日本史探偵団文庫
長行始末
入力者 大山格
 

 元治元年春に幕府・長州間の周旋を試みた館林藩中老の岡谷繁実が、その顛末を記した文書。
岡谷自筆の略年譜によると同年五月二十日に著述したとされるが、内容から見て後日に加筆されている。
 底本は野史台維新史料叢書第38である。
 
長門侯尊王攘夷之事 ○長行始末
                   岡谷繁実君 稿
   長門侯尊王攘夷之事
嘉永六年六月北亞美理駕來り通商を乞しより引續き魯西亞英吉利佛蘭西等の國々來り通商を請ふ安政五年幕府遂に條約を結ひ玉ふ其後 主上是れを聞召し大に驚かせ玉ひしかとも結し後のことなれは如何とも成し玉ふ事能はずこれよりして公武の間何となく穩ならす通商は日に月に盛りになりぬれは物價は日に月に騰貴し億兆の蒼生塗炭の苦に陷り遂に天變地殃を初上已上元の變あるに至れり斯りけれは忝も 宸襟を惱し玉ひ上は伊勢加茂八幡等の社へ祈り玉ひ深く非德に渡らせ玉ふ由を責め玉へ下者征夷府へ屢攘夷の令を下し玉ひしかとも如何なることにやありけん行はれすして通商のみは盛んに行はれける時に列侯諸藩有志の人々夫々に攘夷の周旋ありし中にも長門侯大膳大夫慶親朝臣同長門守定廣朝臣は殊に心を痛められ公武の間を周旋し攘夷の成功をなし玉はんと東西に奔走し彼是と盡力あられしかとも是亦兎角にさゝはる事ありて行はれす時に 叡慮斷然として文久三年五月十日を期限とし幕府の示令に搆はす虜舶見掛け次第攘斥すへきとそ仰出されける期限の日に當りて虜舶赤間關に來りしかは長門侯即命して一戰に是を攘斥せらる 王威こゝに至りて初て立 皇國の正氣こゝに至りて初て振ふ是を初として攘夷に奏功ありしかは正親町左近衞少將公薰朝臣を監察使として長門國に下し玉ひけり攘夷の奏功 叡感斜めならさる旨仰せ下されけれは君臣共に感激飛動し防長兩國を攘夷の爲に抛んとす其英氣想ふへし慶親朝臣か參議に任せられしも攘夷の功を賞されし故な
長人小倉を襲んとせし事

中根害に逢ふ事
りと人々申あへりこれ幕府と齟齬之一
   長人小倉を襲んとせし事
五月赤間關にて夷舶を打拂ひしとき小倉より應援せさるのみならす人々海岸に出て兩天傘をさし炎天苦戰の体を傍觀し剩へ夷舶に薪水等を贈れりとの事にて長人憤り小倉へ死者を遣し 勅命を以て外夷との一戰に何故隣國にて應援せられすや隣國の好もなき事とありけれは小倉にては 朝廷よりは攘斥の命あれと幕府よりの令なし幕府の令を用るは則 勅命を遵奉する也夫れ故に應援せすと答へける長人益憤り 勅命を拒むは則朝敵也殊に日本と外夷との戰を傍觀せし事其罪輕からすとて既に小倉を襲んとするの勢なれは定廣朝臣深く憂られ自ら赤間關に至り種々諭し玉ひしかは漸くの事にて襲ふことはやみにきしかれとも激徒等小倉にて打たすは我これを挾み擊んと憤りの餘り小倉の地に押渡り不法の事も多かりけり小倉大に怒り既に戰に及はんとせしかとも私に干戈を動かすへきにあらすと之を幕府に訴ふ幕府則小倉傍邊の諸侯に小倉に變あらは援兵を出すへき旨令し玉ふ長州にては小倉應援せさる次第を 朝廷に訴けれは 朝廷より又長州傍近の諸侯に長州にて夷舶と戰鬪あらは應援すへき旨令し玉ふ故に長と小倉とは殆と胡越のことし此時小倉應援を成したらは醜虜を鏖殺すへかりし者を口惜かりし事共也是齟齬之二
   中根害に逢ふ事
去程に赤間關にて打拂はれし夷人これを幕府に訴へけれは幕府より中根某を使節として長門に下す中根宰相殿に面話せんと云宰相不快なりとて老臣の内出て應接す時に中根云幕府よりの示令もなきに何故に舶夷を打拂はれしや台命を輕するに
八月十八日の騒動 似たりと詰問せられけれは長州にては本より 勅命を奉戴いたし候事にて已に幕府にても 勅命御請ありて拒絶の應接に可及旨閣老より御達も有之し故に攘斥せしと答へけれは頓て事濟みぬ此夜何者のしわさにやありけん上使の旅館を襲ひ中根を斬殺す監察使の下り玉ひて 叡感ありしことゝは引替りて詰問の上使なれは激徒輩大に憤り居たりし折節故斯る難には及たり宰相御父子も殊の外驚かせ玉へ種々探索し玉ひしかともしれす故に其由幕府へ仰立られけるに幕府よりは何とも仰出されなかりしとそ中には長侯命してこれを暗殺せしと云者あれと決て宰相御父子のしり玉ふ事にてはなし是齟齬之三
   八月十八日の騒動
主上降誕ましませしより 行幸とては一度も大内を出させ玉ひとことなけれは何れの處とは撰み玉はねと 行幸の御望は深かりけるに文久三年大將軍家茂公御上洛ありて數代の廢典を興されて加茂及八幡へ 行幸させ參らせられける此ころ長州より建言ありて八幡の社へ 行幸ましまし攘夷の戰勝を祈らせ玉へ 御形を以て示し玉はんに若くへからすとのことなりけれは兼て御望の深かりし 行幸なれは春日伊勢へ詣てさせ玉ひて戰勝を祈り玉はんとの 叡慮ありしを三條實美卿三條西季知卿壬生基修朝臣四條隆謌朝臣東久世通禧朝臣澤宣嘉朝臣錦小路賴德朝臣の七卿方兼てより知し召せしことなれは咫尺し參らせて上言せられけるは方今 行幸し玉はんには幸國是攘夷に決せし時なれは 行幸のみの仰出されにては如何なり御軍議御親征と申六字を御加ひなくては然るへく候はすと仰せ上られし故 主上にも實もと思召し七月十三日 行幸之上御軍議御親征之事仰出されたり京都守護職松平肥後守容
保朝臣には 行幸の事全く 叡慮より出しにはあらて長州人利を以て七卿に啗はしめ七卿として 行幸をすゝめ參らせ大和國へ渡らせ玉ふ頃 鳳輦を橫奪し參らせて長門國へうつし奉り天下を掌握せんとの隱謀にやあらんと思はれけれは彼是其手當をせられたり 主上には一旦七卿の申旨に任せられ御親征の事御承知ありしかとも恐なから深宮の中に養はれさせ玉ひし故親征とは御身矢石を侵し先陣に進み戰玉はんと思召され少しく怖させ玉ひけれは密に 宸筆を染させられ 行幸は朕か意也軍議親征は朕か意にあらすとの御事を彈正尹の宮迄仰せ遣されし事ありしかは尹の宮を始め殿下及前殿下迄全く長州の隱謀ならんと思召薩摩會津等に命ありて同十七日夜丑の刻比より尹の宮近衞殿父子二條殿德大寺殿一條殿武家には會津淀俄に御參内ありて非常の御衆議有之に付たとひ堂上方たりとも 勅命を以て召されさりし者は決て入れ間敷旨被仰出て不意に禁内を固めさせられ堺町御門の外は悉く兵器を以て警衞し出入をさし留られ其上にて在京の諸大名へ人數を引連參内すへしとの命ありて御門御門の御警衞益嚴重なり鷹司殿と九條殿との辻に會津米澤薩摩の人數兵具を帶し大銃を堺町御門長州人警衞の場に向け既に發せんとするの勢を示し長人に對し堺町御門渡さるへき旨申入れられたり長にては 御所大變と聞しより何れも兼て命せられたる堺町御門へ駈付見れは形のことくの勢なれは大に驚きけれとも兵器を以て御門内へ入る事非禮也とあつて堺町御門番所は平常の番人のみにて悉く門外へ兵具にて警衞し然くして薩へ對へけるは 勅命を以て堺町御門を警護せり如何そ私にこれを渡すへきやと答ふ其時に大銃を斜に据置きての答也大銃を眞直に据置さは
七卿方長州へ下られし事 薩にては直と打出す覺悟なれとも長にては斜に据し儘にて直さす危かりける事ともなり問答時移れとも渡さゝりし故御所より柳原中納言光愛卿を 勅使として長州へ堺町御門警衞御免且被仰出旨も有之に付藩邸へ罷在被仰出を相待候樣被仰出けれは 勅命とたに候はんには何事をか可申上と御受して藩邸へ引くへきにさわなく直に大佛に引揚け夫より都を引拂ひて一人も不殘長門國へそ歸りける是齟齬之四
   七卿方長州へ下られし事
七卿の方々は此日參内を差留られ禁足仰出されしか御所大變と聞しより何れも參内せられしに御門御門に警衞ありて入れさりけれは大に驚き玉ひ鷹司殿へ裏口より入られ彼是と議論もあられしかとも事及はすして夫れより直に大佛に趣かる其頃親兵とて十萬石已上より何人と數を定め京師へ非常之爲當直せしなり實美卿には親兵を司られし事なれは親兵の者共は何事やらん誰人の謀叛やらん前後更に分らねは只附き參らせて大佛に來りぬそこにて是より議奏の差圖を受け申さるへしとの仰せありて七卿は其夜長人ともろともに長門の國を志して下られける七卿の方々は全く恐怖せられしと長人の慫慂とにて脱走せられしなり同廿日召す事ありて七卿の方々召されしとき既に脱走との事を 主上初て聞し召され却て驚かせ玉ひし程の事なりけり脱走さいせられすは格別の御咎はなかるへきにと人々惜みあへり錦小路殿大佛より我家へ被贈ける書状に一夜の内に讒せられ參内差留らるる事心外千萬につき是より長州へ參り思切て攘夷の先鋒をいたし存分の働き致候間迚も再ひ家へ不歸候につき蹟片付致候樣申送られけるよし是より長人の入京を差留らる是齟齬之五
長之勢盛なる事

