日本史探偵団文庫
八月十八日政変関係史料
入力者 大山格

 
 文久三年八月十八日の政変について、薩摩藩の視点から『西郷隆盛伝』、会津藩の視点から『京都守護職始末』および『壬生浪士始末記』、長州藩の視点から『防長回天史』、攘夷派公卿の視点から『維新前後』の各史料から関連部分を抜粋している。
 底本の詳細は、それぞれの末尾に示した。
西郷隆盛伝 謫居中天下の事情 西郷隆盛伝

文久三年將軍家茂勅命を奉じて上洛するに及び春嶽、慶喜、容堂、慶恕等も京師に上り久光も亦大久保等を從へ再び上京せり然るに急激黨は益興起し薩(脱藩士多し)長、土、肥後其他各藩の有志も悉く京師に集り久坂通武、平野次郞、轟武兵衞、眞木和泉、美玉三平等其首領となり長藩は實に其盟主となれり即ち此機會に乘して攘夷の擧を斷行し全國の人心を一新せんと欲し先づ將軍の着京に當り豫め攘夷の期限を決定せんことを迫れり
三月五日將軍家茂京師に着せり朝廷勅して政治を委任し天下の諸侯を指揮せしめ給へり然れども急激黨の氣煙は既に其極度に達し等持院に於ける足利將軍三代の木像を梟首するに至り京都市中殆んど政綱なきが如し公武合体黨の公卿朝彦親王(中川宮)近衞、中山等は内より力を盡し慶喜、春嶽、容保、久光、容堂等は外より計畫せりと雖も既に着手すべき途もなかりき加ふるに薩藩に於ては英艦襲來の風評あるより久光は鹿兒島に歸り次で容堂、宗城等も亦悉く歸國せしを以て京師には春嶽、慶喜、容保等の人々のみとなり從つて急激黨の勢力は一層其氣焰を增加せり遂に幕府は五月十日を以て攘夷の期限となし以て勅命に答ふるに至りぬ抑も攘夷の成し得べからざる事ハ幕閣、春嶽の夙に覺知する所なるに尚ほ其勅命を奉じ特に其期限を決定したるが如きは實に當時急激黨の勢力の強大なりしを見るべく亦幕府の大に狼狽せしを推知すべきなり然るに此時に當り別に幕府に一大困難を加ふるの事件到來せり
是より先き久光の江戸より歸るや生麥驛に於ひて英人、久光の行列を橫切りて通行す隨從の士大に怒り其一人を斬り二人を傷けたり英人大に憤激し幕府に迫りて償金を要求せしが三年五月に及び更に日限を期して堅く談判するに至れり幕吏は大に其所置に困しみ躊躇する所ありしが小笠原長行(圖書頭、肥前唐津の世子後に老中)斷然意を決して償金を與へ漸く其局を結べり然るに京師に於ては幕府既に攘夷の勅命を請け其期日をも決定せる時なりしより朝廷は勿論特に急激黨は幕吏の處置を憤り大に激昂したるを以て幕府は益進退困扼に陷り春嶽の如きも斷然職を辭して歸國し將軍は攝海の防禦を監視すと稱し大坂より海路江戸に歸へるに至れり是より公武合体黨の勢力は全く消失し京師は愈急激黨の手裡に歸せり
此の如く急激黨は京師の實權を握り政務は國事掛參政を以て裁決し亦諸有志を學習院に招きて機務に參與せしめしが遂に八月十三日に至り愈其目的を達せんと欲し二十三日を以て大和に行幸し鳳輦を春日社に駐めて親征の議を評定するに決せり然るに十八日に至り一大事變を顯出し京師の形勢再び一變するに至れり
抑も孝明帝の聰明叡智にして近代の明君にてあらせられしは世人の夙に知る所なり當時朝彦親王(時に中川宮と稱す)に給ひし宸翰を見るに宸衷を伺ひ奉るに足るものあり
(前略)今日老中參内にて一橋水戸の處何となく辭職大樹補翼の樣段々申聞候次第大樹には彌東下の事今日内意にて凡そ來月二日暇參内と粗ぼ治定の事迚も〳〵此上は予か無らん〳〵と申す外致方なく悲嘆これに過ず候此上は三郞にても一奮發期俟より外他なく候尾前大にも盡力賴むの外これなく何
 
分にも大樹今少し留置き一和にて攘夷祈る所なり(維新史料、戊辰始末)
亦會津容保に賜へる宸翰に曰く
(前略)何卒其公中川等同志之輩を取拵にて申立は成間敷哉何分初發よりの予の存意此所にて歸府實以不好候へ共無致方候何卒尾州いつく迄も申張候樣内々御申遣し予極意は公武眞實一和此所にては滯在又は浪華成共何分歸府は不好候何分當時權威は下にあり予申出候儀不立候間苦心不斜候(維新史料、戊辰始末)
此の如く孝明天皇には天皇の御世に及んで外國の輕悔を受け皇威を辱しむるは御祖先に對せられ其責逃る可からずとの大御心ありしより攘夷は實に帝の宸慮なりしと雖も亦深く事態を觀察し利害得失を憂慮あらせられ無謀の攘夷は尤も排斥し給ふ所にして第一公武合体、全國一致結合して以て帝國を維持するこそ急務なれとの叡慮なりしは當時の事情に徴するも亦宸翰に依るも明知するを得べきなり故に親征の如きは實際叡慮にあらせられざりしを以て深く此形勢を憂慮し給ひ密に朝彦親王に謀り給ひ容保久光等に依賴し給ふに至れり此時に當り會津ハ流石に武勇の藩なり此の如き紛々擾々の中に毅然として立ち京師に重を爲したり薩藩に於ては遇英艦と戰鬪を開き久光以下京師に至る能はざりしを以て京師の藩邸には公武合体黨の奈良原繁、高崎正風等を留めたり朝彦親王は宸翰を會薩の有志に示し其興起を促せられしを以て奈良原、高崎等は會津の廣澤安任、秋月胤永、野村某と密に相規畫し親王及ぴ近衞等の諸公卿に謀り斷然一大改革を擧行するに決定せり親王即ち十七日に參内して奏上する所あり遂に十八日を以
て特に會藩以下數藩に九門の警衞を命じ親征を猶豫して三條以下諸卿の參内を停止し長藩の堺町御門の讐衞を免して歸國を命じ變革は忽然として顯出せり(久光公記、戊辰始末、三條實美公記、維新史料等參照)
急激黨の諸有志及長州は此變革を觀て大に慷慨憤懣したりと雖も既に挽回すべきの方法なく其總勢七百餘人三條實美以下七卿を奉じて東山大佛に退き十九日に至り回天の事業亦期すべからざるを鵠嘆し悉く京師を發して長州に歸れり諸藩の有志は四方に散亂するもの多かりしが遂に發して五條の亂となり生野の一擧となり又長州の京師爭亂を顯出するに至れり
初め急激黨が京師に勢力を有するや久坂、眞木、平野等の俊傑之れが牛耳を採り長州の雄藩を以て其後援となしたりしを以て勢焰甚だ強大なりしと雖も深謀遠慮海内の形勢を達觀し合同の勢を堅固にし以て天下の大勢を制し諸藩の向背を決するの一大俊傑を缺きたりしを以て有爲の諸侯は概ね退きて傍觀し實際の力は其勢焰の如くにあらざりき是れ事變一度び至りて忽ち逆境に陷り五條の亂生野の擧悉く一時の暴擧たるに終りし所以なり
此の如く八月十八日の事變は天下の形勢を一變し京師は再び公武合体黨の世となりたるを以て朝彦親王、近衞等の諸卿、慶喜、容保等を初め薩會等の有志は更に將軍の上洛を計り越、尾、薩、土、肥等の上京を促し國是を議定するに一決せり是より先き七月鹿兒島に於てハ英人生麥事件に關して撫恤金三萬兩を要求するに際し軍艦七隻を送り彼が東洋諸國に慣用する威嚇手段を用ひ薩艦を質に要して其請求を遂げんとせり然るに薩藩にありては生麥の一擧は其曲彼にありとなし人心激
 
