日本史探偵団文庫『元帥公爵大山嚴』
第七章 戊辰前の活躍
 
文久三年八月十八日の京都の政變      第七章 戊辰前の活躍

   一 第一次征長役從軍

 征長の役は、幕府の興廢存亡を卜すべき大事件であるが、其の原因の第一は、文久三年八月十八日の京都の政變に發し、第二は此の政變に基づける元治元年七月十九日の禁門の變に發したのである。
 初め文久三年五月十日を以て攘夷期日と定められしより、長州は率先して關門海峽通航の外國船を砲擊すると共に、京師に於ける長藩士は、攘夷急激黨の中堅と爲り、公卿堂上を動かして、遂に天皇親征の議を主張し、三條實美等の如き意氣壯鋭なる參政、國事掛の縉紳は、朝廷の實權を握つて、之れと相通じ大に計畫する所があつた。即ち其の計畫に據れば、主上は先づ大和に行幸あらせられ、神武天皇の山陵竝に春日大社に謁し給ひて、親征の軍議を開かせられ、更に鳳輦を伊勢に進めて、神宮を拜し給ひ、然る後いよいよ外夷を擊攘あらせらるゝ順序であつたが、其の内實は、此の機會を以て大纛を函根に進め、先づ幕府を討伐し、次に攘夷を決行するにあつて、八月十三日俄に親征の詔勅を發せられ、拾萬石以上の諸大名は、其の持高に應じて各軍費を進献すべしと達せられた。然るに攘夷問題は固より深く宸襟を惱ませ給ふ所なるも、それは公武合體、國内一致して然る後の攘夷でなければならぬとは、最初よりの叡慮にて、過激の撰夷は喜ぴ給はぬ所であらせられたから、今此の親征の詔勅は、參政、國事掛等の強ゆる所に係り、眞の叡慮にてあらせ給はぬことは、少
しく朝廷の事情に通ずる者の洞察し得る所であつた。是に於て當時在京の薩藩士高崎猪太郞(五六)、高崎佐太郞(正風)、奈良原喜八郞(繁)等は、會藩士廣澤安任、秋月悌次郞(胤永)、手代木直右衞門等と謀つて、中川宮朝彦親王、近衞忠煕父子、及び二條齊敬等に進言するに、御親征中止の事を以てしたるに、中川宮等は大に之を贊同せられ、宮は八月十五日と十七日の兩度參内あつて、意見を奏上せられたるに、直に嘉納あらせ給ひ、乃ち朝廷の改革を行ひて、過激の堂上を黜け、親征の擧を停止せらるゝに決し、十八日大和行幸御延引の勅命を下し給ひ、參政、國事掛等の職を廢し、三條實美等の參朝を停止し、長藩の堺町御門の警衞を罷め、長藩主父子及び同藩士の入京を禁じ、會薩兩藩の兵を以て諸門の警衞に當らしめた。之を世に八月十八日の政變といふのであるが、是日急激黨の公卿堂上、及び長州支藩淸末藩主毛利元純、德山藩主市川監物(經幹)等、鷹司關白邸に參集し、關白に迫つて參内上奏する所あらんとし、喧々囂々名状すべくもなく、又堺町御門の長藩士は、朝命に應ぜずして其の守備を徹せざるが爲、薩兵は之れと對持して大砲を差向け、今にも變事の起らんとする有樣であつたが、堺町御門へは勅使柳原光愛が撤兵の命を傳へ、鷹司邸へは勅使淸水谷公正之に臨みて退散を命じたので、長藩士及び急激黨は、怨を呑んで大佛の妙法院に退き、今後の方針を議した。中には河内の金剛山に據って京師と一戰するに若かずと唱ふる者もあつて、議論紛々容易に決しなかつたのであるが、衆議は遂に一旦長州に歸つて再擧を計るべしと爲し、十九日曉天、吉川經幹、毛利元純等は、三條實美、三條西季知、東久世通禧、四條隆謌、壬生基修、
 
元治甲子禁門の變 錦小路賴德、澤宣嘉の七卿と共に妙法院を出でて歸藩の途に就いた。既にして七卿は其の官位を褫奪せられ、尋で澤宣嘉は周防三田尻を脱して兵を生野銀山に擧げ、錦小路賴德は長州に客死し、殘るは五卿となつた。
 長藩に於ては、八月十八日の政變を以て、京都守護職松平容保を主謀者とし、君側の奸を除くを名として容保を斃さんが爲に、世子毛利元德自ら大兵を率ゐて上洛するに決し、其の先鋒として家老福原越後、益田右衞門介、國司信濃等は、元治元年六月、各兵數百を引具し、哀訴状を携へて上京の途に就き、久留米の眞木和泉は、總參謀格を以て浪士組一隊に長として之れと共にし、同月二十四日福原越後は伏見に到著するや、直に其の哀訴状なるものを朝廷に奉り、長藩主父子及び三條卿等の罪を赦して、其の入京の禁を解かれんことを歎願し、二十七日には、國司信濃は、浪士の鎭撫と唱へて、嵯峨天龍寺に陣し、眞木和泉等の浪士隊は、山崎天王山及び八幡に屯集し、益田右衞門介の一隊も亦た天王山に陣し、機の熟するを待ちて、三方より京師に攻入るの作戰計畫を運らした。
 然るに公卿堂上の中には、長州に加擔する者も尠からす、正親町三條實愛の如きは、毛利慶親父子には罪過あるのでなく、其の家臣等が暴擧を謀つて、遂に勅勘を蒙つたのであるから、父子の入京を許して然るべく、三條實美等は脱走の罪あつて、今直に召還せられ難き旨を諭されたならば、必ず、平穩に歸すべしと主張し、一條、大炊御門等三十餘名も、亦た連署して毛利父子に對する寬典の議を奏請したので、六月二十七日朝議は遂に父子赦免に決した。然るに當時禁闕護衞
總督の任に在りたる一橋慶喜は、之を聞きて大に驚き、即夜參内して軟派の公卿堂上に説得するに、長州は表面上哀訴歎願を裝へども、既に兵を率ゐ武器を携へ來れるは、朝廷を脅迫するものである、若し此の儘彼れの歎願を許さるゝに於ては、何を以て朝威を維持せらるべきぞ、彼れ眞に歎願の精神あらば、宜しく退却して後命を待たしむべく、而かも猶朝命を奉ぜざらば、追討あつて然るべし、朝議此の意見を用ひ給はずんば、臣は守護職松平容保、所司代松平定敬と共に、職を辭して京師を去るの外なしと論じ、一座を睥睨したる態度は、實に堂々たるものであつた。一座爲に肅として聲なく、朝廷の形勢は混沌たるものがあるので、近衞忠房之を憂へ、直に西鄕隆盛を召して、慶喜と實愛との兩説何れを採るべきかを質した。(西鄕は文久二年六月德之島に流謫せられ、更に沖永良部島に轉流囹圄の身となりしが、元治元年二月赦免召還せられ、三月十四日京都に到著し、軍賦役を命ぜらる。)西鄕は慶喜の説に贊成し、長藩士若し退去して後命を待たざるに於ては、逆意の顯然たるものがあるから、追討の勅令を下さるべし、然るときは名義も正しく、朝威も振ひ申すべしと答へたので、忠房大に悟る所があつて、朝議は遂に慶喜の説に決し、七月朔日、幕府の大目付永井尚志と戸川安包とが伏見に至り、朝命を福原越後に傳へ、兵を退けて後命を俟たしめたるが、越後は言を左右にして之を肯んぜなかつた。
 是に於て慶喜、容保等は萬一の場合を慮り、薩藩に對して出兵を求め、共同作戰を計畫したのであるが、西鄕は之を以て會、長の私戰と爲し、薩藩の任務は只管禁闕の護衞にある
 