勅に眞僞ある事

長会中惡しき事

長人薩船を打沈めし事
   長之勢盛なる事
八月十八日迄は長人京師へ充滿し尊王攘夷の論益盛んなりけれは幕府と云へとも殆と頡頏する事能はす故に 朝廷の事は長にあらされはならさる勢になりぬ是は幕府にて攘夷の 勅命を受けさせ玉へなから因循に渡らせらるる處より生せりと人々申あへける殊に七卿之應あれは旁以て勢長に歸せり斯りけれは諸國亡命幾百となく入京の事なれは中には討幕の論を起せし者ありける是齟齬之六
   勅に眞僞ある事
親王大臣御列座にて八月十八日以前の 勅は眞 勅にあらすと仰せ出されたり或云幕府にては八月十八日以前の 勅は長の要請せしにて眞 勅にあらすと思はれし故 朝廷へ上言ありて如此被仰出しと云長にては十八日已前の 勅は眞 勅なり十八日已後の 勅は幕府の要請せしにて眞 勅にあらすと云是齟齬之七
   長会中惡しき事
足利三代之木像を梟首せし者を會にては斬らんと云長にては助んと云等を始として樣々不快の事ありしに此度長人か 鳳輦橫奪の隱謀ありと讒訴せしなりとて長の會を憎む事殆と方今の人の暴瀉病を憎より甚し會の長を激成せし事亦少なからす是討長の議の益起る所以也是齟齬之八
   長人薩船を打沈めし事
内大臣近衞忠房公の簾中は大隅守島津忠敎(ママ)朝臣之息女政姫君と申せしなり此姫君を薩摩より送り參らせし蒸氣船入輿の御事濟みて歸りし時外國貿易の綿を積み出帆し癸丑(ママ)の十一月廿六日夜に入り長州の臺場先へ碇泊す臺場詰の人々異舶也と思
秋元家毛利家と御姻屬の事

討長之勅書出る事
ひ砲發す船中の者共大に驚き提灯抔を以て色々相圖せしかとも知れさるにや不搆砲發しけれは右綿に火移り終に船燒け沈みたり乘組し者共は小舟にて漸々助かりけれとも都合十餘人燒死す或人云是は全く激徒等薩船たるを知り居りたりしかことさらに打沈めしと云是齟齬之九
   秋元家毛利家と御姻屬の事
但馬守忠朝(ママ)朝臣は毛利兵庫頭廣鎭朝臣の御子淡路守廣篤朝臣の御弟御本家長門守定廣朝臣の御兄也同家老臣福原越後は朝臣の御兄也かゝる御續きのある御家の今かく尊王攘夷の事よりして幕府と齟齬出來しより事起り遂に追討の御事にも至らんとするを嘆き玉ふ事申も中々おろかにて朝臣の御身に渡らせられては保元の昔に異ならす是により木呂子善兵衞大久保鼎塚越爲三郞上村勝之丞板倉三次郞石川安藏高橋漸之進中村眞之丞大家斧次郞增田熊作松嶋貞吉福井多門牧野熊太郞鈴木榮吉村杉伴右衞門田中謙三中根銀藏外丸弘加藤彌太郞酒井喜八郞蛭間喜豫次等夫々に建言あり大意父兄之 朝敵の名を帶玉はんに至るを傍觀し玉ふへきにあらす幾重にも御周旋の事ありて然るへく候はん左なからんには幕府に對せられての御不忠御父兄へ對せられての御不孝也との事なりけり申迄もなけれは捨置くへきにあらすされと時の家宰は幕府への嫌忌あれは如何あらんと種々評論ありしかとも忠孝兩全を得す寧ろ御身と國家の爲に抛れんとの御事にて疲弊を極めし中なれと道には替難く遂に供奉御願にて十二月御上京にそなりにける御心の中實に押はかり參らせて哀なり
   討長之勅書出る事
明る元治元年正月廿八日 勅書を以て討長之事幕府へ仰せ出
繁實上京之事