昂すること益甚しく斷然拒絶するに決定せしを以て偶英人が薩藩の軍艦を押ゆるを見て愈憤懣し四面の砲臺より之を砲擊したりしが英艦も直に艦を整へて應砲し遂に一大戰爭となれり然るに英軍の旗艦大に砲擊せられ破損する所ありて悉く歸帆するに至れり蓋し生麥事件は其曲全く彼にありと論定する能はずと雖ども既に日本政府たる幕府に於て償金(五十萬兩)を出したる以上は事既に終結せるものと云ふべし然るに更に薩藩に請求するに至りては寧ろ不當の要求と云はざるべからざるなり(久光公記、戊辰始末、文久記事、伸儀革正録等參照)
英艦歸帆の後再び襲來せんとするの風評あり薩藩に於ては屢戰を交るの得策にあらざるを悟り之れに加ふるに砲臺銃器大に破損したるを以て遂に十月に至り人を橫濱に派遣して英人と談判し金三萬兩を與へしめしかば生麥の事件は全く局を告ぐるに至れり
此の戰鬪に薩軍の能く英艦を退去せしめたりしは實に齊彬が拮据鋭意砲臺を建築し兵器を製造し軍制を改革したりしの結果なり齊彬在世の當時は其規摸を覺知するもの少なく死後に至りてハ之を荒蕪に付して敢て顧みざるの形勢なりしが此に至り初て迷夢を覺醒して齊彬の卓識炯眼を驚嘆し大に兵制軍備に改良を加ふるに至れり(諸氏直話)
十月久光京師に出づるや諸藩の上京を計り將軍の入朝を促して以て公武合躰、國家一致を計畫せんと欲し家老島津主殿及吉井友實を江戸に遣し將軍の入朝と幕吏の上京とを斡旋せしめたり十二月に至り幕府政事總裁松平直克(大和守、武州川越の城主)以下閣老等京師に趣き尾、越、肥、土等の諸侯亦
上京せしが元治元年一月に及び愈將軍家茂再び京師に上れり(久光公記、甲東草紙、戊辰始末など參照)
此の如く將軍入朝し諸侯上京して公武合体、各藩協同の形勢となりたるも外交の處置及び幕政の方針に關して稍其意見を異にするに至れり蓋し當時朝廷に於ては海外の形勢を覺らず萬國交通の事情に暗きを以て攘夷の精神は猶依然として變せず故に外交の處置は下田條約に復舊し其他の諸港は一所に閉鎖する能はずば先づ第一着に橫濱を鎖し漸次に他の諸港に及ほすべきの勅命を發せり幕府にありては既に海外諸國と條約を結び外國の交際を始てより以來殆んど十餘年に及び外國の形勢各國交通の事情に通じ開港の止むべからざるを覺知せること亦嘉永、安政年間の比にあらざりき然るに尊攘黨の激昂を恐るゝ爲めに果斷を以て朝廷に奏請するの擧に出でず再び攘夷の勅命を請け橫濱鎖港の命を奉じて因循姑息の手段を採るに至れり久光は幕府が到底成し得べからざるを明知しながら猶橫濱鎖港の命を奉受し曖昧糢糊の擧あるを見て大に之を攻擊したりと雖も慶喜及ぴ幕閣の輩は更に之を變更せざりき之に加ふるに幕府は文久二年以來尊攘黨の勢威に懲り公武合体と稱するも其實は幕府の勢威を維持するの政策に變して勤王黨を制し幕府の舊規に復するの方針を採りたるを以て各藩に於ても大に佐幕黨の氣焰を增加し水戸にありては勤王黨の首領武田耕雲齋を退けて佐幕黨の市川三左衞門等政務を掌握し土藩の如きも勤王黨の巨臂武市半平太等捕縛せられ佐幕黨進んで藩政を採るに至りしが其他各藩に於ても概ね其事情を同じくして天下の形勢を一變せり而して二個の政府は成立すべからざるの理に依り幕府の勢威強大なるに隨ひ朝廷は再び
 
垂拱して成を仰ぐの形勢となり四月に及び更に政治を幕府に委任するの勅命を發せらるゝに至れり(戊辰始末、幕府衰亡論、久光公記、甲東草紙等諸書參照)久光等は外交の問題に於て既に幕府の處置に服せざりしが又其政略の方針此の如くなるを觀て愈喜ばざる所あり即ち二月湊川に神社を建築し護良親王、北畠親房、楠正成、新田義貞、其他元弘延元の忠臣を奉祀せんことを奏請して勤王の精神を鼓舞せしが朝廷大に之を嘉賞し直に其請願を許客ありき此一擧亦以て久光の眞意を想知すべし特に薩藩の勤王黨にして公武合体の擧を喜ばざる輩ハ幕府の威權益強大となり朝威再び衰微するの形勢に陷るを觀て大に慷慨激昂し此上は勤王黨の泰斗たる隆盛を召喚して此大局に膺らしめ以て頽勢を挽回するの外なしとなし將に久光に迫りて強訴せんとするの形状となり遂に隆盛を召喚せざるべからざるに至らしめたり(諸氏直話)


勝田孫彌著『西鄕隆盛傳』明治二七年 西鄕隆盛傳發行所刊
            第四篇 第二章 七五頁~八五頁
京都守護職始末 薩會の提携 京都守護職始末

是月(八月十三日)薩摩藩士高崎佐太郞(今の正風)我藩秋月胤永等の寓居を訪ひ、謂て云く、近來叡旨として發表せられたるもの多くは僞勅にして、奸臣等が所爲により出でたるは兄等が知る所の如し、聖上之を知り賜ひ、屢々中川宮に謀り賜へ共、兵力を有する武臣の淸側の任に當るものなきを嘆き賜ふと聞く、我輩之を聞いて袖手傍觀する能はず、思ふに此任に當る會津と薩摩と二藩あるのみ、希くは共に當路の奸臣を除き、叡慮を安ぜんと、意氣昂然たり、胤永等素より其意ありと雖も、私に協力を諾すべくもあらず、因りて直ちに馳せて黑谷に走り、是を我公に啓す、公素より其意あるを以て之を許容し、先づ胤永をして佐太郞と共に中川宮に候して、事の由を白す、宮大に悅び、身を抛ちて宸襟を安んじ奉らんと誓ひ賜ふ、會ま聖上神事を親らしたまふより、宮未だ法體なるを以て宸儀に咫尺し給ふ事能はず、十六日神事終るを待ち、直ちに參内事の由を奏し、勅を得て事に從ふの結構なり、然れ共此大事を決行せんには主上の御親任ある所の近衞前殿下御父子並に二條右府の贊助を得ざる可からず、薩藩士は近衞御父子に説くの負擔を約し、我藩士は二條公を説くことを約せり、我公即ち大野重英を二條邸に遣す、重英公に謁見して具に事情を陳述し、非常手段によりて革新を計るにあらざれば、國事遂に爲す可からざるに至るべしと、至情面に顯れて縷々數千言を陳ぶ、公稍々覺るの色あれども、會薩の兵力長州並に過激の浪士等を壓伏し得べきやを疑ひ、輙く贊同せられず、蓋し
なる事をし出して、不測の禍亂を釀さん事を
 
恐れられしものゝ如し、重英又往古皇極帝の御世に、御先祖鎌足公が中大兄皇子を助け參らせて、賊臣蘇我入鹿を誅し賜ひし事を思召さば、今日の場合躊躇し賜ふべきにあらずと、色を正して申ければ、齊敬公膝をはたと拍き、汝が云ふ所如何にも最もなり、共に力を盡すべしと云はれけり又前殿下御父子には薩藩士等の説を入れられ、是れ又贊同せられけり、
初め我公上京以來、其旗下守衞兵(藩之を本隊と云ふ)半數の外、藩制一陣を以て在府常備の兵員とす、一陣の將は家老を以て之に充て、之を陣將と稱し、其部下に四隊あり、隊長は番頭とす、而して毎歳八月を以て交番の期とす、是月交番の兵會津より來るもの八日を以て着し、京師を去るもの十一日よりす、親征の勅下るや、使を馳せて其歸る者を呼ぶ、兵員歸京するの日我兵は二陣即ち八隊の多きに至る、是より先浮浪の徒數十人市民を煽動して堀川通糸問屋某の家に放火し、狼籍至らざるものなし、町奉行の同心等見て制止する能はず、蓋し糸問屋某は平生貪慾を以て人の惡む所ごなり、又生糸を外國人と貿易せるを以て、浮浪の徒此擧に及びしなり、町奉行人を馳せて、我兵を出だして鎭撫せん事を乞ふ、我兵至れば事既に鎭靜に歸せり、此他京帥に於ける浮浪の徒の狼藉日として之なきはなし、我藩歸途の兵を召還し、二陣の兵を屯在せしむるも人皆單に浪士鎭壓の爲となし、我に深謀あるを知るものなし、
十六日寅刻中川宮九州鎭撫使辭任の爲め、上奏するに裝ひ參内ありしかど、一人の之を疑ふ者なし、依りて宮密に奸臣を除くの議を奏上す、主上素より其叡念あらせ給ふと雖も、時機に於て未だ危疑し玉ふ所あるを以て、輙く許したまはず、
辰刻に及びて宮遂に退出し給ふ、始め安任胤永等左太郞と中川宮に伺候せしに、宮未明に參朝し、早天勅許を得諸堂上の參朝せざるに先んじ、會薩の兵を以て禁門を堅め、勅許を得たる堂上にあらざれば、一人も入朝を許さずして事を謀らんとせり、然るに宮の未だ退朝なきに、堂上の人々中にも過激派の國事掛既に續々參内し、今は當初の策を施す能はざるに至れり、安任左太邸等事既に敗れたりとなし、一方には賀陽殿に候し、一方には急を黑谷に報じたり、既にして宮に謁し事の由を候するに、末だ以て事の敗れたるにあらず、されど此密議にして萬一洩泄しなば、宮の御身に取り由々敷大事となる事必せるを以て、宮も大に苦慮せられ、若し事の泄るに於ては、速に東行して名護屋に至るの外なしと、大息せられしとなり、
是夕(十六日)主上宸翰を中川宮に賜ひ、因州會津の兵に令し、兵力を以て國家の害を除くべしと勅したまふ、主上殊に因州を指定し給へるは抑も故あり、先に池田慶德朝臣叡慮のある所を知り、親征を諫め奉らんと、是を二條齊敬公に謀る、公も亦之を然りとし中川宮と謀る、宮又内奏せられしに、朝廷に於て論議せしめ、依りて以て嘉納せられんとす、慶德朝臣因りて池田茂政朝臣、蜂須賀茂昭朝臣上杉齊憲朝臣と議し、共に參内して親征の不可を論議す、殿下及び過激の堂上等、朝臣の議を聞くに及び一坐悅ぱず、殿下怒りて退かしめ、暫くありて勅を四侯に傳へて、幕府苟且既に久し、故に朕が意決せり、汝等爲す所あらば之を爲せ、朕豈に此行を止む可けんやと、四侯恐懼して退く、叡慮は嘉納せられんとせしも、遂に叡意の如くなし賜ふ事能はざりし事こそ畏けれ、慶德朝
 