から、朝命に非ざる限りは、兵を動かすを得ずと答へて、其の請求を拒絶した。此時に當り、眞木和泉の浪士隊及ぴ久坂玄瑞等の長兵は、七月十八日を期して密に鷹司邸に潛伏し、有栖川宮を始め、鷹司、正親町三條等諸公卿の參内を促して朝議を一變せんことを計りたるが、其の未だ發せざるに中川宮之を探知して、近衞忠煕、忠房及び其の他の公卿堂上に急報せらるゝと共に、一橋、會津、桑名の諸侯俄に參内し、此夜朝議は遂に追討に決し、一橋慶喜を追討總督に任じた。されば薩藩に於ても、既に勅命とあらば水火を厭ふ所でないから、直に部署を定めて、宮之城領主島津圖書の一隊は宮門を護衞し、重富領主島津備後の一隊は天龍寺を攻擊すべく、西鄕と伊地知正治等は參謀となつて、軍を進むるの手筈が整つた。
 時に追討令の發せられたるを偵知したる長州諸隊は、先んずれば人を制す、我より京師に進入するに若かずとし、十九日曉天、伏見、山崎、天龍寺の三面より一時に押寄せ來たれるが、福原越後は伏見街道より入京せんとして大垣藩兵の爲に擊退せられ、更に竹田街道より進まんとして、又彦根會津の兵に破られ、越後は傷いて遂に敗走した。山崎方より押寄せたる眞木和泉の浪士隊及び久坂玄瑞等の一隊は、堺町門まで進みて越前兵に拒がれ、轉じて鷹司邸に潛入したるが、兵火四方に起ると共に鷹司邸も亦た燒かれて久坂等は猛火の中に奮鬪して自刄し、眞木和泉は敗兵を提げて重圍を脱し、辛くも天王山に引上げた。天龍寺を出でたる國司信濃は、中立賣門に進みて筑前兵を破り、勢に乘じて蛤門の會津兵と戰ひ殆ど又之を破り、同時に公卿門に迫つた。公卿門内は即ち御
元帥等の禁闕守備 所である、紫宸殿の庭上に長州兵の彈丸が頻りに落下し、公卿堂上は四方に逃げ惑ひ、今や將に鳳輦を安全の地に遷し奉らんとするに至つた。時に乾門を固めて居た薩軍は、急を聞きて公卿門に駈け著け、西鄕指揮の下に大砲四門を以て長兵を橫擊し、西鄕は微傷を負へるも物ともせす、遂に公卿門の危きを救ひ蛤門を占領したるが、國司信濃は軍旗及び鎧櫃を遺棄し、纔に身を以て免れた。その鎧櫃の中には、毛利慶親父子黑印の軍令状があつたので、京都への攻入りは最初より計畫的の軍謀たることを暴露するに至つた。是日益田右衞門介は、天王山に留まつて形勢を觀望しゐたるが、敗報頻りに到つて又施すに術なく、遂に其の營を徹して西走し、眞木和泉等の引上げ來つた時には、既に一兵をも殘さなかつた。翌二十日に至り、眞木は總參謀格の責を負ひ、同志十七人と共に天王山に自刄を遂げた。而して同日薩軍は天龍寺を燒き、後日の爲に長軍の勦窟を絶つたのである。
 此の戰、長兵の彈丸禁闕を掠め、且つ長藩主父子黑印の軍令状に依つて罪状明白となつたので、朝廷は直に毛利慶親父子の官位を褫ひ、同時に長州派と目せらるゝ公卿堂上の參朝を停め、他人との面會を禁じ、七月二十三日、長州征討の勅命を下された。
 此時に當り、京都滯狂の薩藩家老小松帶刀は、書を江戸の藩士に馳せて、大山元帥等二十餘人を京都に招き、禁闕護衞の任に當らしめたので、元帥を始め、伊東次右衞門、黑田了介、谷元兵右衞門、山田孫一郞、林正之進、木藤市介、竹内健藏、深見休藏の江川塾生九人、竝に谷村孫七、大脇彌兵衞、江夏淸一郞、倉野直右衞門、國分次郞兵衞、田中正彦、左近
 