前大納言正親町三條實愛卿に謁せし事
さる或云草稿は幕府にてなりしと云
   繁實上京之事
繁實雄略天皇山陵修補之命を蒙り正月館林を發し廿九日京著し長周旋之事を議す同列太陽寺友之丞成美云討長之議勢挽回すへからすされ共當時權島津侯にありこれとはかられなは萬一事ならんか然らすんは事なるへからす島津公とはかられんに如くへからすと云一橋大納言殿松平大藏大輔殿松平肥後守殿伊達伊豫守殿島津大隅守殿參預たり
   前大納言正親町三條實愛卿に謁せし事
二月八日繁實實愛卿に謁しけるにこしかたゆくすへの御物語の序宣けるは方今の形勢は其元か過きにしとし上洛の頃とは違ひ國事參預と云ひし職ありて萬事機務を司り議奏抔は過きにし年に引替て權もなくなりぬれは勤め居りても更に益なし殊に方今差當りての大事は長州之事也今外患ある砌自國の戰爭は然るへからすと思ひ彼是長の事を議せしかは正親町三條は漸もすれは長に左袒するの或は長の爲に遊説するなとと云はれ嫌忌のみ多くして長の事を申出す事ならす云は嫌忌あり云はねは國家の大事を云はぬにて議奏の職を耻しむるなり進退維谷ぬれは隱遁せんと思ひ身の事を大和守戸田にはかり置きしか未た何とも申聞けす其許には如何思ひしや遠慮なく申聞け給はるへしとそ仰ける繁實申上けるは乍恐御尋なれは愚意之程申上べし先以御隱遁之思召不可然其仔細は天下治亂の境目なれは御十分に御職掌を盡させらるへき時に當りて御退隱とは如何の思召に候や又嫌忌をさけ玉ふとは乍恐明公御不似合之御事と奉存候御十分に被仰上惡しけれは罰を御受け被遊候而已に御座候夫にて人臣之御職は相立可申と奉存候又國
家の大事に嫌忌をさけ玉ふて議奏之御職は立可申や乍恐御不似合之仰せ事と奉存候愚意之程思召に應し候はゝ呉々も御盡力被遊候樣爲國家に奉祈候と申上けれは實にもと思召され宣ひけるは然は其元には長の事如何せはよしと思ふそと尋玉ひし故寬大の御扱を以て一之 勅使を下され 叡慮の程を御諭し大膳大夫父子に上京被仰付候樣仕り度左候へは大膳大夫も過を悔い自ら御詫申上候樣相成可申殊に外患御座候時節に御座候へは兎も角も寬大の御處置にて一ト先御扱有之日本國中一致一和の力を以て攘夷被遊候樣仕り度若し御扱有之候ても猶朝憲に觸候はゝ徐に問罪之師を起し玉ふとも御手後と申には御座有間敷又長州にて過激の者取り鎭め七卿歸京させ單騎上洛御詫申上候はゝ其罪を御赦し可被遊候得共是は社稷と共に亡候迄も勢ならさる事にて俗に申意氣事と申者に御座候天子は民の父母に被爲渡候へは一二の過あるを以て御敎諭も無之父子の道を害ひ無罪の民をして鋒鏑の難に苦みさせ玉ふは民に父母たるの御心には忍はせらるへき御事にも有之間敷彌御征討被遊候はゝ名を正し玉ふ樣にて其實は全く醜虜の術中に陷り候と申者にて大に御國體を欠損仕候申上候迄も無御座候得共一日々々と相延候中益朝憲に觸れ候事出來候ては無御據問罪の師を起し玉ふに至り可申旁今度の儀は寬大の御處置早々御取行御座候樣仕り度然し幕府にて御扱候ては却て激成の場にも至り可申依之 叡慮より御さとしに相成候はゝ譬ひ如何樣の長州たりとも過を悔上京仕り御詫申上候樣相成可申義と奉存候一歩の違百萬の蒼生鋒鏑の難に苦むのみならす醜虜の術中に陷り候かと奉存候へは慨嘆の至に堪さる義と奉存候と申上けれは如何にも幕府の扱にては却て激成の場に至る
討長之御封書十一藩へ出る事