臣叡意の有る所に惑ひ、眞の逆鱗に觸れしと思ひ、待罪書を出だされたる事ありし、主上の特に因州の兵と詔り賜ひしは、上の事ありしに依ると云ふ、翌十七日夜中川宮、近衞前殿下、同左大將、二條右府、德大寺内府等同志の人々、急に令旨を下して非常の大議あるを以て、守護職所司代各人數を率ゐ、翌十八日子の半刻を以て參内すべし、且薩摩藩にも此旨通達すべしと、これに依りて我公兵を率ゐて急ぎ參内す、中川宮、近衞前殿下、二條齊敬公、德大寺公純公、近衞忠房卿等も亦相前後して參内せらる、議奏加勢葉室長順卿を以て禁門を悉く鎖し、我藩兵及ぴ薩摩藩所司代の兵をしてこれを守らしめ、非番堂上の參内を停め、守護職所司代及び薩摩因幡備前越前米澤の外、諸藩士の九門内に入るを禁ずるの命を傳へらる、天明くるに及びて、因幡備前米澤の三侯並に阿波の世子茂昭朝臣、山内豐積(豐信朝臣の弟兵之助と稱す)等の人々追々參内す、のち勅して中山忠能、正親町三條實愛、河野公誠の三卿を議奏に復職せしむ、然るに三卿之を辭す、依りて柳原光愛、庭田重胤の二卿を議奏加勢となす、中川宮勅を宣す、
此頃議奏並に國事掛の輩長州主張の暴論に從ひ叡慮にあらせられざる事を御沙汰の由に申候事不少就中御親征行幸等の事に至りては即今末だ機會來らずと思召され候を矯めて叡慮の趣に施行候段逆鱗不少攘夷の叡慮は動き給はざるも行幸は暫く御延引被遊候一體右樣過激疎暴の所業あるは金く議奏並に國事掛の輩長州の容易ならざる企に同意し聖上へ迫り奉り候は不忠の至りに付三條中納言始め追て取調相成るべく先禁足他人面會被止候事
依りて、實美卿始め議奏國事掛の人々二十餘人に禁足、他人
面會を止め、左の如く達せらる、
以思召參内並に他行他人面會無用之旨被仰出候仍而申入候也
やがて鷹司殿下召に依りて參内あり、三條實美卿の爲に救解する所ありしに、近衞忠房卿これを駁し、急ぎ彼れを召して、前日來の事々證左を擧げて詰問すべしとあり、廷上漸く動く、我公進みて今實美を召して詰問せん事、理當に然るぺしと雖も、是れ徒らに紛議を招くに過ぎざるべしと、之を止む、衆議これに同じて其事寢む、此等の議に漸く刻を移し、午後に至り執次鳥山三河介を使として、長門藩境町門の守衞を罷め、代るに所司代の兵を以てす、是より先、毛利讃岐守元純(長州淸末藩主)吉川監物經幹(周防岩國の主毛利の附傭)益田右衞門介等變を聞いて、藩邸より兵を率ゐて來り助く、勅下るも敢て命を奉ぜず、甲冑して長槍を携ふる者あり、且銃隊を門の左右に列し、大砲を備へて放射の位置を試むる等殆ど將さに戰はんとするものゝ如し、薩藩兵これを見て勅下りて奉ぜず、是れ違勅なり、速に掃蕩せんと請ふ、我公大にこれを不可とし、切に諭して輕擧を止む、是時實美卿も亦三條西季知、東久世通禧、豐岡隨資、日野資宗、萬里小路博房、滋野井實在、川鰭公述、橋本實梁、東園基敬、壬生基修、四條隆謌、錦小路賴德、烏丸光德、澤宣嘉等の人々、曾て朝廷徴する所の守衞兵並に諸浮浪合せて二千計を率ゐて鷹司邸に行き、長州人と共に勅命を拒まんとするものゝ如し、既にして殿下云ふ、長兵凡そ三萬ありて其勇勢當るべからずと、蓋し威嚇して以て朝議を傾けんとせられしなり、諸公卿果して愕怖色を失ひて、私かに我公に向つて貴藩兵幾許ありやと問ふ事頻りなり、公素より長州の兵並に浮浪の徒が我に敵すべく
 
もあらざるを知る、即ち對て云く、弊藩小なりと雖も在京の精兵二千あり以て堅きを破るに足る、幸に貴意を勞する勿れと、されど堂上の人々猶安んぜず、會津強悍と雖も、二千を以て焉んぞ三萬に敵せんと、私語相繼ぎ色漸く動く、我藩士勇を鼓し勢を張りて、一擧に彼を壓せんと薩摩藩兵と共に後命を待つ、時に朝廷柳原中納言光愛卿を長藩の營に遣し、諭す所ありしも彼れ猶命を奉ぜず、朝議更に上杉齊憲朝臣に往いて之を諭さしむ、齊憲朝臣出でゝ將さに門に及ばんとするに彼隊將益田右衞門介一書を止め兵を率ゐて退き去る、其書の大意は、歸國して攘夷の先鋒をなさんといふのみ、是より先、實美卿等が勅命に背き鷹司邸に參會せらるゝ由朝廷に聞えければ、宰相中將公正卿(淸水谷)を勅使として、左の朝命を傳へらる、
以思召參内並に他行他人面會無用之旨今朝被仰出候處鷹司家に集會の由不容易儀違勅不輕候參政國事寄人被止候早々可退散候事
此御沙汰にて、退散せし國事掛の人々もありしが、實美季知隨資實在基敬通禧基修隆謌賴德光德宣嘉等の人々は、長州兵並に守衞兵の一部、並に浮浪の徒を率ゐて妙法院(大佛)に退き、毛利元純、吉川經幹、益田右衞門介、久坂義助、佐々木男也(以上長州藩人)眞木和泉、水野丹後(後溪雲齊)淵上郁太郞(以上久留米藩人)土方楠左衞門、淸岡半四郞(今の公張以上土佐藩人)宮部鼎藏(肥後藩人)美玉三平(薩摩藩人)南部甕夫等を會して議を凝らし、遂に西奔に決し再度の勅命を顧みず、未明に大佛を發して長州に向ふ、只隨資實在光德等の人々は議異なるを以て西奔せず、家に歸りて罪を
待ちしと云ふ、是に於て中川宮先に鷹司殿下實美卿を冤として庇護せるを以て、其意を詰る、殿下答ふるに辭なく、咎を引いて職を辭せんと奏請す、宮亦殿下を救護し、職に在りて事局を結ばしめんと奏請す、聖斷これを允す、因りて七堂上の非義を罪して其官位を褫ふ、蓋し七人の京師を奔る、其名攘夷の先鋒にありと雖も、實は謹愼蟄居命ぜられしにも係らず、守衞兵を恣に指揮して鷹司邸に集合せしが如き、其罪輕からざれば罰せられん事を恐れてこゝに出でしなり、後ち眞木和泉が建言祕録と題せる書を獲しに、其中に親征を部署し堂上諸侯を配合し、鳳輦の左右前後の備より其大略を記し、又土地人民を收むる條に、行幸の途より俄に公卿二人侯伯一人に詔を齎らして東下せしむべし、奉承するとせざるとは論ずる所に非ず、彼が手に落ちさへすれば事了ると書し、末に詔の草案を漢文にて記し、其文中に尾張以西朕躬守之參河以東則委之汝とあり、即ち親征の議其出所知るべし、


 山川浩『京都守護職始末』非売品 明治四十四年
                  一六七~一七六頁
 
壬生浪士始末記 壬生浪士始末記(抄)