第一次長州征伐 允嘉右衞門、新納喜之助、田原嘉八郞、加納雄左衞門、花田勇四郞、北鄕主水、主水の家來有島武二の十三人が京都に向つた。時恰も元帥は、八月朔日を以て砲術の免許皆傳を得、同日江川塾を退いたのであるから、其の京都到著は同月十日前後であらうと思はれる。
 既に征長の命を下されて以來、總督の人選に關し、京師と關東との間に其の意見を異にし、容易に決しなかつたのであるが、幕府は遂に尾張前大納言德川慶勝を總督に、越前藩主松平茂韶を副總督に任命し、九月二十八日之を諸藩に達示して、征長の準備を整へしめ、十月二十四日尾張總督は、大阪城に於て軍議を開き、特に西鄕隆盛を召して意見を徴した。西鄕は之に答へて、征長は大義名分の上から已むを得ないが、征長の御趣意さへ貫徹すれば宜しいのであるから、一旦長防の國境に兵を進めるにしても、必ずしも戰ふの必要はない。今や兄弟墻に鬩ぎて外其の侮りを招き、國力を消耗せしめて、天下の擾亂を久しからしむるは、甚だ以て謂はれなき事である。就いては一日も速に征長問題を落著せしめんが爲に、長人を以て長人を治めしむるの策を取るに若くはないと建言した。總督は大に之を喜び、征長一切の事を西鄕に託し、且つ賜ふに副刀を以てし、「何分宜しく賴む」と、辭を低うして委任せられた。是に於て當時薩藩の側役たる西鄕は、事實上征長軍の大參謀格となつた。
 十月二十六日、西鄕は長人を以て長人を治めしめんが爲に、吉井幸輔、税所長藏、及び尾藩の若井成章を伴ひて大阪を出發し、途に廣島を經て、十一月三日岩國に到著し、吉川監物に面會して、説くに恭順謝罪を以てし、毛利慶親父子の謹愼、
元帥等の廣島到著 益田、國司、福原三國老の斷罪、三條以下五卿の移轉等を提議したるが、此の提議は監物が既に西鄕の使者高崎猪太郞より聽き、長藩父子に勸めて處決する所あり、西鄕の岩國到著の前日、使を廣島に遣し、藩論恭順に決したれば、暫く追討期限を猶豫せらべく斡旋せられたき旨を藝藩に依賴に及んだ直後であるから、今西鄕の來り説くに當つて、又何等の異議あるべき筈なく、一にも二にも其の諭す所に從ひ、只管恭順謝罪の意を表したので、六日西鄕は廣島に還つた。其處へ八日に至り京都守衞の薩兵の一部が、大目付高橋縫殿、小姓組番頭吉利群吉に引率せられ、救應隊の名目で廣島に到著した。此の吉利群吉の率ゆる一隊は、鹿兒島城下隊の一組で、大山元帥は即ち其の隊士であるが、七月十九日の禁門の戰に捕虜としたる長州兵十人も亦た此の隊に伴はれて來た。之れは豫め西鄕が命じて置いた所であるから、即日西鄕は此の捕虜十人を岩國に送り屆けて、更に本藩に引渡さしめた。蓋し遠謀のあることで、他日薩長の同盟に好影響を與へたのであつた。
 是より先、征長の部署既に定まり、諸藩の進軍も介せられ、十一月十八日を以て總攻擊の期と決せられたので、薩藩に於ては島津又六郞(久明)を總督に、島津主殿を副總督に任じ、家老喜入攝津を差添へとし、鹿兒島城下士隊五組、外城士隊十三組、此の總員約二千人(一に三千人ともいふ)を筑前に派遣することゝなり、十一月朔日、副總督島津主殿を先鋒とし、海陸兩路より鹿兒島を進發し、五日先鋒は海路より蘆屋に到著して、此の地に本陣を置き、分營を小倉に設けた。
 此時に當り長藩に於ては、結局西鄕の提案通りなる吉川監物の意見に從ひ、十一月十二日、益田右衞門介、福原越後、
 
國司信濃の三國老に自刄を命じ、宍戸左馬介、中村九郞、佐久間佐兵衞、竹内正兵衞の四參謀を斬に處し、十一月十四日使を廣島に遣し、追討期限猶豫の歎願と共に三國老の首級を國泰寺に齎らし、征長總督の實檢に供することゝした。之れと相前後して副總督松平茂韶は、十一月十一日大阪より小倉に到著して、九州諸藩兵の指揮の任に當り、總督尾張慶勝は同月十六日廣島に到著して、總督府を國泰寺に置いた。是に於て西鄕は直に總督に謁して、吉川監物説得の始末、長藩主父子の菩提寺への退居謹愼、三國老四參謀の自刄及ぴ斬罪等、長藩が恭順の誠意を示したる事情を復命したるが、總督は其の勞を犒ひ、それより三國老の首級の實檢を行ひ、同日更に吉川監物を國泰寺に招致し、大監察成瀨隼人正、大目付永井主水正等をして、黑印の軍令状竝に其の他に就きて訊問を行はしめた。監物は西鄕の入智慧に依つて、巧みに申開きを爲し、恭順謝罪の條理も立つたので、即日總督は明後十八日の總攻擊を延期する旨を諸軍に令達した。
 斯くて總督は、速に長州の處分を決せんとし、西鄕の意見に聽きて、毛利慶親父子に落飾隱居を命じ下之關邊に於て領地十萬石を削り、山口新城を破壞せしめ、三條等の五卿を筑前に移し、薩摩、筑前、肥前、肥後、久留米の五藩をして、各其の一卿を護衞せしむることゝしたるが、長州の竒兵隊及び過激の諸隊は、五卿の移轉に反抗して、暴擧に出づるの形勢があるので、西鄕は總督に建議するに、自ら敵地に赴き、諸隊及び五卿を説得せんことを以てし、總督は其の意を了して之を許したので、十一月二十一日西鄕は、其の出發に臨み、長州諸隊暴發の場合を慮つて、廣島滯在の薩藩救應隊を筑前
元帥等蘆屋への轉陣 蘆屋の本陣に合すべく命じて廣島を出で、二十三日小倉に到著して、副總督松平茂韶に謁し、具さに長藩處分に關する意見を陳べ、二十四日蘆屋に赴き、又長藩處分の事を薩兵總督島津又六郞に告げて即日小倉に還つた。大山元帥等の救應隊が、廣島より蘆屋に到著したのは、其の後間もなき事であつた。爾來西鄕は、筑前藩士喜多岡勇平、月形洗藏、早川養敬、林泰等と屢々會見して五卿移居の事を議し、更に馬關に渡つて長藩士高杉晋作等の諸隊長及び、五卿の附士等と會見して、遂に五卿移居の事に決し、十二月二十日岩國に著して、尚ほ今後の長州諸隊鎭靜のことに就きて吉川監物に説得し、二十二日廣島に到り、二十七日總督府會議に臨み、衆議を排して即時解兵の事を力説した。即ち西鄕の言ふ所に據れば、毛利慶親父子は恭順謝罪し、五卿移居の事も決したる以上、徒らに大兵を駐むるの必要はない。若し夫れ削封其の他の處分は、解兵の後に於て然るべく、竒兵隊の行動の如きは、長州藩内限りの事である、今に至つて解兵を躊躇するは王者の師とは言へない」。如何にも事理明白な説であるので、尾張總督も之を然りとし、是日大勇斷を以て解兵を布告した。是に於て西鄕は翌二十八日廣島を出發し、慶應元年正月元日小倉に著して、解兵令を副總督松平茂韶竝に同地滯在の薩藩士に傅へ、更に蘆屋の薩軍本營に赴き、同じく解兵令を總督島津又六郞に傳へ、二日小倉に引返へし、三日副總督府に越前藩士酒井十之亟を訪ひて、五卿移居に就いての打合せを濟ませた。是日蘆屋本陣竝に小倉分營の薩軍は、相共に海路より歸藩の途に就き、西鄕は四日小倉より陸路を取り、十五日鹿兒島に著し、久光、茂久二公に謁して、長州處分の經過を報告したる
 