黑田嘉右衞門淸恒と物語之事
へきなり朝廷の御扱に可有之事なりと仰ありけり又申上けるは弊藩の義は長州へ續きも御座候へは家來共廿餘人長周旋の事建白仕候者御座候へしか中には過激に流れ在所表より無願にて江戸表へ罷出建白仕候者も御座候其申處道理には御座候へとも國法を破り候にて此節愼申付置候總て世の中は二つよき事は無之ものと相見え申處道理に御座候へは法を破り法を破り候かと存候へは私事の爲にあらす國家の爲身命を抛候如仰嫌忌を御さけ被遊候へは御職掌不相立御職掌御立被遊んと遊し候へは嫌忌を御蒙りと申樣二ツよき事はさて無御座候左揚り左を踏めは右揚り中を踏めは左右揚ると申樣なるものに御座候同し建白致し呉れ候はゝ法を破らすに致し呉れ候へは國事を預り居候ては取計方も御座候者を抔申上御物語に刻を移しぬ後廿餘人の姓名を書き出すへき旨宣ひし故御認め差出したり
   討長之御封書十一藩へ出る事
二月九日實愛卿前關白近衞忠凞公と長の事をはかり玉ひ且繁實か言上せし事を曲に議せられしとなり此時既に討長之事御決議なりて有志諸藩之周旋も行屆かす討手を下さるへきに定りぬ明る十日長州近傍の十一藩へ宣示を下されける同十一日征夷府よりも同く被仰出たり此日松平肥後守容保朝臣參議に任せられ五萬石御加恩陸軍總裁となられたり是去年八月十八日前後の功を賞せられし處也或人云討長は會津の著眼なりと云ふ
   黑田嘉右衞門淸恒と物語之事
十一日薩藩の舊友黑田嘉右衞門淸恒旅館に來り談當世之事に及へり繁實云大隅守君には國事參與に渡らせらるれは定て好
處置をもし玉ひぬらん如何にやと尋けれは淸恒云大隅守儀は參與には侍れとも言行れす謀用られす只々國力を費し在京無益なれは近々退職して國へ歸らんと思ひ居たりしと云其詞浩歎の餘り國事を度外するの氣あり繁實夫は如何なる儀に候や方今天下の形勢君侯の御一身にあり右に投せは右重く左に投せは左重きの勢あるに何故にさは宣ひしと尋けれは淸恒云方今の急務は長の事也和して討長を唱れは 皇國の爲にならす又扱を唱れは去年船を打れし事にて闔藩悉く長を恨めり去年既に燒亡せし者の父子兄弟一族等を初恨を報せんとするの機あり故に大隅守大に苦心し私に干戈を動すへきにあらす朝廷幕府之御處置を待へしと喩し士分を急脚として國元へ遣し修理大夫も自ら家來共をさとし候仕合にて漸々怒を押て公武之御所置を待居り侍りぬ故に扱を唱れは國治らすこれにより長の事は可とも否とも云はれす只偶然としてありしと云繁實云足下不似合の言也何となれは國事參與と申せは六十餘州の參與にて候へは 皇國の爲に不相成事は幾重にも被仰述てこそ可然にかくすれはよきと云に御心の付せられなから扱を唱ふれは國治らすとの御事某か心には落侍らす國の治らぬと仰せしは僅か日向大隅薩摩三ヶ國之御事なるへしさすれは是は私事にして公然と宣ふへき事にあらす六十餘州之參與之職を如何し玉ふにや君侯には御不似合之事なり彌可否を仰せらるる事能はすんは仰のとく早々御退職ありて後賢の路を塞け玉ふ事不可然と愚意の程申述けれは初は憮然とせし如くなりしか元繁實か狂直を知りし故咎ることもなく彼是の物語に刻移りし中に木呂子善兵衞元孝は是亦淸恒が舊友なれは元孝の事を尋ぬ故に告るに元孝の事を以てす淸恒愍然として暇を告けて
討長變して御扱となる事 去れり歸邸の後大隅守に語りしと也
   討長變して御扱となる事
十三日夜例大政に携り玉ふ公卿を初め國事參與の人々急に不時參内被仰出此夜の朝議は討長の義被仰出けれとも彌干戈を動すより外はなきかとの御事也諸卿參與を初め如何とも策なけれは彌干戈を動すより外なしと仰せられて事既に極りぬ時に大隅守島津忠敎朝臣諸公御良策彌これなく候ははやと尋玉ひけれは何もなしと答玉ひぬ時に忠敎朝臣然らは某に一策の候申出し侍らんやとありけれは何も申されよとありし故さらはとて宣ひたるは秋元但馬守儀は德山毛利家より來り殊に當長門守とは兄弟也幸但馬守儀は在京にて殊に苦心致し居候由且家來共之中身命を抛て周旋せんと申せし者廿餘人有之趣承り侍れは是へ一ト先つ扱儀仰付られ候ては如何候はんや其上彌承伏仕らすは夫より干戈を動され候ても遲くも侍るましと宣けれは内大臣近衞忠房公大隅守か申通りの事某も兼て承り侍りぬと宣けれは前大納言正親町三條實愛卿某も大隅守か申通り兼て承り候ひぬ其事しか〳〵の事なりと委細に君公の御苦心の程家來共か身命を抛ての建白ありし由宣けれは深く 叡感ましまして討長より外の事なきかと思ひしにかゝる幸の出來せしは渡りに舟を得しと申者也との忝も 叡感ましましけれは此夜の朝議は是に一決し討長の事は扨置き 叡旨を以て諭さるへきにそ究りける松平大藏大輔慶永は兼て君公の御續の事も知り玉ひし故夫はかくかくの續きヶ樣箇樣に侍りぬと宣けれは益御縁續の事も明かになりぬ討長の議變して彌 叡旨を以て扱ひ玉ふへきにそ究り鷄鳴に至り何も朝を罷り玉ひしなり明る十四日正親町三條殿より召せし故參殿しけれは
昨夜の朝議はしかしかの事なりと仰せありぬさて夫より陽明殿へ出へきよし宣し故陽明殿へそ出にける時に内府公の宣ひしに其元か事前殿下え正親町三條か物語せしとて前殿下より承り侍りぬ曲に三條よりも承りしなるへし昨宵の 朝議はしかしかにてありしを全く其元か忠精の致す處なりと仰せ下されし故繁實恐懼に堪へす中々某か忠精抔との御事は夢に候はす全くかくなるへき機會の至りぬとこそ存し侍りぬと御答申せしなり實に勢と機會との然らしむる處也さて御尋に其元は一體此度の事如何存せしやと宣ひし故乍恐御尋の上は包ます申上へき也此度の御事は乍恐御無慈悲の事と存奉りぬ其子細は 天子にましましては幕府も御子也長州も御子也然るに長州は 尊王攘夷の事よりして去年八月十八日の事件に至りしは幕府にて攘夷の事延引し玉ひしよりの事と被存候左候へは基本を尋ぬれは實に好すへき志よりかゝる不都合には陷りぬ然るを何の御さとしもなく討長の事とは御なさけなき事に御座候 天子は四海の父母に渡らせらるれは一樣も二樣も御さとし有之ても承伏仕らすは夫より征伐し玉ふにも遲きと申にもこれ有間敷然るを何の御さとしもなく討長との御事は餘り御無慈悲に渡らせらるる御事と某義は御うらめしく奉存候左申上候迚長の過を回護仕り候には無御座候卑賤某等の如きたとへは子惡き事ありとて一度の敎示もなく忽首を刎候はゝ世の人如何申侍らんや必無慈悲の者と申すへく候再三再應敎示を加ひ夫にても用ひす益惡事を働き候はゝ圍に入るゝとか勘當仕るとか其上の事にて不得止は首を刎候てこそ父母たるの道にも候はん然るに今一樣之御さとしもなく討長の義被仰出るる事實に御うらめしく奉存候ぬ殊に明公には人臣の極魁攝
諸藩慕來りし事

一橋殿勅をさゝひ玉ひし事
家の第一に渡らせられ候へぬれはたとひ討長の御沙汰出候とも一樣も二樣も御諫言被仰上てこそ可然にと申上けれは公にも深く悅ひ參らせて猶盡力致し某か及はん限りは幾重にも周旋すへしと宣けり是より彼是と盡力し玉ひし事は筆にも中々盡されす事多く機密に渡りぬれは憚りて書せす繁實雀躍に堪へす馳歸りてしかと告參らせけれは君公の悅玉ふ事斜めならす兼々苦心せし處なり已後汝に任する也よきに取計ひ候へとの仰なり
   諸藩慕來りし事
右の事置郵して命を傳るより早く館林侯の周旋にて討長の事一變せりと云より諸藩の人々陸續と入來りて事を議するもの枚舉すへからす何となく盟主の如くにそ見えし
   一橋殿勅をさゝひ玉ひし事
十五日 勅書御下けにならんとせしか十三日夜の朝議に一橋殿煩玉ふ事ありて出玉はねは一ト通朝議の趣を語り其上に下し玉りて然るへく候はんと殿下の宣ひしかは如何にも左有るへき事なりとて一々に朝議の由を告け玉ひしかは慶喜卿大に驚かせ玉ひこは如何なる御事にや侍らん此度の事は是非討長に無之ては幕府の威立す然るを 朝廷より御扱ありてはいとゝ幕府を輕蔑する長なれは益幕府を輕んするに至り申へし故に此度の義は幕府に御委任賜り度如何樣にも幕府にてよきに取計 宸襟を安し奉るへしとの御事なり公卿の方方夫は然るへからす幕府と長との中なれは 朝廷にて御扱無之候ては激成之場に至るへく候間是は 朝廷へ御任せの方可然と御問答に刻移りしかとも一橋殿は是非 勅諚の儀は私に御預け被下度但馬守方は如何樣にもよきに計ひ申すへしと頻りに御願ひ
外丸弘松平大藏大輔殿に謁せし事