   ○壬生浪士亂觴
文久二壬戌年五月大原左衞門督重德卿 勅使ノ命ヲ蒙ムリ關東下向ノ節豐臣氏政體ノ例ニ傚ヒ五大老ヲ置キ一橋刑部卿ヲ後見トシ越前春嶽ヲ大老職トナシ 天幕君臣ノ名義ヲ明カニシ寬永度以來絶ヘテ久シキ將軍家ノ上洛ヲ催シ二十萬石以上武勇ノ聞ヘアル大藩ヲシテ京都守護職トナス旨命ヲ下ス將軍家茂公之ヲ奉シテ明年春上洛ノ議ヲ決シ松平肥後守容保(奧州會津二十八万石)ヲシテ京都守護職ト定メ是ガ先登トシテ籏下ノ士同年冬ヨリ漸々上京セシメ又此時江戸表二於テモ有名ナル浪士ヲ勝グリ一隊ノ組ヲ設ケ之ヲ新徴組ト稱ナヘ盡忠報國ヲ以テ口實トスル暴客ノ集合ナリ幕府是レニ取締リノ命ヲ下シ總督ヲ松平上總介忠敏トシ取締頭取ヲ鵜殿鳩翁(初民部少輔)山岡鐵太郞松岡盤吉トシ浪士頭取トシテ清川八郞正明(羽州庄内)村上俊五郞石坂周藏ヲ以テ之レニ充ツ以下三百餘人上京シテ洛西壬生村地藏寺ヲ以テ本陣トシテ屯在ス是ヲ新撰組ト稱ス。(世俗壬生浪士ト稱ス) 翌三癸亥年三月四日將軍家茂公上洛二條城ニ滯在ナリ滯京中種々故障生シ稍五月十日ヲ以テ攘夷ノ期限奏セラルト雖モ遂ヒニ功ヲ奏スル事能ハズ 天譴ノ嚴ナルヲ恐レ六月九日攝播海岸巡視ニ托シ下坂ノ儘歸京セズ海路蒸氣船ニテ歸セラル玆ニ於テ幕威大ニ損ズ尋テ新徴組モ亦陸路歸東ス此時浪士中ニ勤王攘夷徒佐幕攘夷徒ノ二派ニ分列シテ議論沸騰シ先ツ手初メニ横濱ノ外國館ヲ燒屠セントノ説立熾ンニシテ清川八郞ノ黨ハ歸東シ(是ヨリ先キ四月十三日清川八郞ハ江戸麻布ニ於テ闇殺セラル)又
一派ハ輦下ニ奉仕シテ勤王ノ素志貫徹セシメントノ説ヲ立、派シタル新撰組ノ黨ハ京師ニ留マル其首領ヲ芹澤鴨(水戸人)トシテ平山五郞(加州人)田中伊織野田健司近藤勇三南敬助(仙臺人後稱三郞)新田革左衞門土方歳三葛山武八郞松原忠治沖田總司藤堂平助安藤早太原田左之助長倉新八井上源三郞河合義三郞(播州高砂)酒井兵庫(攝州住吉)奧澤榮助佐伯又三郞(長州)川島勝次(西洛)等漸ク二十五人京師ニ居殘リ憂國赤心ヲ以テ口實トシ幕威ヲ負擔シ過激疎暴ノ舉動ナスト雖モ少人數ト云ヒ元來烏合ノ浪士ナレバ誰カ齒牙ニモ掛ケザリシガ去年十二月廿三日松平肥後守守護職ノ命ヲ帶ビ滯京ス素ヨリ東奧避遇ノ藩士ナレハ都下ノ情況ニ熟セズ人機如何ヲ知ラズ此際ニ臨ミ中國九州ノ有志ト稱スル徒多ク京師ニ入込諸縉紳家ニ舘入倒幕説ヲ唱フルアリ或ハ天誅卜稱シ闇殺等熾ンニシテ都ノ人心戰々慄々困却極リナシ仍之新撰組黨ヲ以テ過激徒ノ舉動ヲ探ラシメ且ハ市中取締補助トセバ大ニ行政ノ利益ヲ得ベシト更ラニ新撰組ノ名ヲ設ケ將軍家上洛前ニ會藩ノ附屬トス首領芹澤鴨ハ舊水戸藩士ニシテ烈公ノ遺志ヲ繼續スルヲ以テ唱へ專ハラ攘夷説ヲ主張スルト雖モ亦西國方ノ有志徒ハ彼等德川家隨從ノ者ナレハ其輕憎敵視シテ交際ヲ斷ツ依テ天誅組新撰組ノ二派隱ニ不平ヲ懐ク新撰組ノ隊中ニ佐伯又三郞ハ元長州脱藩ナリ本藩ノ進退ヲ探ラシメン爲メ之ヲ間諜トス長州人其灰遷ヲ察シ或日同藩士久坂玄瑞島原ノ遊廓角屋德右衞門ノ樓ニ登リ佐伯ヲ招キ酒席ニ於テ謀テ捕縛シ千本朱雀村ノ北野原ニ引出シ詰問ノ上帶刀ヲ褫ヒ裸躰ニナシ路傍ニ斬首ス又横田長兵衞ト云ヘル者アリ隊名ヲ僞リ市中ニテ金策ニ強談シタル事露顯シ之ヲ捕縛シテ壬生ノ南田圃ニ
 
於テ梟首ス
   ○新撰組市中跋扈惱市民事
同年六月ノ頃ヨリ備中ノ人藤本鐵石三州刈屋人松本圭堂土州人吉村虎太郞等中山侍從忠光朝臣ヲ擁シ和州ニ於テ義籏ヲ舉ルノ謀議ヲ企テ其軍資ヲ得ン爲其頃外國ニ交易ヲ專擔シ諸民ノ困難ヲ意トセズ過分ノ金銀ヲ設植シタル商人ヲ搜索シテ七月廿四日夜佛光寺高倉住油商八幡右兵衞ヲ千本西野ニ引出シ殺害シテ其首ヲ三條橋詰ノ掲示場ニ梟シ傍ノ罪牌ニ此餘大和屋庄兵衞及ビ外兩三名ノ巨商モ同罪タレバ梟スベク旨記セリ依之彼者共大ニ驚愕戰慄シ醍醐家ノ臣板倉筑前介(五條橋東小兒藥王おけや藥)ハ有名ナル勤王家ニシテ又有志ニ交際廣シ仍テ是ニ依賴シテ種々手ヲ盡シ謝罪ノ爲メ朝廷ニ一萬金ヲ獻シ天誅組へ軍資ヲ出シタル聞ヘアルヲ以テ芹澤鴨之ヲヨキ倖トシテ五六ノ部下ヲ卒シ八月十三日葭屋町一條在大和屋庄兵衞家ニ抵リ金談スルニ頃日主人庄兵衞他國シテ不在ノ趣キヲ以テ応ゼザレバ之ヲ激怒シテ其夜數名ノ部下暴士ヲ卒シ大庄ノ土藏ニ發砲シテ燒立ルト雖モ固ヨリ岩疊ナル建築ナレバ鷄鳴ニ至レドモ燒盡スル事能ハズ火勢熾ンナレバ早鐘ヲ打チ所司代ノ火消役人及ビ月番大名ノ消防方等騎シテ追々ニ馳セ進ム是ニ驚ロキ市民四方八方ヨリ走集リ大ニ騒動シ各火ノ手ニ寄テ打消サントスルニ新撰組ノ浪士共騒動ニ乘シ建札シテ曰ク當家ノ主人大奸物也諸民ノ困難ヲ厭ハズ利慾ニ耽リ外國ト交易ナス大罪人ノ所有物燒拂フベシ是天命ナリト掲グ是ヲ視ル西陣織物ノ職工共近年外國ノ交易開ケテヨリ生糸ノ價非常ニ騰貴シテ職工乏減シタルハ完ク彼等ノ業ナリト兼テ惡ミ居タル際ナレバ是ヲヨキ事トシテ貯蓄シタル生糸類ヲ大道へ
引出シ放火スル者アレバ又衣類諸道具ノ類ヒニ至ル迄引出シ擲キ毀ツアリサシモ甍ヲ並べ建連ネタル數個所ノ土藏ヲモ引崩シ戸障子箪子珍器ニ至ル迄悉ク打碎ク其亂妨狼籍慘状目モ當ラレヌ形勢ナリ芹澤ハ土藏ノ屋根ニ攀リ此体ヲ見下シ愉快セリ消防夫ノ馳來レ共七八ノ壯士銃ヲ構へ防拒スル者アレバ放發ニモ及ブ可キ勢ヲ示シタレバ手ヲ下ス者一人モナク未刻頃ニ至レバ又貼紙シテ曰ク亂暴七ツ時限リトアルヲ以テ其刻限ニ至リ群徒ノ蚩民咄ト笑ヒ手ヲ拍テ皆四方ニ散脱ス芹澤之ヲ快ヨシトシテ悉ク壬生村ニ引揚タリ夫京師ニハ所司代アリ、兩町奉行アリ當時守護職及ビ諸侯ノ守衞アリ 玉坐近クニ浪士輩ガ係ル亂行ナスモ制スル者ナキハ何ゾヤ笑フニ堪ヘタリ幕威ノ衰獘哀レムベシ會津侯斯ル亂暴ヲ憤リ近藤勇三南敬助土方歳三沖田總司原田左之助ノ五人ヲ呼出シ其所置ヲ命ズ同十八日大内大變動長藩禁門ノ守衞ヲ免セラレ三條中納言以下七卿脱走此時未明ヨリ諸藩軍裝ニテ參朝ノ命アリ新撰組ハ午刻頃蛤門ヨリ禁内ニ入リ會津勢ニ加ハル總勢四十餘人ナリ此時松原忠次ハ坊主頭ナリシガ銕入ノ白鉢卷ヲ締テ大薙刀ヲ横タヘタル形勢ハ古往ノ武藏坊辨慶モサモアランカ市民今曉ヨリノ騒動其起原ヲ知ル者ナシ松原ハ道路ヲ高聲ニ方今ノ形勢累卵ノ如シ天下ノ有志之ヲ知ルヤ否ヤト喚ハッタリ