元帥の江戸出府

五卿の太宰府移居

長州再征と薩藩の態度
が、二公は一兵に衂らずして能く大事を處理したるの功を賞し、茂久公手づから刀一腰を賜はつた。時に大山元帥は、蘆屋の本陣を引揚ぐるに際し、尚ほ砲術研究の目的を以て江戸出府を許され、筑前より諸隊と別れて京都に赴き、幾もなく又京都を發して江戸に向ひ、正月二十四日再び江川塾に歸著したのは既に述べた通りである。

   二 西鄕隆盛と京洛の生活及ぴ國事の奔走

 第一次征長軍解兵の直後、慶應元年正月十四日、三條等五卿は筑前に移居すべく長府功山寺を出發し、海路彦島を經て、十五日黑崎に上陸、十八日赤間驛に到著したるが、其の待遇に關する紛議などあつて時日を遷延し、二月十三日漸く太宰府延壽王院に落付くと共に、三條實美を筑前に、三條西季知を肥後に、東久世通禧を久留米に、壬生基修を薩摩に、四條隆謌を肥前に、別々に五藩へ、お預りの前議を變更し、太宰府に於て五藩各自に一卿宛を守護することゝなつた。是に於て五藩會議の結果、各藩より代表者を上京させ、征長總督尾張慶勝の指揮を受くるに決し、西鄕隆盛鹿兒島を出でて、三月十一日著京して見れば、何ぞ圖らん幕府は、征長處分を輕きに失すと爲し、尾張總督の態度を非難すると共に、此の際毛利父子に出府を命じ、五卿を江戸に護送せしむべしといふ議があり、既に尾張總督に其の命を傳へたと聞いて驚かざるを得なかつた。
 西鄕は長州再征を無名の師と爲し、藩論一定の必要があるので、四月二十二日京都を出發し、五月朔日鹿兒島に歸著し
薩藩大砲隊談合役と軍賦役見習 て、直に出兵拒絶の藩論を決したる後、閏五月又上京し、十月更に鹿兒島に下り、一面には薩長同盟を謀り、一面には討幕の擧に出でんとし、十二月西鄕一己の英斷を以て、江戸藩邸の引拂ひを行つた。これは表面上經費節約を名としたるも、實は幕府を威嚇して、幕府の態度を見んが爲であるが、大山元帥が再び江戸より京都に召還されたのは、即ち此時であつたやうである。
 京都著後の元帥は、二本松藩邸駐屯の大砲隊談合役に任ぜられ、洋式砲隊運動を敎授したるが、後には軍賦役見習となつた。
談合役は、今日の言葉で云へぱ作戰指導の參謀で、隊長を以て之を兼ねる場合もある。又場合に依つては、自己の一隊のみでなく、軍隊區分に依つて成立せる其の方面の編合部隊をも指揮し、或は命に依つて出征部隊の編成替をも行ふ。
軍賦役は、平時は編成裝備動員等の如き軍政を處理し、有事の日には、作戰(後方勤務を含む)に參畫し、又軍令を傳達執行せしむる役である。
 當時上京中の西鄕は相國寺に隣せる塔之段といへる處に二階建の寓居を構へ、慶應二年正月二十日夜の二本松邸に於ける薩長同盟契約の會合にも、此の寓居より臨席したやうであるが、其の頃元帥は既に塔之段の西鄕寓居に起臥して、薩邸に出勤してゐたものと見える。三月西鄕は歸藩し、六月英國公使「パークス」の鹿兒島訪問の際には、西鄕は直接「パークス」と外交上の談判を遂げ、十月又出京したるが、是より先、長州の再征は幕府の敗軍と爲り、七月二十日將軍家茂大阪城に薨じ、一橋慶喜は德川家を相續すると共に將軍職を繼
 
長州及び太宰府への使者 承する順序なりしも、大命は未だ下されす、征長終局の目的も未だ達せざるが爲、八月四日慶喜參朝して國事を議し、勅を請ひて十二日自ら征長出軍の途に上らんとしたる折しも、長兵小倉城を奪取したりとの報に接して、俄に西下を中止し、勝海舟の意見に從つて休戰に決したのである。當時歸藩中の西鄕は此の形勢を觀て、長州との聯絡を一層親密ならしめ、一面には慶喜の將軍就職に對する牽制運動を行はんが爲に出京したのが即ち前記の如く十月であつた。
 この時軍賦役見習として京都滯在中の元帥は、西鄕の出京に先立ち、藩命を以て長州及び太宰府へ使することゝなり、九月二十三日、左の京師事情公文を携へて出發した。
方今不容易世態に付不顧恐言上仕候關白にも辭職出仕も無之且諸藩にも被召寄候御沙汰も有之旁關白出仕且諸藩上京之上厚被盡衆議天下之公論を被聞食度奉願候事
  九月十六日          道孝(九條大納言)
                 實良(一條大納言)
                 忠房(近衞内大臣)
                 晃 (山階宮)
                 公純(德大寺右大臣)
  議奏中
右九月十六日御連署にて被差出尚陽明(近衞殿)山階宮一條九條議傳御參にて御直奏にも被及候所御都合宜敷言上之通被聞召候由伹中納言(慶喜)除服出仕之事も不被免筋に御治定之事(將軍家茂喪)右府(德大寺公純)以下言上之趣一昨日被聞召候其後被爲在御熟考候所雖關白不參於里亭内覽執政
先蹤候旁於國事被差置候得者國政被廢候樣相聞拘朝憲之間矢
長藩世子に謁見

三條卿以下に謁す
張小事者依緩急可所置尚重事者諸藩上京之上衆議被聞召度更に御沙汰候事
 別紙
一昨日御連名にて御建白之末常陸宮(山階)以下被及言上被聞食候所尚又御熟考別紙之通被仰出候と申譯には無之候得共爲不間違御趣意柄御廻達可被成下候此段宜無洩達者也
 九月十八日             兩役(傳奏)
                        雜掌
   右大臣殿(德大寺公純)
     諸大夫中
 右十八日兩役より廻達相成候事
 元帥既に防州に入り、再征後の藩情を探索しつゝ山口に到著したるは十月朔日であつたが、長藩世子元德公は、木戸準一郞(孝允)等近習三人を隨へ、戰死者を弔ふと共に、戰士慰勞の爲に各所を巡囘し、恰も是日馬關に到著、五日間同地に滯在の豫定なるを聞き、元帥乃ち馬關に馳せて世子に謁し、具さに京攝の事情を報じ、携ふる所の公文を示し、且つ宰府に赴くを告げ、木戸及び廣澤兵助、高杉晋作等とも會見したるが、世子は三條實美卿に與ふる書翰を元帥に託した。書中の要旨は、當地には何等の別條はないが、幸便を以て五卿一同の安否をお尋ねするといふにあつた。
 元帥が馬關を發して太宰府に到著したるは十月八日であるが、三條卿の從士土方楠左衞門(久元)に面會して謁見を請ひ、其の許を受けて、翌九日午後三條卿に謁し、長藩世子の書を呈すると共に、京節事情公文を示したるに、三條卿は又世子への返翰を託した。尚且つ元帥は、三條西、四條、壬生
 