長人入京をゆるされたる事

内府公より御内書の事
故公卿方も然らは 勅の儀は一ト先つ一橋に御預けと云に定りけりこれより 朝廷にては長の事は 朝廷にて御扱遊ばさるべしと仰出され一橋は是非幕府にて御扱と云に屡々御問答あり有志の諸藩 朝廷にて御扱にあらすんは却て激成に至るへしとて夫々に周旋せし藩有り
   外丸弘松平大藏大輔殿に謁せし事
弘是日大藏大輔殿に謁し 朝廷の御扱にあらすんは如何候はんとの事申述しかは侯にも之を思ひ度々一橋に申せしかとも不承知には困るなり其元春嶽か申せしとて一橋を説給はれとの御事也夫より度々一橋殿に行き右之義を申述しなり廿四日漸々の事にて 朝廷御扱之事に御一決也
   長人入京をゆるされたる事
長人入京之義頻りに懇願せしかとも尹の宮二條關白は御懸念あり會津は然るへからすと云嶋津は悔悟の爲には入京にあらすんは悔悟すましされとも入京之上何事をか出來候はん事は預め保すへからすと云近衞殿下及内府公正親町三條殿筑前及ひ因備對は入京と云一橋は朝には入京よしと云夕にはあしゝと云數日一決せす終に細川御兄弟澄之助良之助の建白にて浪華迄召呼はるゝとの事にはなりにけり猶も諸藩是非入京との事願ぬれとも遂に叶はす浪華迄出の上の形勢也と云に御一決なり
   内府公より御内書の事
忠房公繁實に宣けるは長州之義は 勅状にあらされは如何なれと然れ共幕府にて一橋に頻りに拒し故不得止これによりて殿下並に前殿下尹の宮を初衆議の上予か執筆せし書なれは勅状にはあらされとも 勅に續きての事なりこれを但馬守に賜
大原重德卿之事

戸田大和守忠至朝臣の事
る間 勅同樣に心得宜しく周旋あるへしと宣ひて壹封之御書を渡し給りぬ
   大原重德卿之事
重德卿は過きにし年 勅使として關東に下り玉ひし事あり此時は島津大隅守忠敎未た三郞と申されし時之事にて三郞關東往復を警衞し參らせしなり此時之事共は今度之事に預からされは略しぬれと此時島津とはかりて 勅をためしと云事を長人か 朝廷へ讒せしより途に罪蒙らせ玉ひて御落飾にそならせられたり八月十八日之變にて同十九日より再ひもとの如く召使われ玉ひしなり長の爲には深く恨もまし〳〵けれと舊惡を思ひ玉はす此度討長は 皇國の御爲にあらすとて彈正尹の宮を始其外に周旋し玉ひて是迄長薩は勿論諸家よりの建白よりやんことなき御事迄いと懇に告玉ひて全く 皇國への微忠を盡すなりとの仰なり長に發するとき暇を告け參らせしかは過にし年卿關東へ 勅使として下り給ふとき忝も給わられし 天盃を繁實に下し給りて予か關東へ下りしも 皇國の御爲の 勅使也此度其元か長行も 皇國治亂の境なれは予か關東へ下りしよりも猶重く覺え侍りぬ故に此 天盃を讓る也予か關東往返に守とせし 天盃なれは夫にあやかられ無事にて再ひ歸京を待入るとの仰にて自ら酌とり給ひて別宴を給りにける至誠感神赤心報國等の語及和歌壹首を給りて繁實を鞭策し給ひし也
   戸田大和守忠至朝臣の事
是人繁實か數年の舊相識にして此周旋之事に共に心を合せ身自ら處せられし如く影となり表となりて繁實を佐け給ひしこと擧て數ふへからす
七卿の御留守を訪參らせし事    七卿の御留守を訪參らせし事
長に發するのとき七卿之方々澤殿計は尋參らするに暇あらすの御不在の邸に尋參らせ今度長行に付ては隨身の御委托承はらはやとありけれは三條西少將公允朝臣を初其他諸家の方々か深く憂ひ參らせし御物語共を聞き不覺も落涙せしこと度々ありぬ臣子之情はかくこそあるへき事共也右之事ともは其要を僅に撮記せしなり一々に書に遑あらすよりて左にはかり參らせし日のみを書す
二月七日戸田侯に謁す八日實愛卿に謁す十日朝廷より十一藩へ宣示出十一日幕府より十一藩へ封書出此日黑田嘉右衞門淸恆來る此後度々會す十三日戸田侯に謁す此夜朝議一變十四日實愛卿忠房公に謁す十五日 勅書出る一橋殿これを拒む十七日實愛卿重德卿に謁す十八日重德卿忠房公に謁す十九日忠房公重德卿に謁す廿一日實愛卿忠房公へ謁す廿二日一橋殿より平岡圓四郞を以て御内意此日忠凞公忠房公へ謁す此夜四ツ時過より戸田侯へ謁す廿三日一橋殿より黑川嘉兵衞を以て内意あり其後戸田能登守酒井伯耆守を以て被仰渡筑前へ行黑田山城浦上信濃等と會す此後度々會す三條大橋に一橋殿の張札あり廿四日忠凞公忠房公實愛卿戸田侯に謁す此日 天朝御扱に朝義御一決廿六日忠凞公忠房公に謁す此日長へ 勅あり吉川及老臣出すへきの命廿八日長藩乃美織江へ會す此後度々會す廿九日實愛卿に謁す三月朔日實愛卿戸田侯に謁す四日忠房公に謁す六日 勅使浪華迄御下向の朝議御一決七日忠房公に謁す御内書御渡十五日長行の命十六日實愛卿重德卿に謁す脱走の六卿へ出十八日公允朝臣に謁す十九日忠房公に謁す此日普賢寺武平外丸弘長行差副の命右は荒增也諸藩人に會せしは略
三士長門守朝臣の命を以て應對之事