 西村兼文 著『新撰組始末記』(一名壬生浪士始末記)
 日本史籍協會 編「野史臺維新史料叢書」三十所収
                     七二~七八頁
 
堺町門の變 防長回天史

大和行幸の發令○反對派の密議○十八日の變○關白邸内の紛擾○勅使臨邸○大佛引退○七卿長藩士等の退去○廟義一變
文久三年八月十三日朝廷毛利氏の建議を採用して大和行幸外夷親征の鳳勅を發せられ十四日諸藩の志士を撰み之れに出仕を命ず大和行幸は先づ神武陵と春日社とに奉幣し攘夷の軍議を開くが爲なり
公用雜記に據るに出仕人名は筑前平野二郞久留米水野丹後木村三郞池尻茂右衞門肥後宮部鼎藏山田十郞加屋榮太長州益田右衞門介桂小五郞久坂義助中村九郞津和野福羽文三郞土州土方楠左衞門とす
毛利氏の藩記に依るに朝廷眞木和泉に命じ肥後土州久留米長州の四藩より各數人を擇で親征の準備調査を命ず是に於て肥後より宮部鼎藏久留米より眞木和泉長藩より山田亦介久坂義助を出す三條東久世萬里小路烏丸の四卿學習院に出でゝ是等藩士と議し左の諸項を調査すと云ふ
一御守衞之事
一御休泊之事
一御納戸方之事
一人夫掛之事
一御用途之事
一在京兵數取調之事
一監國之事
藩士の數と其姓名と公用雜記と藩記と符合せず姑く記して後證を待つ
防長回天史 同日より翌十五日に渉り因州備前阿波米澤久留米加州肥後土佐津和野等十餘諸侯及び我世子淸末侯吉川監物水戸餘四麿等に行幸供奉を命し我世子加州侯肥後侯土佐侯津和野侯の如き現に都下に在らざる者には非常の宸斷を以て行幸親征軍議の事ある爲め急に上京すべき旨を命じ薩州侯にも前日不審の調は之れを停止するを以て攘夷忠戰の家臣を率ゐ急に上京すべき旨を命ず公卿の行列次第を定め其他諸般の準備を整ふ十五日武家傳奏より左の朝命を毛利氏に下す(召により村田次郞三郞赴く)曰く(加州肥後薩州にも下りしならん)
 行幸御親征軍議御用途十萬金加州肥後薩州久留米土州等申談調達か有之候事將に八月二十七日を以て鑾輿を發せんとす公卿諸侯の中親征を否とする者あり中川宮は先きに鎭西大使を辭して敢て往かず因州備前阿波米澤四侯等亦親征の議に反す以爲らく未だ藩屏の任を盡さずして俄に玉體を煩すは臣子の道にあらず列藩協同力を掃攘に盡し尚ほ功を奏する能はざるに至りて親征を請ふ未だ晩しとせずと故に親征の勅將に下らんとするに方り四侯は臣等將に關東に下り橫濱を襲擊せんとす若し戰利あらずして臣等戰死すと聞かば陛下宜く車駕を進むべしと奏聞したりと云ふ因州藩の如きは十七日の夜終に其京都の駐館(松原通本國寺)に於て藩士の爭鬪を起し吉田直人河田左久馬等二十二人要路の建部權之助早川卓之丞高澤省吾加藤市左衞門等を襲ひ之れを掩殺するに至れり蓋し建部等進取の藩議を覆したる首謀者なりしが爲めなりと云ふ守護職松平容保最も親征を否とし竊に中川宮等に説く所あり薩藩亦其意見を同くす是に於て薩藩と商議して終に親征の議を打破せんと欲し中川宮近衞關白父子二條右大臣德大寺内大臣等
 
と詰託し機に先だちて之れを制せんとし中川宮は十六日拂曉參内し陛下尚内寢に在るも強て天顏を拜せんと請ふ偶〃陛下疾の爲めに出御すること遲く國事掛參政等既に參内せしを以て宮復祕策を施すに由なくして退朝し二條右大臣近衞左大將德大寺内大臣に謀り十七日夜を徹して大事を決行するを約し其旨を會津藩に報ず
堺町門變の事情に就ては世に傳ふる所多少の差あり會津史の如きは十四日の夜中川宮參内し親征の事を諫む帝大に驚て曰く是れ朕の更に知らざる所なりと終に十六日の夜宮女を以て密旨を中川宮に傳へられ會藩の武力を以て之を制せしむと記せり然れども事固より確證なし唯僅に小河一敏の記事中畏れ多くも宸翰を中川宮へ遣され中川宮より其旨會津肥後守へ傳へられたるに始まりたるは相違なき事の由とあるも天子親征を知ろし召さゞりしとの一事は傳ふるものなし吉川東上記に一説として存するものあり曰く大和行幸之事表は攘夷御祈願と被仰出候得共内實は幕府因循違勅の罪を鳴らし大に討幕之師を揚げ御親征可被爲在との御密謀之由勿論主上へは一向不遂奏問唯三條公初司機密御公卿之密謀と相聞候處官女之内某局竊に此議を窺知密に及言上形勢事情巨細演述仕此事天下之御一大事に候得ば乍恐二年三年之内還御之程は無覺束奉考候得ば速に皇太子を御立被遊三種之神器は皇太子へ御托置之上行幸被爲在候樣條理を盡し言上仕候必主上には初より攘夷御祈願之御爲とのみ被思召候處局之言上に因て始て此密議を被知召以之外に愕かせられ守護職會津侯へ密命を被下遂に此擧に至りしなど風説も致候由に候事
十七日夜中川宮急に參内す是れより先き會津藩及び所司代に
令するに即刻參内し且警衞兵士を派すべきを以てす會津藩の兵至るに及び九門を閉鎖し召に非ざる者は公卿と雖ども入ることを許さず而して近衞公父子二條右大臣德大寺内大臣等を召し議奏傳奏國事掛の參内を止め因州備前以下諸侯に參内を命ず長藩士及び毛利讃岐守吉川監物等主從の參入を許さず會薩の兵武裝し未明に悉く屯集して凝華洞に在り大砲一發人員の整備を報ず昧爽堺町門警衞の長藩士飯田竹次郞等將に入衞せんとす薩兵之れを拒み大聲叱して曰く勅諚ありと銃を以て之れに擬す竹次郞等邸に還りて之れを報ず益田右衞門介等之れを聞き村田次郞三郞天野順太郞をして其事實を探らしめ又邸内の兵を糾合して變に備ふ既にして村田次郞三郞歸り報じて曰く中川宮近衞二條兩卿守護職會津侯所司代稻葉侯等參内して固く諸門を鎖し薩會の兵を以て之れを守らしめ禁内の状尋常にあらずと天野順太郞馳せて堺町門に至り薩兵と抗論す取次役鳥山三河介來り勅命を傳ふ其文に曰く
堺町門警衞之儀以思召從只今被免候尚追て御沙汰被爲在候迄屋敷へ可引退勅諚候事
順太郞齎らし歸て益田右衞門介に傳ふ東久世通禧卿疾驅して藩邸に來り尋て錦小路賴德卿亦來り告げて曰く三條卿以下豫等皆參朝を停められ三條卿は謹愼を命ぜられたりと西三條季知四條隆謌壬生基修の諸卿も亦相踵て來り會す是に於て長藩士等相議して鷹司關白に謁し朝旨の在る所を候するに決し邸内の兵四百人を以て五卿を護して鷹司邸に赴く淸末侯の兵五十人岩國の兵四百人亦繼て發し堺町門に至る門鎖して入るべからず鷹司邸の裡門より入る五卿長藩の領袖と鷹司關白に謁して朝議變換の事由を問ふ關白未だ參内せざるを以て其事由
 