歸京後忙中の閑日月 の三卿に謁したるが、三卿も亦世子への傳言を託した。時に元帥は諸卿に向つて京師の事情を陳べ、朝廷に於ては諸大名の上京迄は、國家の大事は議せられず、五卿の御處置も、幽閉公卿方の解愼も、其の儘にて勅免にも相成らず、尹宮殿下、二條關白も、辭表を呈して參内之れなく、幕府よりは慶喜の將軍宜下を内願し、慶喜も亦た除服を願ひ出でたるも、山階宮殿下、近衞、一條、九條、德大寺の諸卿が或は直奏せられ、或は建白書差出に依り、今尚ほ大命を得るに至らず、面白き形勢の中にも、亦た恐るべき機を含み、肥後世子長岡良之助歸國の途次四國に渡り、土藩及び宇和島藩に説き、更に薩藩に赴きて周旋する所あらんと欲し、慶喜に面して意見を糺したるに、忽ち其の不可なるを説伏せられて、熊本に直行歸藩し、細川越中守に之を告げて共に安心したりと聞くなど、時事に直面しての談話に一座耳を傾け、畢つて酒を賜ひ、土方と水野溪雲齋とは其の宴に與り、初更に及びて退出したるが、翌十日早朝元帥太宰府を發して再び長州に入り、世子への三條卿の返翰を傳達し、然る後京帥に歸著したのであつた。
 元帥京師に歸著し、塔之段の西鄕寓居に入つた時は、西鄕も亦た既に鹿兒島より歸り京攝の間に往來して、兵庫開港問題の論議に携はつてゐたのであるが、當時西鄕の寓居に起臥する者は、元帥の外に西鄕信吾、黑田了介、村田新八、伊集院兼寬、伊牟田尚平、寺田弘(望南)の諸士があり、天下の風雲急にして、此等諸士の盡力容易ならざるの間に、主人公たる隆盛を始めとし、一同は屢々鬪詩を試みて優劣を定め、劣等のものは鷄肉汁を馳走するを例としたるが、元帥は度々馳走する組であつたとは、後日の懷舊談に係る所で、京洛生
洋式銃器の購入 に於ける一話柄となつてゐる。蓋し英雄偉人の胸裡には、忙中閑日月あつて、泰然自若、大事を一呼吸の間に決する所、到底凡人の端倪すべからざるものがあつた。

   三 洋式銃器の購入

 既にして薩長の協力を以て、王政復古倒幕囘天の大擧に出でんとし、薩藩に於ても軍艦銃器の需用益々多きを加ふるに至つたので、藩廳は元帥を選拔して、洋式銃器購入の任に當らしめた。これは元帥が曩に江川塾に在つて、銃器の事に精通してゐるからであるが、元帥自筆の履歴書に據れば、當時京都より江戸に往復すること維新前に至る迄二十餘度とあつて、江戸橫濱に出でて、大砲や小銃を盛に買入れた事が知られる。其の頃汽船の往來は尚ほ甚だ不便で、兵庫、大阪も未だ開港せられなかつたから、橫濱で買入れたる大砲や小銃は、外國船を以て一旦之を長崎へ送り、長崎から更に他船に積替へて大阪へ廻送し、然る後京都の薩邸へ搬入するのであつた。それで元帥自ら外國汽船に便乘して橫濱を解纜し、阿波の鳴戸を通過した事もあつた。薩藩が戊辰役に使用した銃器の初期は、口裝施條銃たる「ミニヘル」で、末期には當時優秀であつた後裝銑なる「スナイドル」であるが、是等は重に元帥が橫濱で買入れたもので、當時一挺の代金十七八兩を要したるにも拘はらず、元帥は直接外國商館と取引したので、凡そ八九兩から十兩位で手に入れることが出來た。時に元帥は二十三四歳の靑年であつたが、或る場合の如きは藩廳は二萬兩を託して東下せしめたこともあつた。元帥は其の都度銃器買
 
西鄕隆盛の決算整理

元帥と「ファーブルブランド」
入れ高を鉛筆にて手帳に認め、京都に歸著すると、西鄕は算盤を取り、其の決算を整理して、之を藩廳へ提出するを常とした。西鄕の如き大英雄が、珠算にも巧みで、斯かる細事にも用意周到であつた事は、世人の豫想外であらうが、實は西鄕は十八歳から二十八歳迄、藩廳郡奉行の書役として、能吏を以て有名であり、民治上は勿論、租税の計算に至るまで、練達してゐたのであつた。
 元帥が橫濱に於ての銃器購入は、重に「フアーブル、ブランド商會であつたが後年「ファーブル」が人に語つて、外國人にして當時の丁髷姿の元帥を知つてゐる者は、私位の者でありませうと言つてゐる。その「ファーブル」が慶應三年三月に、左の新聞廣告をしてゐるのも、亦た當時の思ひ出話の一つである。
(幕末明治新聞全集2、三〇八頁)
私儀此度太田町八丁目百七十五番に轉宅仕候私店にて金銀時計螺旋銃短銃并に火藥玉電氣箱度量器械樂器商賣仕候間御買求の程奉希上候其外種々の武器御注文に候へば本國より取寄差申上可候且亦時計飾玉の直し仕候間御來駕奉願上候
            橫濱時計師フアーヴルブランド
 慶薩三年七月十三日、元帥が京都より江戸に使するに就いて、又左の記事がある。
(慶應三年久光公上洛日記)
 七月十三日
大山彌介江戸江被差越候付胴らん「ハトロン」皮袋雷帽子御注文申出る。
 雷帽子は雷管のことであつて、此等の物品も皆橫濱で買入
薩兵の大擧入京 れたのである。右に就いて七月十九日、在京都の小松帶刀より在藩の桂久武への書翰の一節に、元帥の銃器購入に關する次の記事がある。
(前略)先便申上候江戸江鐵砲取入に差遣置候處先日罷歸申候間本込段々參り申候乍併申請被仰付皆々隊より申請に相成亦々右之金を以取入方に大山彌助差遣置申候先便より者御人數被差出候節大阪江三百挺御手當可相成段申上置候得共長崎より御國元之樣柴山良介等差廻候由御座候間別段大阪に者御手當無御座候間其御心得にて鐵砲爲御持御差出可被下候
 斯くて元帥が銃器購入の爲に奔走しつゝある間に、天下の風雲急を告げ來り、遂に此等洋式銃器の威力を發揮したのであつた。

