砲擊を加へたので、艦隊は之に應戰せんが爲に俄に針路を右轉したのであつた。
 斯くて艦隊は、沖小島を右に半周し、其の左舷砲を開いて
英艦隊の退却と守備兵の解散

戰爭の結果
頻りに發砲したるが、初の程は要所を逸したるも、全艦隊が島の西方面に移れる頃には、照準正確となつて、著彈砲臺を掠め、砲手井上直八(後の元帥良馨)と諏訪八郞左衞門の二人が重輕傷を負ふた。砲臺よりの發砲は、大砲二十餘發、小砲約百發で、命中的確、殆んど虚彈がなかつたのであるが、皆鉛彈で効力乏しく、大損害を蒙らしむることの出來なかつたのは、甚だ遺憾であつた。既にして艦隊は島側を通過して谷山沖に向ひ、來航當時假泊したる七ツ島附近に投錨し、徹宵艦體の損傷修繕に從事した。是日の戰、我軍に於ては前記井上、諏訪の二人負傷したる外、城下遊軍守衞兵一人(山下賢之丞)流彈の爲に死亡ししたのみであつた。
 七月四日(八月十七日)午後四時頃、英艦豚は谷山沖を拔錨して山川港方面に去り、其の中の一艦が曵航せられたのであるが、小根占沖にて修理を加へたる一艦があつた、多分それは曵航せられたものであらうと云はれてゐる。是日夕刻、山川及び指宿より英艦退去の報城下に達したので、諸砲臺の守備兵を始めとし、皆歸家を許され、元帥等は各其の受持場處に於て凱歌を奏し、然る後解散したのであつた。
 此の戰、白衣の神將が幣を取つて薩軍を指揮し、放つ所虚彈なく、且つ空中に於て大兵が勝を奏するの聲があつたので、英艦は機を見て退去したのだと傳へられてゐる。(この事は當時の英字新聞に見えたりとて、八田知紀翁の手記及び同翁の「みいくさに神のさきたつ國なれはみいつにむかふあたなかりけり」との和歌がある。)由來薩摩隼人の武勇は天下に鳴る所、夙に尊皇を以て終始を一貫し、大義を明かにし、名分を正し、開國進取方針を以て國是と爲し、海防を嚴にし、
武備を充實し、極力富國強兵策を講じたればこそ、今此の戰に於て英艦隊を擊退するを得たのであるが、固より邪曲は彼にあつて、我の正義に勝つべくもないから、武士道擁護の爲に社稷の存亡を賭し、以て皇威を海外に輝かさんとするに於て、天鑒の儼明なるものなくて止むべきではない。されば白衣の神將が幣を取つて薩軍を指揮したりとの傳説は、必ずしも虚構妄譚としてのみ觀過すべきではなく、其處に神人合一の靈妙なるものあると思ふべきではあるまいか。
 是より先、藩内に於ては議論區々に分れ、或は急進、或は保守、或は漸進主義を取るものあつて、頗る統一を缺いてゐたのであるが、今此の英艦の襲來は、期せずして擧藩一致の實を致し、同心協力以て之に當つたことは、洵に薩藩將來の爲の幸福であり、且又國家の爲の幸福でもあつて、爾來藩士一同歩調を合はせて力を勤王に盡すことを得たのであつた。
 尚此の戰に於て目醒めたことは、泰西文明の利器の威力であつた。先代齊彬公は蘭書に依つて頻りに泰西の文明を研究し、富國強兵の策を講ぜられたるが、其の遺志を繼紹せらるゝ久光、茂久二公は、時代の趨勢に鑑み、此の戰鬪の實驗に徴して、直接藩士を西洋に派遣し、彼が長を探つて我の短を補ふを急務とし、それが爲には薩英の握手を必要とした。是に於て同年十月償金七萬兩を橫濱に於て英國代理公使に交附し(此の償金は幕府より借用したるものにて、名義は薩藩なるも、實は幕府の支出に係る)留學生の派遣、軍艦購入の斡旋を諾せしめ、慶應元年には約に從つて留學生十五人を英國に差遣し、慶應二年には英國公使「パークス」夫妻の鹿兒島訪問と爲つて、薩英の交驩を行ひ、此等の留學生は明治新政
府の要路に立つて、國家に貢獻する所多大なるものありしなど、其の結果を顧みれば、薩英戰爭は所謂禍を轉じて福としたものであつた。
 
第四章へ 第六章へ
『元帥公爵大山嚴』目次へ
サイトのトップへ
inserted by FC2 system