を知らずと答ふ既にして關白召命に依り參内す少焉して三條卿親兵を率ゐて來り會し澤宣嘉卿亦來る三條卿の率ゐたる親兵は水戸因州土州松山宇和島大垣川越阿州備前上杉藝州加州肥後中津彦根高松姫路藤堂久留米柳川等の諸藩士千餘に達す朝廷に在りては中川宮近衞前關白二條右大臣德大寺内大臣近衞左大將等御前に候し中川宮より諸卿に告げて曰く議奏國事掛等長藩の暴論を容れて親征行幸の事を謀る是れ陛下の意に非ず依て三條中納言等に禁足を命ずと尋て柳原中納言を以て議奏加勢と爲し中山大納言正親町前大納言阿野宰相中將を召して議奏と爲す三卿之れを辭す因て更に議奏格と爲し正親町大納言庭田中納言葉室右大辨宰相を以て議奏加勢と爲し御前を退く中川宮守護職所司代上杉彈正大弼等相會し議して柳原中納言を以て勅使と爲し之れをして長藩邸に赴かしめんとし長藩士の關白邸に會する者に命じ藩邸に還りて命を待たしむ吉川監物益田右衞門介等應ぜず乃ち柳原中納言を關白の邸に遣り賜ふに勅書を以てす其文に曰く
攘夷御親征之義は兼々之叡慮被爲在候得共行幸等之儀は粗暴之處置有之候段御取調被爲在候攘夷之儀は何處迄も叡慮御確乎被爲在候事故於長州益盡力可有之候是迄長州効力朝家候に付人心も振興之事向後彌御依賴被思召候間忠節可相盡候藩中多人數之内故最加鎭撫決て心得違無之樣益勤王可竭忠力旨被仰下候事
長藩士意頗る激す關白邸に在りて直ちに答書を草し之れを上る其文に曰く
勅書之趣奉畏候然所御取調之儀は如何にて御坐候哉不奉承知候得共行幸等之儀既に御決定に相成正義忠勤と人望も有之候
三條殿を始有志之公卿方不殘御譴責之御樣子夫而已ならず堺町御門御固被差除脇方へ御預け通路をも被差留候由其外御門とも通路留之御沙汰に相成殊に人數も多分御引入諸所警衞被仰付彼是御摸樣不尋常朝廷御一大事と奉存候付關白殿下迄參殿仕居九重内之御樣子不奉伺候得共萬一も難心得儀も有之候得ば御座所近く御警衞仕度寸誠而已にて家來一統粗暴の所行仕候儀は無御座候此段深御諒察被成下三條殿を始速に御復職被爲在其外諸事如尋常御沙汰被仰付候樣奉願上候以上
朝廷は慰諭して之れを退去せしめんと欲し更に勅を賜ふ其文に曰く
攘夷一件は長州所置叡感之御事に候精々御依賴被爲在候但數人之藩中心得違之輩有之候ては如何故厚く鎭撫可有之樣唯今以勅使被仰下候間心得違無之樣之事
是日中川宮より勅諚を在京列藩に頒つ曰く
夷狄御親征之儀未其機會に無之叡慮之處御沙汰之趣施行に相成候段全思召に不被爲在候何れ御親征は可被爲在候得共先此旨更被仰出候尤於攘夷之叡念は少も不被爲替候行幸暫御延引被仰出候事
案ずるに此勅は鷹司關白の參内あるや中川宮より直ちに示されたりと云ふ
長藩士等關白邸に在り扼腕慷慨すと雖ども關白未だ朝より退かず三條卿は柳原中納言に依りて上疏し又松平淡路守を參内の途中より招き其衷情を陳述したりと雖ども容れられず是に於て長藩士は親兵等と共に闕に入りて關白を迎へんとせしに會薩の兵鎗銃を擬し防ぎて入れず申牌勅命あり長藩人をして引退せしむ依て三條三條西東久世四條錦小路澤壬生の七卿眞
 
木和泉土方楠左衞門宮部鼎藏長藩士山田亦介中村九郞村田次郞三郞來島又兵衞桂小五郞久坂義助佐々木男也寺島忠三郞等商議して曰く憤激の衆を集めて久しく駐在せば遂に事を闕下に生ぜんことを恐る如かず大佛に退きて徐ろに進退を議せんにはと乃ち使を薩藩に遣はして曰く弊藩今や鎭撫の爲めに大佛に引退せんとす然れども貴藩今の如く砲口を我れに擬せんか武門の習ひ引退すべからず望むらくは兩者互に引退せんことをと薩藩之れを諾す是に於て長藩士は鷹司邸の裡門と堺町門とを開き第一陣は毛利讃岐守第二陣は吉川監物第三陣は七卿親兵第四陣は我宗藩として二千七百餘人隊伍を整へ大佛に向ふ時已に薄暮なり長藩士は大佛の妙法院を以て本陣と爲し其北門は吉川氏の兵之れを守り中門は宗藩之れを守り西門は毛利讃岐守の兵十津川の鄕士之れを守る(宮部鼎藏の日記には毛利讃州吉川監物益田十津川勢長州銃隊五手にて五ヶ所の外門を守るとあり)夜細雨あり冷氣人を襲ふ兵士皆武裝し篝火を點し白粥を啜り酒を飮み暖を取る(伏見街道桶屋藥と曰へる藥種屋并に板倉筑前守より糧食を給すと云ふ)深更に至り警なし因て會議し將に其去就を決せんとす衆議紛々たり遂に一たび七卿を伴ひて長州に還るに決し(案ずるに此時七卿は京都に還り自邸に謹愼して命を待つを可とするの論ありしも萬一姉小路公知卿の轍を踏まんも圖り難きを以て遂に西下するに決したりと云ふ)益田右衞門介より之れを朝廷に上報す其文に曰く
御書被仰下候付歎願之次第は恐ながら委細勅使へ過刻奉申上候通に御座候如何御評決被仰付候哉幾囘も願筋相叶候樣謹で御命可奉待之處堺町御門御固め御免被仰付候ては專國許海防
盡力を仕度奉存候間毛利讃岐守并に吉川監物を始め詰居之者只今より歸國仕候尤攘夷之儀は彌御依賴被思食候段被仰聞難有奉存候付ては此上格別擧國必死に乍不及盡力可仕候尚又歎願も仕候通三條殿を始積年誠忠人望を屬し候御方此度攘夷之先鋒御懇願被爲成候由に付國許迄御供仕候間何分早々御復職等之御沙汰奉待候以上
親兵從て行かんと請ふ三條卿等以爲らく是れ朝廷の兵なり私に從ふべからずと因て慰諭して之れを去らしむ唯眞木和泉淵上郁太郞水野丹後宮部鼎藏土方楠左衞門等有志の士のみ之れに從ひ毛利讃岐守吉川監物等兵二千餘人を率ゐ之れを護して西下の途に就く(太平日譜に據るに此日七卿は襠高袴を着け白木綿の鉢卷を爲し劔を帶び草鞋を穿ち雨中を徒歩して出發し又藩士は或は小具足を着け或は着込のまゝ各得意の武器を擕へたりと云ふ)前日三條卿の參朝を請ふや中川宮等斷じて之れを許さず松平相摸守松平淡路守異議を廷に唱へて曰く宜く三條卿の參内を許し之れに説諭すべし肯かざれば陛下玉座を他に遷さるべし然らざれば禁闕に砲發するに至るも亦未だ知るべからずと既にして三條卿以下退去の報あり乃ち二侯の言を納れ人心を鎭撫せんとし十九日朝勅して三條卿を召還せしむ及ばず是に於て京都の形勢は俄然一變しり


 末松謙澄 著 修訂『防長回天史』四 末松春彦 発行
  大正十年            三八四~三九五頁
維新前後(抄) 別名「竹亭回顧録」
         東久世通禧 談 高瀬真卿(羽皐)編

  第三十二 大和行幸の事

 八幡行幸は四月十一日に行はれて、鳳輦初めて京師の外へ出させられたのである。主上は深宮に在して一たびも宮域の外を見させられぬ御事なれば、生駒山の連峰、淀川の長流など御覧遊ばして定めて奇異の思ひを遊ぱしたで有らうと思ふ。
 この日は将軍も御供と極って居た処が俄に病気の由にて供奉を辞して、長州、土州其他諸藩の有志者、国事係の公卿の従者となり、また、学習院出仕の名義で多数御供をしたから此連中は将軍の供奉せざるを非常に憤った。一橋を名代にして節刀を渡すとの論もあったが、一橋も俄に病気と云ふ申立で散々の体で、何の仕出した事もなく還幸に成った。此日何故に将軍が供奉を辞したかと云ふに、其理由はよく分らぬが中山侍従(忠光)が浪士を率ゐて将軍を要撃すると云ふ計画があったと云ふ説を聞て、所労と称したとも云ふ。また神前で節刀を渡されるのを怖れたと云ふ説もある。何れにしても攘夷の事で又責立らるゝを気閊ったもので有らう。
 其から外国拒絶の命を受て一橋が関東へ下った。これも初めから出来やうとは思はぬ様子で有るが、勅命故余儀なく東帰した。実に馬鹿々々しい世の中で、出来ぬ事を知りつゝ御受をする人もあり、其を又成功でもするかの様に待って居た人もある。水戸の武田伊賀守は、一橋の供をして下ったが飽まで攘夷をする積りで道々も其方策を講じつゝ下りて、戸塚
維新前後 を本陣として金沢口より打入る、一手は神奈川より攻るなどと計画して一橋にも話し、至極それがよからう抔と程よく挨拶して神奈川に着くと外国奉行の浅野治郎八を呼び、大きな声で愈々勅命を奉じて不日攘夷をするから左様心得る様にと武田の徒に聞ゆる様に言渡し、低声でどうか馬を二三疋用意してくれと其夜馬に打乗り、主従三騎で夜中江戸へ帰った。武田等は儼然として戦略を講じて居た処、いつの問にか一橋に逃られて呆れ果てすご〳〵江戸へ帰ったと言ふ話である。まづ斯云ふ訳のものだ。
 一橋もたう〳〵後見職を辞し、水戸も将軍の目代を辞して仕舞った。形勢いよ〳〵容易ならずと云ふ処で姉小路公知が退朝の途中暗殺せられた。薩藩の田中新兵衛の刀が其場に落ちてあったと言ふので田中に嫌疑が掛り、田中は自殺した。これが為にどう云ふ訳で殺されたかと云ふ事実は分らなくなった。右の様な訳で将軍も最早東帰して拒絶の処置をなすがよからうと云ふ論が起って其事を相談中、小笠原国五郎が兵隊を率ゐて海路より上京したと云ふ騒ぎが起った。国事係の人々皆大に立腹して、兵威を以て開港の勅許を得んとする由の噂あるは此事で有らう、怪しからぬ次第なりと、将軍を詰問すると云ふ様な騒ぎだ。幕府も小笠原の上京は甚だ宜しからずと小笠原を免職にして、将軍は攘夷の為と称し関東へ下ったのである。
羽皐云、小笠原の上京は水野痴雲の策を用ひたるにて、二三千人も兵を率ゐて登り将軍のお迎と称し在京して、先づ浮浪の徒を押片付れぱ朝廷はどうにも成るべしと云ふ考なり。其計策は妙なれども之を行ふ者拙くして縡破れをとりしなり。
 