   四 王政復古大號令渙發當時の活躍

 既にして王政復古の計畫は益々進捗し來り、慶應三年十月十四日討幕の密勅を薩長二藩に下し賜ひ、(薩藩へは十三日附、長藩へは十四日附)西鄕は小松帶刀、大久保一藏と共に、十月十七日京師を發して大阪より海路歸藩の途に就き、山口に立寄つて毛利公父子に謁し、討幕の爲に兵を出すの同意を得て、十月二十六日鹿兒島に歸著し、直に久光、茂久二公に謁して、討幕の密勅を呈し、茂久公の上京と出兵を促した。
但し密勅降下の當日、德川慶喜上表して大政を奉還したので朝廷は薩長二藩の京都留守居に對して、密勅のお取り消しを令達せられたのであるが、留守居は藩地に於ける士氣の沮喪を慮つて之を通告せず、又之を通告するも、大勢の既に動か
 
西之宮の長兵入京と元帥 すべからざるものがあるから、留守居限りに於て之を保留したのであつた。
 斯くて十一月十三日、西鄕は藩主茂久公を奉じ、大兵を率ゐて海路東上し、十七日三田尻に著し、十八日長藩の毛利内匠、揖取素彦、山田市之丞、藝藩の片野十郞等と會して薩・長・藝三藩の出兵に關する部署を協定したるが、茂久公も是日上陸して、長藩世子元德公と會見し、薩長の協力大擧を約し、十九日三田尻出帆、二十一日大阪に上陸、二十三日京都に著し、長藩の先鋒は豫定の如く二十八日西之宮に著したので、二十九日西鄕は大久保一藏、伊地知正治と共に、王政復古大號令の渙發に就きて協議し、十二月朔日、更に大久保、吉井幸輔、岩下左次右衞門、長藩の、品川彌二郞、山田市之允と共に大號令渙發の期日を八日と協定し、二日土藩の後藤象二郞をして、其の期日を贊成せしめたるが、五日後藤は藩主山内容堂公の著京が期日に遲れんことを慮つて、渙發の延期を請へるに依り、六日遂に其の期日を九日と決定するに至つた。
 是より先、元帥は江戸に出でゝ、芝の藩邸に祈役したるが、討幕の密勅降下あらんとするに臨みて、京都に召還せられ、既に塔之段の寓居に在つて、西鄕の入京を迎へたのであるが、大號令渙發期日の確定するや、其の翌七日の夕刻、西鄕、大久保は元帥と西鄕信吾とに託するに、西之宮駐屯の長藩毛利内匠、山田市之丞等に面し、九日朝其の兵を京師に入らしむべく談ずべきを以てし、元帥等は八日朝西之宮に著し、山田等に面會して其の意を通じたるに、山田等は之を諒し、同日午後より京師に向つて發足することを約したので、元帥等は
王政復古大號令渙發當日の元帥

西鄕等の參内
直に京師に還り、由を西鄕、大久保に報告したのであつた。(十日長兵入京し西鄕は之を相國寺内の薩藩陣營に駐屯せしめた。)
 明くれば九日、大號令渙發の當日である。即ち神武天皇の御創業に復し、一千年來の攝政關白も、七百年來の武門政治も斷然之を廢して、萬機御親裁に出でさせられんとするのであるから、三百諸大名の中には、德川家の恩顧を思ふの餘り、幕府と德川家とを混同して、幕府の廢絶に對し反抗する者あらんことを慮り、若し其の場合には兵力を以て毆き伏すべしとは西鄕の意見であつて、朝廷は其の意見に從ひ、當日、薩摩、土佐、尾張、越前安藝の五藩兵(長兵未だ入京せず)をして、禁門及び御所の護衞に充てしめ、小御所に於て會議を開かるゝことゝなり、熾仁親王、晃親王、彰仁親王を始め、廷臣に於ては岩倉具視、中山忠能、正親町三條實愛、中御門經之、長谷信篤、大原重德、萬里小路博房等、及び五藩主島津茂久、山内容堂、德川慶勝、松平慶永、淺野長勳、竝に五藩の重臣等參内することゝなつた。是に於て此日朝、西鄕は岩下佐次右衞門、大久保一藏と三人相共に小御所會議に列すべく參朝したるが、元帥は佐慕黨の會藩士等が、途に三人を要擊せんことを虞れ、六連發の拳銃を携へてこれを護衞し、公卿門まで送つた。(元帥自筆の履歴書には、小銃を携ふとあり。蓋し小銃は即ち短銃で佛國製六連發の拳銃である。)三人既に門内に入るや、暫くして大久保再び出て來つて元帥に向ひ、足下速に命を伊地知正治に傳へ、豫定の如く兵を禁中に入れしめよと告げた。時に元帥は美々しき戎裝で、會藩士等の目を惹いたものと見え「七年史」には、「此日辰の刻、
 
 
大號令の渙發 薩州藩大久保一藏、西鄕吉之助等、唐御門前に來りて、公卿の諸大夫らしき者と密語して門内に入り、少時にして出で來りしを、薩州藩二名美麗の戎裝したる者來りて、一藏と密語しけり」とある。ここに薩州藩二名とあるは、一名は勿論元帥であるが、他の一名は恐らく同功一體の西鄕信吾であらうと思はれるが、元帥の履歴書には二名とは見えてゐない。)是に於て元帥は直に二本松邸に馳せ歸り、旨を伊地如に傳へたるに、腕を鳴らして待ち構へたる伊地知は、時機到れりとて勇躍し、兩手を擧げてチエースト(薩摩の方言感嘆詞)と
掛聲を發して起ち、即時に兵を繰出して禁中に入り、豫定の配備に就いた、其の間一時間を要しなかつたといふことである。伊地知は跛者であつたから、此の時兩手を擧げて立ち躍つた有樣は實に可笑しかつたとは、元帥の一つ話である。
 此夜の小御所會議に於て、土州藩が異議を唱へ、形勢頗る不穩であつたが、休憩後の再會には鎭靜に歸し、いよいよ左の王政復古大號令が渙發せられた。
德川内府、從前御委任大政返上、將軍職辭退之兩條、今般斷然被 聞食候、抑癸丑以來未曾有之國難、 先帝頻年被惱 宸襟候御次第、衆庶之所知候、依之、被決 叡慮、 王政復古、國威挽囘之御基被爲立度候間、自今攝關、幕府等廢絶、即今先假ニ總裁、議定、參與之三職ヲ被置、萬機可被爲行、諸事神武創業ノ始ニ原ツキ、縉紳、武辨、堂上、地下之無別、至當之公議ヲ竭シ、天下ト休戚ヲ同ク可被遊 叡念ニ付、各勉勵、舊來驕惰ノ汙習ヲ洗ヒ、盡忠報國之誠ヲ以、可致奉 公事
 右大號令の渙發と同時に、内覽、勅問人數、國事御用掛、
議奏、傳奏、守護職、所司代等、總て廢せられ、新に總裁、議定、參與の任命があり、又毛利父子の朝譴を解きて入京を許すと共に、三條等五卿の一族義絶をも解き、其の官位復舊入洛の旨を仰せ出された。
 斯くて西鄕が兵力を以て毆き伏せんとしたる佐幕黨諸藩の反抗もなく、平穩無事の間に、王政復古の御大業が成立せられたのであつた。