使節大意之事
す廿日京師を發す
   三士長門守朝臣の命を以て應對之事
廿日各九重の都を立出て山を越川を重ね日數ふれは四月七日周防國宮市にそ著にける時に大和國之介側用人國重德次郞使番山田重作同上山口より宮市へ兼て出向ひありさて君公よりの御書を渡し長門守朝臣に謁し度旨申述けれは御使之大意承り侍らはやとありし故是は拜謁之上の事と申せしかは否下臣三人伺い來れとの仰なりと云ひし故しか〳〵也と大旨を述けれは大に悅ひいと懇に謝し大和國重の兩士馳せ歸りてかくと告け奉りけれは逢玉ふへき由にて九日小郡の別館にて謁せり前後三士の周旋なり
   使節大意之事
今度御使之義は全く餘の義にあらす貴藩尊王攘夷之事よりして彼是の齟齬せしを出來せしより終に入京もゆるされ玉はす殊に過にし正月廿八日には幕府へ討長の 勅書あり同二月十日十一日兩日に天幕より御封書を以て十一藩へ討長之命あり寡君御兄弟の御事故痛心に堪玉はす此度下臣三人を御使として下されし處也此上之事如何し玉はんとの御著眼也や兎にも角にも方今之形勢にては事穩に濟むへきとも存侍らすとありけれは三士の人々五月十日攘斥之事はしか〳〵と此事より始め上使の害に遭玉ひしはしか〳〵小倉を襲はんとせしはしか〳〵八月十八日之事件はしか〳〵と前に記す如く也是迄ありし事共を具に語りさて幕府にて攘夷し玉はんには前件悉く氷解すへし仰き願くは御兄弟之好を以て幕府をして攘夷の奏功あらしめ玉はん樣にとの事なり繁實曰幕府をして攘夷の實功あらせられん樣にとの御事は此迄度々建言ありしなり歸國の
後は猶ほ申上盡力すへき也此段は患玉ふなかれ只々貴藩幕府にて攘夷さいあらは氷解すへしとの御事實に左はあれと方今天幕之形勢にては先内を調ひ然る後にあらすんは勢攘夷に至るへからす然るを幕府攘夷とのみ宣ひては事和かさるのみならす遂に干戈を動すに至るは必然之事也貴藩にも尊王攘夷之御事より自國之干戈を動し玉ふては御本意にも侍るまし貴藩にては幕府之事を譴め幕府にては貴藩之事を譴め玉はんには干戈を動すより外の事あるまし干戈動き候はんには勝敗の事は預め知るへからされとも勢天下之兵を受玉ひては毛利御家の危急とも申奉るへし萬一一敗し玉はんには數百年の名家不食の鬼となり玉はん事こそ實になけくにも餘りあり勝にもせよ負るにもせよ外夷之術中に陷らん事こそ慨嘆に堪さる處也幸此度 朝廷の御扱に任せられ雲上の路を開かせられ然後幕府を助け玉ふて擧國一致一和之力を以て攘夷之實効を顯はされん事こそ偏に願はしく存る也扨貴藩にも禁足の七卿を誘引し玉ひ藩邸へ罷在るへきとの御事をさはなく御國元へ御引揚になりしは曲なしと云へからす 鳳輦橫奪討幕論等の事は確證なき事なれは讒口に出しは論を待たされとも前件二條は如何し玉ふへきや十か十君か惡き故に臣も又かくするとありては人臣たるの分立申間敷十か十よしとても君に對し恐入るは人臣之分也況や前件兩條之事もあれは早々御上坂ありて 朝廷へ對させられ前件の事を謝し玉ひ然るへく候はん左候はんには 皇國の大變何事かこれにしかん是屈して伸玉ふの理なりと申せしかは如何にも貴命之如く也臣としては十分よしとても夫を云はぬこそ道にて侍れされと罪なきに罪を誣られんには承服せられすと云ひし故是は宣ひし迄もなく罪なきを如
德山之事