 其から国事係の方面から観察すると、初め将軍が上洛した上攘夷のお受をすると勅使に約束しながら、上洛すれば事を左右に託して一向取合ぬ。水戸を目代として下しても何の効もなく、一橋に勅旨を授け関東へ下しても是亦河原の礫で何の沙汰もなく、揚句には水戸も一橋も辞職して仕舞った。そこで将軍自ら下って鎖港をせよ畏りましたと御暇乞をして下れぱ、是また一向手を下した様子も見えぬ。此上は将軍も頼むに足らず天皇御親征の外なしと云ふ議が出て来た。其をなすには会津をも関東へ下すがよい。彼は兵力を擁して居るから吾党に取って大きなる妨害であると云ふ論も出た。此事は勿論長藩の有志者とも相談した事で、其ころは長州では桂小五郎、久坂玄瑞、入江九市、肥後の轟武兵衛、山田十郎、土佐の吉村宣太郎、其外平野、藤本などが主として学習院に出入して謀議を凝らして居た。そこへ真木和泉守が登って来た。真木は有馬藩で禁錮して置たを朝命で之を宥し上京させたのである。真木は五月の末に上京したかと思ふ。真木は其ころ今楠公と言れた立派な風采な男で、学問もあり弁舌もあり、経綸の才も備って居たから、有志者の中にてまづ主領株と言ふやうな位置で、大和行幸と云ふ計画に就て節制を立てた。
 その時の方略と云ふものは、天皇が大和の春日山へ行幸に成って、次に神武帝の山陵御拝、其から伊勢神宮御参拝、これにて天下へ御親征の大号令を発し、其より鳳輦を大坂城に駐め、関門を十ケ所に置き御親兵を募り兵を摂海に屯ろし、次に諸大名に攘夷の勅命を下し攘夷使を発して
監督させ、また大司馬の官六人を置き公卿三人、大名三人を以て之に任じ、錦旗を制し革にて鳳輦を造り、諸藩有為の士
を以て次官、司馬官に任じて天下の耳目を一新し兵馬の権を収めて天下に号令すると云ふ様な節制であった。国事係の人々いづれも大きに賛成で、近衛や関白など心中には迚も行はれまいと思っても、吾々の勢ひが烈しいから反対する訳にゆかぬ。主上には三条より言上して御裁可を経たから、八月十三日に仰出されに成った。
今度攘夷の御祈願として大和国へ行幸神武帝の山陵春日杜へ御拝暫く御逗留あって御親征の軍議あらせられ其上にて神宮へ行幸の事仰出され候事
 この勅書には会津を初め在京の諸大名みな驚いたのであらう。中川宮などは最も不得心の様子、大名の多くは賛成しない模様である。この事に就て第一に加賀、肥後、長州、土州、久留米、津和野、薩州等に早々上京する様にと云ふ召状が出た。また在京の大名をば、十三日に禁中へ召て御達しになる。当時在京の大名と云ふは備前、因州、上杉初め十人許り居たかと思ふ。
 中山忠能卿の記に拠れぱ当時の事情其大略は分る。
御親征御内決に付因、阿(池田、蜂須賀)、上杉、備前などへ殿下より御示の処不同心の方も有之御親征お止めと云風聞も有之由云々、中川宮此節暴烈御親征御申立の由真に候や、野宮定功曰、左様には無之候云々、八月十一日世の形勢切迫によって参政寄人の中速に御親征あらせらるべき旨申立たる由なり云々
「近衛公の手簡」島津三郎へ送りし文中に云く、
御親征の事は慥に聖意にてはましまさず筑後国久留米の浪人真木和泉守と云もの長州に方人して此事を企て三条以下の人
 
々之を信じ公卿たちをも誘ひ立たり中川宮我等父子は彼方さまの人の深く悪む処なれども左あらぬ体にもてなし其志を遂んとす真木が献ぜし計策には云々吾等も素より行はれずとは思へども配慮の事も少なからねぱ御辺急ぎ上京あって彼等が謀を挫かれん事を云々
とあり。
「真木和泉守上京日記」に曰、
癸亥五月十八日被赦廿二日奉行村氏渡部氏に辞し一同発程警固足軽目附一人目明し二人推方二人送り来る乙隈に掛る時淵上郁太郎堀真五郎と早打にて来る云々(中略)廿九日赤根武人入江九市来る余が深意を問ふ同行山口に至る云々世子に謁す(中略)八日代見に達す久坂通武(義助)堀真五郎吉田栄五郎在り(中略)十日佐々木清水同行三条公へ参り肥後人土州人水戸人に出会議論合す。
十二日殿下に謁し密事を告ぐ三条卿に謁す云々十三日謁殿下謁野宮卿十四日三条公余を召す豊田東久世烏丸三卿在り三条公余が従前の説を述しむ云々
 この日記五月十八日に始り八月十五日に終る。十五日の条に「水野木村同行条公に謁し学習院にて大挙の鹵簿等の事を議す条公烏丸東久世公臨之余山田亦助久坂義助桂小五郎宮部鼎蔵のみ夜無月中島英来訪」とあり。

  第三十三 八月十八日の変

 政治舞台の局面と云ふものはいつ変化するか知れぬもので、反対党が秘密に計策を運らしつゝあるのを当局者は楽観して、
 
夢にも知らずに居て俄然と転覆されて初て狼狽すると云ふ様な事がいくらもある。慶応三年十二月九日の大変動も、文久三年八月十八日の変動も全く其模様は同一であった。
 前にも言った通り、愈々不日大和行幸、今度は朝権回復、討幕の成功までは行ずとも攘夷の実行は無論の事と吾々一同其用意に忙がしく、十六日には供奉の人名まで仰出されに成って、十八日は御霊の祭礼の日であったから十七日の夜は霄宮の祝ひに親戚へ招れ一杯飲んで愉快な心もちで邸へ帰った。十八日の朝いつもの通り起て手水などつかって居ると、何か世間が騒々しい体である。何事が起ったかと家来を呼び、世間が騒々しい何事か変事でもあるかと聞けば、何事も存じませんが未明より甲冑を着た武士ども槍を持って頻りに奔走いたす体、また鉄砲の音も聞えたと云ふ。其は只事では有まいと急に装束を着て、堺町御門まで来ると、長藩の堺町御門の堅めは他家と交替になったと云ふ事で、皆な門前に屯ろして居て門は閉鎖してある。吾は東久世なり開門して通すべしと言ひたれど通さず、其形勢がいかにも尋常の事とは見えぬ。これは非常の事変が生じたに違ひはなからうと思ったから、門前に繋であった馬を借りて一騎がけに河原町の長州邸へゆき、小田村文助を呼出し尋ねたるに、只だ邸中混雑する許りで真相がよく分らない。小田村が云ふに、今朝急使を発して小松谷の吉川監物初め毛利讃岐守に知らせたれば追付来るべしと。其処へ吉川、毛利はじめ皆な人数を率ゐて追々やって来て、其処へ四条、壬生、錦小路も駈付た。其から評議して兎も角も鷹司関白邸へ行かうと吉川、毛利等と多勢の人数を引つれ同邸の裏門より押込で関白に面会した。共々参内して
 
朝廷の御模様を見やうと云ふ相談をして居る処へ御使が来て、関白だけ御召になった。吾々は強てゆく訳にもゆかず、後に残って居る処へ三条が御親兵を大勢引つれて関白邸へやって来た。三条卿はかねて御親兵総督を仰付られて居たから今朝の騒動を聞て皆な同家へ駈付たものと見ゆる。
 其から一同会して段々様子を聞て見ると、今朝俄に中川宮、二条、近衛、徳大寺等の諸公参内して会津、備前、因州、上杉等の諸藩主を召したから兼て打合せに成って居たものと見えていづれも兵を率ゐて参内、直ぐ宮門を固め、国事係の堂上を廃し、長州藩の堺町御門の警備を免じたと云ふだけは分った。今日で考へたとは大きに違ふ。この時まで事情の真相と云ふものがよく分らないからいろ〳〵の議論が出る。多くは想像して論ずるのが多い。
 彼是して居るうちに薩州の兵と会津の兵が堺町御門へ押て来て、勅命にて吾々へ此御門の警衛を仰付られたれぱ御門を受取らうと云。長州藩は今朝より事変の生じた事を知って居るから容易に渡さうとは言はぬ。両藩士が武装して来たのを見て大に怒って此御沙汰は決して真の勅命ではない、汝等の姦謀より出た事である、受取りたくば槍先で受取れ、心得たと云ふ様な騒ぎ。大砲を向けて今や戦争にならうとする処へ、柳原が勅使に来て長藩を諭して御門を渡させた。鷹司に集りて居た吾々は関白が帰ったら様子が訳るであらうと思て居たれど、御所近く斯く大勢集って居るも穏やかでない。何れへか引払ふが宜らうと云ふ論が出た。左様其時は三条が御親兵総督であったから御親兵はみな集って来て居る。諸藩の有志も多い。長州の兵も沢山居る。毛利讃岐守、吉川監物、益田
 