   五 五卿を筑前に迎ふ

 初め慶應元年、五卿の筑前に移居するに當つて、之れが斡旋に力めたる第一人者は、實に西鄕であつた。而して同年二月、五卿が太宰府延壽王院に館せしより、今其の官位復舊入洛を命ぜらるゝ迄の三年間、絡始一貫して之れが護衞を全うしたのも亦た專ら薩藩であるが、それも實は西鄕の指揮する所であつた。此の間幕吏小林甚六郞が太宰府に乘込んで、五卿を上國に拉致せんとしたる時、黑田嘉右衞門(淸綱)大山格之助(綱良)等が、甚六郞を驅逐して、五卿の危きを救つたのも亦た西鄕の方寸に出でたのであつた。既にして薩長の同盟成り、倒幕の擧其の歩を進め、いよいよ囘天の偉業を奏せんとするに當り、西鄕と大久保とは之が準備として、五卿の朝譴を解き、其の復職入洛を計り、三條卿を廟堂に立たしめんとし、大山格之助、吉井幸輔等は、之れが爲に奔走太だ力めたのであるが、今や朝廷は西鄕等の議を容れ、五卿の復職入洛を許されたので、大號令渙發の翌十日、西鄕は大久保と謀つて更に朝命を請ひ、五卿を太宰府に迎ふべく、元帥と
 
京都出發西下

太宰府到著と使命の傳達
弟の信吾との二人を使者とし、勅書を齎らして西下せしむるに至つたのである。
 是に於て元帥と信吾の二人は、即日(慶應三年十二月十日)使命を帶びて京師を出發し、兵庫より薩藩の軍艦春日丸に搭じて西航し、十四日博多に到著上陸し、中島町の一旅館に休憩して館主城水甚六に太宰府への早打駕籠と人足の雇入れ方を命じ、且つ告ぐるに、今囘太宰府御滯在の五卿の方々は、官位復舊歸洛の途に就かるゝことゝなつたが、福岡藩廳の當路者が尚ほ悟る所なくして、從來同樣の態度を執るに於ては、此の博多市街は一面の焦土と化すべきを以てした。甚六は商人に似合はす義氣に富める男で、之を聞きて大に驚き、更に其の仔細を問へども、元帥等は多くを語らず、自分等は五卿お迎への爲に太宰府へ急行するのだとのみ答ふる中、二挺の駕籠と人足が來つたので、直に之れに乘つて同日太宰府に到著したるが、恰も大山格之助の同地に在るを見て、使命を告ぐると共に、朝政大變革の事を報じ、格之助は東久世通禧を經て之を諸卿に傳へたるに、三條卿以下列座の上、元帥等二人を引見し、二人は齎らす所の左の勅書を呈した。
                     三條西季知
                     三條實美
                     東久世通禧
                     壬生基修
                     四條隆謌
右先年以一族可義絶被仰出候處今般被止義絶之儀入洛復官被仰出候事
 於官者可稱前官尤入洛之上闕官之節追々可被復候事
 
五卿の感激

太宰府出發東歸

歸京復命
 五卿は天恩の優渥なるに感激したるが、中にも三條實美は左の二首を詠じて、恩遇を謝し奉つた。
  太宰府にてかしこくも復位の
   勅命をかふふりて
  身にあまるめくみにあひておもひ河
     うれしき瀨にもたちかへるかな
  かへらしとをもひ定めし家路にも
     かへるは君のめくみなりけり
 斯くて五卿は匇々歸裝を理め、(是より先、十月五日守衞の五藩は遠からず五卿歸洛の事を慮り、五卿一人毎に金五百兩を獻じた)其の從士及び元帥等の使者二人、竝に他の薩士にも酒を賜ひ、十七日を以て東歸の途に上らんとしたるが、迎船春日丸の石炭缺乏を告げたるを以て、之れが積込み中其の期を延ばし、十九日午時に至つて太宰府を發し、此夜箱崎に宿し、二十日博多滯在中、筑前侯の來訪饗應あり二十一日博多より春日丸に乘船し、使者元帥等及び薩士は、護衞として同船に乘込み、土方楠左衞門等の從士は筑前藩船大鵬丸で先發した。二十二日五卿馬關に著するや、長府の世子毛利宗五郞、木戸準一郞、伊藤俊介等來り謁し、同夜二更馬關を發し、二十三日午前三田尻に到著上陸、貞永右衞門の宅に休息したるが、午後毛利敬親(慶親の改名)の父子往きて五卿と會見し、將來の國事を協議したる後、物を贈り宴を張つて別れを告げ、廣澤兵助と井上聞多の二人に命じて京都に隨行せしめ、同夜二更春日丸は三田尻を發した。
 二十四日五卿の從士を載せたる先發の大鵬丸は、大阪安治川口に著し、土方楠左衞門は上陸して土佐堀の薩邸に赴き、
 