復命之事
何に 朝廷なれはとて誣玉ふへき道なしたとへ誣玉ふとも諸藩側にあれは誣させ玉はす是等は患玉ふなかれと云けれは罪は罪罪なきは罪なきと分明に御沙汰あらんにはたとひ御官位は勿論防長兩國を被召放候とも宰相御父子は勿論闔藩違背は仕らす只々 勅使を浪華迄下し玉はりては人臣の分立す仰き願くは入京をゆるされ輦轂の下にてたたし玉はん事こそ願まほしく既に去る廿日入京懇願の使節當地を發し候ひぬ何故に入京をゆるし玉はさると云し故是は萬一入京之上過激之所置あらはとの御懸念よりゆるされさる事也しか〳〵諸藩の周旋ありしかとも叶はさる由を語りけれは決して過激之所置仕らす多人數等は召連れす如何にも穩便に入京仕るへく候間偏に入京の義計り玉はれとの事なり然らは輦轂の下にて御尋之上如何樣被仰出候ともイナミ玉はすやとありけれは決して違背仕る間敷との事也皆悉く寡君の仰き願玉ふ處なりとの事なりけり
   德山之事
同十一日兵庫頭廣鎭朝臣及淡路守廣篤朝臣に謁す廣篤朝臣しか〳〵御倚賴之事ありけり廣鎭朝臣には八十八の御祝ありけり事機密に渡れは略す
   復命之事
同廿四日歸京し夫々の方々へ復命しけれは初て長の情實御決ありたり去る廿日又候幕府へ御委任になりたり遺憾不少との仰也よりて幕府へ申へしとの御事なり夫故一橋殿へ出しか〳〵の事なれは入京さへゆるし玉はんにはかく〳〵なりと頻りに懇願せしかともゆるし給はす如何ともすへき樣なかりけり彌ゆるし玉はすんは如何なる變之出來候はんも難計由申述て
中根銀藏狂を發する事 そ戻りける君公之幕府へ對させられての御事も是迄也
   中根銀藏狂を發する事
長周旋之事に付藩論沸騰せしなり何者にやありけん長周旋之事調はす事破れに至れよかし然らすんは建白せし者とも勢益盛になりぬへしとの事を傳聞き銀藏憤激に堪へすこれを誅せんとすされとも諫むる者ありて私に戮すへきにあらすとありし故其事は止りぬれ共終にこれよりして狂を發せり忠房公實愛卿を初諸藩之人々惜みあへり名つけて勤王狂と云又成敗を以君父を論し又或は大義滅親等之論を以て父の事を議するもの抔ありしか國辱なれは略して書せす不肖國政に預り苟も右等之論を發するものあるは敎化之至らさる所にして又身之不德を耻るに足れり前後機密にわたりし事は皆略しぬ他日を待て書すへし
     京を發するとき
 濁してはまたすむへきと思はねと
  すましてやみむこゝろつくしに
     宮市にて
 わさにふく風たになくは長門なる
  あらきうみにもたつなみはなし
     播磨加古菅公の社に詣てゝ
 まこととも思さは神のまもりたまへ
  わたくしならぬ旅にさりける
 旅のうさにもの思ふころはふるさとも
  月に思ひををこしてやみむ
     感慨
 ふくかせにおほふち山のくもはれて
秋元志朝國事盡力始末   去年にかわらぬ月を見しかな
元治元年甲子夏五月書于京師柳馬場旅邸宅不出門外之書
德川氏專橫之日執筆セシモノナレハ嫌忌ニ觸レシ事ハ悉ク之ヲ除ケリ過日ノ履歴概略ト合セ視ルニ非スンハ事盡サヽルモノ多シ是書外丸弘藩ヲ出ルトキ持去レリ今茲明治四年四月郡山ヨリ戻レリ本書ノ儘增刷セス之ヲ書ス當時ノ事ヲ概見スヘシ未ノ五月十二日源朝臣繁實誌
   秋元志朝國事盡力始末
文久三年癸亥八月京師變起る朝廷將軍を召す時に志朝は德山毛利の出なれは傍觀すへきにあらすとて扈從を請願して上京す時に十二月七日なり是時幕府には長州を伐んとするの議起る之により志朝重臣岡谷鈕吾に命して曰く此度の事は譜代家にては如何ともすへき樣なし幕府の意に應せんとすれは朝廷の思召に叶はす朝廷の思召に應せんとすれは幕府の意に叶はす進退之谷と申すものなり此上は臣子の義を盡し公武の間を周旋し其上にて家の滅亡に及ひなは是非なきことなり今汝に委任するの間余に代はり周旋すへしと鈕吾爰に於て討長の不可なることを密議せり時に元治元年二月三日なり同十日朝廷より長州隣國の諸侯十一藩に御封書を以し長州糺問の筋有之承伏之無節は可征伐に付討手可申付候間可致用意との内命出つ(阿州因州薩州備前肥後芸州雲州小倉福山龍野等の藩)
十一日幕府より又十一藩に同樣の達あり此事傳播し人心恟々たり
十三日夜朝議非征に決す其次第を聞くに十三日夕刻朝廷にて俄に二條殿下を始め宰臣の人々を不時に召し御評議の節何れも御征伐より外有之間敷と言はる時に島津大隅守曰く諸君外
に御策之なく候はゝ某に於て一策あり其故は他にあらす秋元但馬守は毛利長門守の兄なり深く此事を憂ひ其家臣等必死周旋致し居候間一と先つ之に御委任ありて其上の御所置にては如何之あるへくやと言はれけれは近衞内府公某も聞及ひたり至極大隅守に同意なりと言はれけれは正親町三條大納言實愛卿其事は自分素より言上致度存居りし所なり但馬守老臣岡谷鈕吾事申聞候には藩士に廿餘人死を以て周旋致し度旨申出し者有之其意今日一人死し以て猶行屆かすは明日又一人死し明日聽かすは又其明日と廿餘人悉く死し以て周旋致しなは萬一事調ふも計り難し其上にて事調はすは然る後征討の勅を出され候ても遲からさることなりと申出てなりと演説せられけれは何れも但馬守に御委任にて然るへしとの事なり時に恭くも垂簾の中に出御なり此度の事はとても無ヶ敷と思ひし所能き都合もあるものなり渡りに船を得しとは此事なりと叡言ありて遂に志朝に御委任の事に決したり此夜一橋中納言殿は風邪にて參内之なく松平肥後守は病氣引込中なれは出頭せす是より十餘藩館林藩を盟主の如く致し日夜諸藩の周旋人陸續として來り議するに至る是時薩土因備等の大藩あれとも夫には命なくて小藩に命ありしは是全く志朝か骨肉と云を以て周旋し且其家臣廿餘人決死と言ふとの貫徹せしを以てなり
十四日將軍御參内是日宰臣の人々より非征の事を議せらる
十五日志朝に賜はる所の勅書出つ既に賜はらんとありし時尹宮一昨夜一橋中納言不參なれは大樹後見の事にてはあり一應勅書の次第申聞け其上下し賜はる方然るへしと仰ありけれは二條殿下にも如何にもとも御事にて一橋へ仰聞けられけれは一橋大に驚愕し一體國守大名は漸もすれは幕府を蔑視し政令
行はれす既に長州の如きに至れり然るに今朝廷の御扱を以て其事平穩と相成りなは幕威地に墜ち彌國亂の基と相成るへく是非問罪の師を向け伏罪致させ申さす候はんては向後九州を始め諸國主の示しに相成らすと言はる宮も殿下も段々御討論ありけれは一橋にも征伐と曰ふ丈けは宮殿下の非征説に從はれけれとも朝廷にて御扱と曰ふことは一向に承説なく但馬守方は幕府より如何樣にも申達すへし是非此勅書の義は中納言へ御任せ下され度旨立て言上せられし故殿下にも止むことを得させられす一橋へ勅書御渡しに相成りたり朝廷にては幕府と長州との確執なれは幕府にて取扱はん限りは決して長州にて承諾すへき譯なし是非朝廷にて御扱あるへしと言はる又一橋にては一體國守大藩は漸もすれは幕府を蔑視す此事朝廷に御任せ申なは益幕威は地に墜ち申すへし左すれは朝廷の御威光も地に墜ると申すものなり是非幕府にて取扱はんと言ふ朝廷と幕府との間大に御議論なり斯りけれは幕府にて秋元但馬守は長州より説得せられ長州の意を密奏し征伐の勅を挽回せしならんとの疑心暗鬼を生し種々の嫌忌を爲せり是日より廿日迄は朝廷にては朝廷にて御扱と仰出され幕府にては幕府に御任せ下され度と數度の御押合ありしか幕府更に命を奉せす
中山忠能卿日記曰
秋元但馬守長州息長門守實兄實父モ長州ニ存命旁方今之長州不可捨置家臣之内岡屋忠吾同志廿人計有之依朝命下向惡キ儀ハ悔悟候樣周旋致雙方無異致度願事公武粗同心但一橋幕命ニテ可下向申立殿下同心尹宮已下朝命之方庶幾本人尤朝命之申立居候
廿一日近衞内府公より岡谷鈕吾を召し一橋中納言事此度の義
は是非幕府にて取扱申へく但馬守方は幕府より相達の申すへくとの事強て言上なり左すれは但馬守方へ何にとか沙汰あるへきも知れす何樣の沙汰ありとも天下の爲めなれは決して其命を奉すヘからすとの御内達あり同日正親町三條殿よりも同樣の御内達なり