  弾正などが千人許りも連て居た。
 かゝる中に御所より柳原が来て早々退散する様にとの御沙汰である。一同大仏の宮(妙法院)へ引とる事にしたのが午後の事で折から雨が降り出した。此時は二千人許りも同勢があったらうと思ふ。此時は長藩を初め浪士みな激昂して、御所へ打入って姦物どもを斃せなどと騒ぎ立て余程危険であったから、中々口先で説諭した位では鎮らない。其故妙法院へ引揚たのだ。
羽皐云、この局面一変には必ず二三の策士ありて秘密の運動をなしたるに相違なし。当時大和行幸に反対の意見を有したるは言ふ迄もなく会津、薩摩の両藩也。島津三郎この前々月上京して建議したれど行れず、会津も素より攘夷の行はれぬ事を知って居れぱ、斯様の間題が起るに至っては両藩の意思は直ちに投合すべき筈なり。或古老の話に、会津の広沢富次郎と云ふ者有為の人物なり。其ころは手代木直右衛門、秋月悌二郎など肥後守の信任を得たれどもこの二人は凡庸の人物にして、秋月は学問あれども迂遠也。手代木は無学にして少々俗才あり。広沢に至っては学識あって役に立つ男也。大和行幸の勅命出るや秋月、手代木は大に愕くのみ何ともなす処を知らず。広沢之を聞て吾一策あり、此局面を変じて見すべしと秋月を伴ひて薩邸に至り、奈良原幸五郎、高崎佐太郎に面会して大和行幸御見合せ、国事係の堂上を退くる策を講じたるに、薩藩も大に歓迎して是より広沢、奈艮原、高崎等中川宮を説き、近衛、二条の両大臣を説く。何れも行幸を喜ぱざる方々なれば喜んで直に其説を容れ、中川宮より主上を諌めまへらせたるに、素より行幸の事は御好みにあらず。三条
が無理に勧める故兎も角もと言たる迄なりとの御内意なりしかぱ、両藩大に喜び備前、因州、佐竹等へも協議し、十八日の寅の刻に中川宮、会津藩の兵数十人を率ゐて参朝し二条、近衛も同時に参内してかねて申合せたる備前、因州、阿波、秋田等十一藩の人数集りて宮門を守りたる時、長州の堺町門守衛を免じ国事係を廃し、過激たる堂上の参内を停止し、一朝にして目覚しき改革を実行したるなり。勤王党には真木和泉守ありて親征の計画をたて、佐幕党には広沢金二郎ありて之を破壊したるものなり。これ余の聞く処にして或は真相なりしやも知れず。
 妙法院にても種々の議論が出た。是より御所へ逆寄せして君側の姦を掃ふべしと言ふもあり、河内の金剛山へ立籠て天下の義徒を集め幕府を討つべしと云ふ論もある。議論紛々として容易に纏らない。
 毛利讃岐守、吉川蔵人等が言ふには、朝廷さきに攘夷の一事は長州に依頼すとの御沙汰もあれぱ、今より諸卿方の御供して国へ帰り速に攘夷の実功をたて朝威を振興するはいかにと云ふ論で、吾等はじめ此説を採用して中国へ赴く事に決した。先づ山ロヘ其趣を知らせるがよいと一面には急使を発し、又益田弾正をして朝廷へ陳情書を告す。翌十九日の未明雨の降る中を各々雨具を着し、毛利、吉川以下従ふもの彼是二千人許り。御親兵はこゝにて暇をやって各々解散させた。皆などこまでも供をしたいと言ったけれど、私には親兵を率ゐるは宜しくないから暇を出したのである。吾等は今朝家を出た儘で長き道中を前に控えても旅資の用意がない。三条初め用意した者はあるまい。けれど少しも用意がなくては心細いか
ら、急に屋敷へ家来を走らして母が積立て置た非常金を取出し其を懐ろにして出た。伏見の長州邸へ着たとき、三条より宮部鼎蔵に命じ軍資金調達を命じ、宮部は直ぐ京へ立帰て富豪に説て三千両許り持って来たと云ふ話もあった。伏見までは朝服の衣冠奴袴と云ふ姿の上に簑を着て居たので勘気を蒙った身で官服もいかゞで有らうかと云ふ話もあって、こゝで髪も武士の様に茶せんに結び割羽織、野袴、銘々陣笠を冠ると云ふ出立だ。供に立た有志者も随分あったが、兎に角平家の都落ちも斯んな体で有たらうと思った。従来歩行と云ふものは余りせぬ堂上の身で、風雨の中を草鞋を穿てたどりゆくのだから実に其艱苦名状す可らず。
羽皐云、七卿いまだ鷹司邸にありし時の事なりと云ふ。朝廷にて中川宮、鷹司関白、近衛、二条を初め諸卿会議せられたる時の模様を聞くに、関白参朝して列座の諸卿に向ひ、三条は忠義一途の者にて少しも罪すべきものに非ず。三条西、東久世初めの者も只管主上の御為を存じて思立し事なれぱ俄に疎外すべき道理なし。何れも御前へ召して不束の筋あらぼ、一応も二応も御尋の上にて御処置あらせられ然るべき事なり、と発議せられたるに、中川宮、いや〳〵一たん仰出されたる上は今更召すべき必要もなしと仰らる。近衛左府曰く、一度仰出されたりとも罪の疑はしきものは幾度も御尋なされて然るべしと言れ、其他の諸卿も召すべしと云もあり、召すに及ぱずと言るゝもあり。議論二つに分れて決せず。中川宮曰く、この上は諸大名の意見を聞召して何れとも御定めなさる方然るべしと言ふ。そこで参内の諸大名に御下問になると松平肥後守が曰く、今日に相成って御尋問は無益の事なれば左様の
御沙汰は御見合せ遊ぱすがよろしからんと云。松平備前守、山内兵之助(土佐)も会津と同意見なれぱ、さらぱ召に及ぱずと云ふ事に決したるなり。
又曰、資金調達の事、余が聞く処にては宮部鼎蔵、京の長州邸に至り乃美伊織に談じて三千五百両調達させ、真木和泉守よりは板倉筑前守へ談じて三百両、三条公も自邸より百両取寄られし由。
 伏見より水垂の渡りを越え桂川の西岸を山崎に出で、夕景に摂州芥川の駅に投宿した。其日も朝より風雨やまず、泥濘脛を没する許りで随分苦しい思をした。郡山にて午餐をたべ、武庫川を経て薄暮西の宮に投宿した。こゝへ宮部は早駕で帰て来て調達の金子を出した様に思ふ。二十一日また雨、兎原、住吉、生田川を通り湊川の楠公の墓を拝し、正午ごろ兵庫について是より海路長門に行く事に決し、酒肴を命じて離盃を酌んだ。この処まで有志の士多く送って来た。また家来を京へ返した人もある。船に乗ってから七卿連署の檄文を書て宮部に托し、天下の志士に頒布させた。其文は
中興、大業向成之処、奸賊狂妄、奉悩震襟候事、不堪憤激西国へ罷下り挙義兵候、順逆は顕然に付有志之者一旦長州へ馳集候様可致仍而如件
                     三条中納言
                     三条西中納言
                     東久世少将
                     壬生修理大夫
                     四条侍従
                     錦小路右馬頭
                     沢主水正
  国々有志中へ
羽皐云、この時、長藩の久坂義助がよみたる今様あり、こゝに記して当時のさまを見るよすがとするなり。
世は刈こもと乱れつゝ、あかねさす日もいと暗く、蝉の小川に霧たちて、隔ての雲となりにけり、あらいたましや玉きはる、大裡に朝くれ殿居せし、実美朝臣季知卿、壬生沢四条東久世、其外錦小路殿、今浮草の定めなぎ、旅にしあれぱ駒さへも、進み兼てはいぱえつゝ、降りしく雨の絶間なく、涙に袖のぬれはてゝ、是より海山ちさぢ原、露霜わきて蘆が散る、難波の浦にたく塩の、からき浮世は物かはと、行んとすれぱ東山、峰の秋風身にしみて、朝な夕なに聞なれし、妙法院の鐘の音も、なんと今宵はあはれなる、いつしかくらき雲霧を、払ひつくして、百敷の都の月をめてたもふらん。

編者曰、以上は卿の御話しによりて筆記せしものにして、明治四十年よりことし四十四年に至るまでの紀聞なり。七卿都を落たまひし後の記事は余が曽て卿の御伝記を録せしとき記せしものあり。其記事もまた、多く卿の御口話に基きたるものなれぱ、中国以後の事蹟はこの御伝紀をこゝに出して本編の首尾を完ふする事とせり。読者其文体の変じたるを怪みたもふな。
                       羽皐註

 東久世通禧『維新前後』 昭和四四年 新人物往来社
                  一六二~一七六頁
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