五卿の歸洛 留守居木場傳内に面して、五卿迎接の準備を議し、再び船に歸へつて之を衆に傳へ、衆悉く上陸したるが、時恰も三條實美の家臣丹羽正傭、富田基建、渡邊民部等、京師より來り迎へた。此の夜春日丸安治川口に著し、二十五日五卿上陸して土佐堀の薩邸に入つたが、薩士の一隊は五卿を護衞して入京の任に當るべく、既に藩邸に在つて待ち受けて居たので、元帥と西鄕信吾は、廣澤兵助、井上聞多と同行して直に京帥に向ひ、著京と同時に西鄕、大久保に復命したのである。
 五卿の護衞入京の任に當れる薩士の一隊は、第二遊擊隊であるが、此隊は慶應二年春、隊長大迫喜右衞門(後の子爵貞淸)之を率ゐて鹿兒島より上京し、禁闕の警衞に任じて、二本松邸に在つたのであるが、後ち北野の淨福寺に移轉したので、之を淨福寺隊とも稱した。(樺山資紀、川村景明、山澤靜吾、堀十郞左衞門、佐藤賢助、税所藤之進、仁禮藤次郞、廻新次郞、川俣喜兵衞、山野田一甫、河野主一郞等の諸傑が、此の隊中に在つた。)二十六日五卿大阪を發し、淀川を遡つて入京の途に上つたのであるが、當時德川慶喜大阪城に在り、會桑諸藩兵大阪に充滿して各所に徘徊し、殺氣既に滿ちて淀川筋の警戒を嚴にしてゐるので、淨福寺隊士は死を決して五卿を護衞し、不慮の變に備へて出發した。薩藩に於ては、五卿の爲に特に淀川航行の藩船蘭桂丸を其の乘船に充て、從士の爲には別に多數の三十石船を雇入れたるが、蘭桂丸は餘りの美裝で、衆目を惹くものがあるから、(立派なる屋形船で、島津家十文字の紋を染め拔きたる紫の幔幕を張り繞らし白鳥毛の槍を立て威容堂々たるものである。)五卿は之に乘るを危險とし、出迎への家臣等をして代つて之れに乘らしめ、
薩長土藝四藩の調練 (一説には蘭桂丸は空船であつたとも云ふ)五卿は別船に乘つて川を遡り、初夜の頃(午後八時頃)無事に伏見に到著したるが、元帥の實兄にして伏見薩邸の留守居たる大山彦八、竝に長藩士寺内暢三、林半七等多數の出迎を受け、此夜薩邸に一泊し、翌二十七日辰上刻(午前七時)伏見を出發し、薩長兩藩士は申す迄もなく、土佐、彦根も扈從を願ひ出で、十津川鄕士も之に加はつて護衞し、途に稻荷山の祠官の家に立寄り、五卿は旅裝を朝服に改めて入京參内したるが、直に三條卿は議定に、東久世卿は參與に任ぜられ、岩倉卿は三條卿の歸洛に力を得て朝廷は九鼎大呂の重きを致したと喜んだ。斯くて元帥と西鄕信吾の二士は、其の使命を全うしたのであつた。

   六 日之御門前天覽調練と第二番砲隊長

 五卿の歸洛したる二十七日には、日之御門(建春門)前に於て、薩長土藝四藩兵の調練天覽があつた。一番隊は土佐藩凡そ四十人許、二番隊は安藝藩凡そ六十人許、三番隊は長門藩凡そ四百人許、掉尾の四番隊は薩摩藩凡そ一千人許、順次操練を行つたのであるが、當時都下の人心戰々洶々たるものがあつて、之を驚かすことは、時節柄宜しくないといふので銃砲の發射は見合はせたのであつた。(岩倉公實記)
 此の四藩の兵數に就いては、土州二小隊、藝州五小隊位、長州一大隊、薩州三大隊と中原猶介の率ゆる一番大砲隊一隊とであつたとも見えてゐる(十二月二十八日附中原猶介より岩城喜左衞門への書翰。尤も伊東次右衞門の率ゆる二番砲隊
もあつて、薩は大砲隊二隊となつてゐるが、二番砲隊が天覽調練に加はらなかつた譯は後段に述べる。)又藝州は貳百八九十人、長州は六百人位、薩州は千四五百人位、(十二月二十七日夜日高鄕左衞門より鹿兒島への書翰)或は長州は五百人位、薩州は千六百人(十二月二十八日島津伊勢の報告書)とも言はれてゐる。初め調練の順序は、薩藩を一番としたのであつたが、兵士多數の爲め最後に廻はし、少數なる土州を一番とし、次に藝州、次に長州といふことになり、四ツ時(午前十時)より土州の調練が始まり、長州の運動が終つたのは八ツ時(午後二時)であつて、それより薩州の調練となり、城下七番隊より十二番隊迄の大隊運動、次に諸鄕番兵の小隊運動、次に城下一番、二番、五番、六番隊、及び一番、三番遊擊隊の大隊散兵と攻擊運動を行ひ、暮六ツ時に至つて終了したるが、畏くも主上には新に日之御門脇外に設けられたる御棧敷に出御あり、御簾の中より天覽あらせられ、叡感斜ならず四藩の重臣を召して、伊丹製造の酒二十樽、松魚節代白銀二百枚を賜はり、諸兵士の勞を犒ひ給ひたれば、一同は感涙に咽びて、天恩の優渥なるを拜謝したのであるが、これぞ大號令渙發後に於ける陸軍操練天覽の始めであつて、一面には復古反對黨に對する示威運動だとも言はれてゐる。此の調練に就いて「谷干城遺稿」の左の一節は、當日の状況を明かならしむるものがある。
二十七日に至り、日御門前に於て薩長土藝四藩の觀兵式の天覽あり、流石に薩は服裝帽も皆一樣にて英式に依り大太鼓小太鼓笛等の樂隊を先頭に立て、正々堂々御前を運動せる樣、實に勇壯活潑佐幕者をして膽を寒からしむ。薩に次ぐ者長、
二番砲隊長の交迭 長に次ぐは藝、而して我は唯二小隊のみ、服裝亦一定せず、兵式は舊來の蘭式なり、我輩軍事に關する者遺憾に不堪也。當時在京の我兵は凡八小隊あり、僅々二小隊も亦漸くにして運ぴたり。各藩歩兵のみなりしが、薩は一隊の砲兵最後を行軍せり、如此盛大の觀兵式は、餘未だ曾て見ざる處也。
 然るに此日の調練に於て、薩藩二番砲隊も參加することゝなり、隊長伊東次右衞門は、砲八門を指揮し、威武堂々として今出川御門より入つたのであるが、其の隊兵は、豫ねて命ぜられたる筒袖の服裝を守る者殆んどなく、隊長と監軍以外は、種々異樣の扮裝にて、或は立烏帽子素袍に大小刀を佩び、螺の貝を頸より右腋に釣り下ぐる者全隊の二割、或は甲冑を著用する者一割、打つ裂き羽織に義經袴の者四割、洋服二割、雜種一割といふ有樣であるから、參謀伊地知正治は之を見咎め、伊東隊長に向つて其の異容を難じたるが、傍に在りたる家老島津伊勢等は、伊地知を宥めたるも聞き入れず、天覽に供し奉るに不敬なりとて、斷然門外に逐はれ、一隊悉く寺町の淨華院に抑留せられたる後、伊東隊長は其の職を免ぜられ、左遷の意味に於て軍艦春日丸の副長に轉じた。(後の海軍中將子爵伊東祐麿氏は其の人である。)大砲隊談合役たりし元帥は之に代つて二番砲隊長を命ぜられ、三十日伊東が兵庫碇泊の春日丸に赴任するを、元帥は形勢切迫の折柄であつたが、別離の情に堪へず四五の士官を伴つて伏見まで見送つたのであつた。この時、思慮周密、機を見るに敏なる元帥は、尾越兩藩主の諭示に應じて大阪に退きたる幕兵が、尚ほ伏見に出沒するを認めたるを以て、馳せて紫野大德寺に歸營し、直ちに出動の命を傳へた。斯くて元帥が二番砲隊長として活躍せ
 
らるべき戊辰戰役の舞臺が、近く眼前に展開せらるゝに至つたのである。
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