廿二日一橋殿より岡谷鈕吾を呼出し側用人平岡圓四郞を以て口達今度の事朝廷にて御扱あるとの事なれとも夫は相成らさる事夫れか爲め政體御委任に成り居る事なり但馬守殿には天朝幕府の御爲め且つ骨肉の間と言ふを以て周旋あらるゝこと尤の事なり御譜代家にては幕府の命を奉せらるゝことは素より論なきことなり之に依て今度の事に付中納言殿より仰出さるゝことあり奉命致さるゝや又は致されさるや仰出されありてより奉命せられさる譯にては御不都合の事出來申すへし如何之あるやとの尋なり鈕吾御沙汰とあらんには御受仕るへしと答ふ依て改めて明日の呼出となる
廿三日鈕吾同寮太陽寺友之丞同道にて一橋殿へ出頭す側用人黑川嘉兵衞先つ平岡同樣の事を口達し後家老戸田能登守酒井伯耆守を以て口達今度の事朝廷より如何樣の御沙汰ありとも幕府に於ては御征伐と曰ふに決定せり是は如何樣の事ありとも變革せらるゝことなし然るに但馬守殿には骨肉の廉を以て干戈を動かさゝる樣に周旋あらるゝと左もあるへきことなり其周旋にて干戈を動かさゝるに至らは實に天下の大功と曰ふへし然れとも幕府よりは周旋は仰付られす周旋中如何樣の謙忌出來候とも中納言殿に於て御疑惑之なく依て兼てより筑前黑田家にて周旋致し居る間是も相談せらるへしとのみとなり是より筑前と脇議せり筑前藩にては黑田山城浦上信濃野村東
馬等なり是日三條大橋に幕府の罪状を條擧せし張札あり其中に秋元但馬守を長州に遣はさるゝの勅を橫奪せし條ありいとゝ嫌忌ある中に又一層の嫌忌を增したり
廿七日朝廷より長州別家及家老を召す是より先此議起りし時薩州にては闕下に召し御説諭あらは悔悟の道は早かるへけれとも上京の上暴動の有無は御請合相成り兼ぬると建言會津は決して入京然るへからすとの建言舘林及筑前因州對州等の諸藩には是非入京との建言其論一決せす細川良之助澄之助兄弟其中を參酌せし建言二月二十二日建言に從はせられ浪華迄召さるることに定まりたり
三月六日勅使浪華迄下向長人を召し御尋問と曰ふに一決し偖勅使はとありしに正親町三條殿に内旨あり實愛卿鈕吾を召し浪華迄勅使にて下向の節は隨行すへき旨御内達あり右の事の長州へ達するや長州より勅使を勞させ奉るは臣たるの道にあらされは是非入京の上御尋問を蒙り度との請願なり
七日近衞前殿下同内府公より志朝へ親書にて使者を差立つへき由なり内府公鈕吾を召し勅意を段々仰含めらる御尋問の次第は幕府の使を斬りし事薩摩の船を打沈めし事大和行幸御親征の事堺町御門引拂の事七卿誘引の事右の五ヶ條なり
是に於て黑田家と相議し右五ヶ條の内恐入りたるとの箇條ありし時は如何程の御罰仰出さるへきや兼て心得罷在度と一橋殿を向け伺出けれは幕府にても差圖相成り難し何れ伺の上との御挨拶なり頓て幕府より朝廷に伺に成りけれは悔悟の次第により仰出さるへくに付預め御沙汰には及はれ難きとの御答なり其旨幕府より又二藩へ内達なり幕府に伺しは反て不都合にてありしを以て今度は直ちに鈕吾事内府公に出て悔悟致し
恐入りたるとの義に相成り候はゝ如何程の御罰に仰出さるへくや相伺度社稷に疵の付候樣にてはとても折合は相付申さす御内々叡慮御伺下され度旨請願しけれは内府公には實に尤の事なりと仰せありて直ちに御參内にて御伺に相成りけれは逼塞位との恩召にて削封抔は思召あらせられさる由の叡慮なれは其旨相心得へきとの御内達なり
十四日一橋殿より口達書を渡さる周旋之間浮説流言有之候とも中納言殿には毛頭疑念無之候間皇國之御爲官武之御威光相立候樣十分周旋被致度との事なり
十五日長州への使節を岡谷鈕吾に命す是時朝廷より使節復命迄は長州之義は何事も御所置御見合はせ置かるゝとの御内達あり
二十日本使岡谷鈕吾副使普賢寺武平外九名弘京帥を發す
四月七日宮市に到る長州側用人大和國之介使番山田重作國重德二郞出向ひ應接前五ヶ條の事に及へり幕府の使を斬りし事薩州の船を打沈めし事大和行幸御親征の事右三ヶ條に陳謝する所條理明白なり外二ヶ條堺町御門引拂の事七卿誘引の事は陳謝ありしかとも論辨(ママ)數回の後結局恐入りたるとのことなり大和曰く是上は闕下に召して御尋問下され其上條理の立ちたる御沙汰に候はゝ防長兩國を召上られ候とも謹んて承服仕るへし假令朝廷幕府の御事たりとも無理なる御沙汰にては防長兩國の士民鎭撫致し難き旨を陳述あり此上は但馬守樣に相願入京の所御歎願下され度との事なり
九日長門守殿小郡迄出向はれ爰に於て但馬守使命を陳述す結局但馬守樣へ何分宜敷願ふとの事にて委細は大和より申述へし通りとの事なり
十一日德山に到り淡路守殿に面接し使命を述ふ淡路守殿より囑托數件あり
十二日德山を發し廿四日京着復命す此時廟議一變し又々幕府へ御委任となり前殿下及内府公を始め慨然して居られし所なり島津大隅守は大に不平を抱き國事參預の職を辭し既に歸國せり京師出發前の形勢とは雲泥天地の違にて何とも嘆息の外之なし因りて屡一橋殿へ建言すと雖も幕府へ御委任となりし上の事なれは少しも採用なし終に平川黑川等迄不在を稱して面會を謝絶するに至る會津に至れは野村左兵衞等遁辭百端實に切齒に堪へさる事なり是時に至りては有志の諸藩悉く歎息して皆手を引き周旋する藩とては一藩も之なし獨り舘林藩のみなり
中山大納言忠能卿日記曰ク
四月廿一日董來書御揃愈御安全奉賀候抑先日一橋言上箇條書以付札昨日各御返答有之候由手ニ入レ候ハヽ内々可入御覽候其内百事大樹へ御委任ト申ス事有之由一昨年來少々復古朝威立掛ケ昨年ニ至リ追々御都合ノ處今日之體皆々水泡歎息仰天仕候
一陽明父子昨日國事御理出候尹宮モ同樣ト殿下咄候由
一一昨日ヨリトカ一橋守衞人數八百人晝夜九門内外廻候由正義之者自然憤發候ハヽ取押ノ爲メト申事ニ候
廿二日朝彦昨日國事御扶持理寫到來了
廿四日右府も國事理被申上候由
廿五日タ方再書忠熈公國事再理廿五日付寫
廿九日國事御用近衞前殿被聽食中川宮内府被召上於右府山階宮不上表云々於右府ハ上表ノ旨有咄由若殿下抑留歟云々
右忠能卿の日記にても當時有志の方々殘らす身を引かるゝことを見るに足れり宮大臣すら尚斯の如し之に加ふるに國事參預は瓦解し諸藩は皆手を引き獨り舘林藩のみ殘りたりき
六月十三日岡谷鈕吾一橋殿へ出是迄建言の次第御採用相成らさる上は最早致し方無之但馬守周旋も是迄にて候此上は明日にも事變計り難く候に付此段御斷はり申上く事と述へけれは變事出來候とも苦しからすとの御返答なり夫より直ちに河原町長州邸に往き留守居乃美織江に面會し一橋殿の御答を申述へ但馬守周旋も是迄なり是非に及はさることなり是上は兎も角も貴藩の思召次第なりと申けれは乃美曰く委細國元に申遣はすへし段々御厚志謝するに辭なし諸藩は殘らす手を引き獨り舘林公のみ御依賴仕り居りしか事行はれす御斷はりと申す上は最早致し方之なく此上は早や當邸にて切り死にと覺悟を究め候と言ふ互に切齒扼腕して別れたり
十四日岡谷鈕吾京師を發し歸國す是日會津人鈕吾を捕縛せんとて旅宿を襲ふ出立後故及はすして去れり
七月十九日長州人京師にて暴動す果して言上せし通りなり是に於て幕府にては秋元但馬守は長州へ通謀せしとの疑惑を起し遂に老中より太田道醇を以て旨を論とし但馬守若し自ら退隱を願はすんは上より仰出さるゝとのことなり之に依り十月廿七日を以て致仕せり是より藩政に尤も關する事を得す濱町の邸に幽居せり之より先十月十二日を以て岡谷鈕吾事は格祿を褫奪し之を其親戚に拘囚せり
明治元年三月廿九日御達志朝隱居罷在候處自今國政に鬪係致し父子一和主從戮力王事に謹
勞可致旨を命せらる七月上京廿九日山陵副官に任せらる二年
秋元禮朝履歴 七月廿一日山陵副官を免せられ其勞を慰せられ狩衣地一卷を賜ふ之より先河内國の分領に之ある雄略天皇の山陵を修補し役夫二千人石垣高六尺長百六十間を獻す竣功の後修繕の功を賞せられ子息禮朝に狩衣地を賜はり事に關する家臣に白銀四十五枚を賜ふ
志朝の國事に周旋するや幕府之を嫌忌し其建言する所行はれさるのみならす遂に押込隱居の身となる是よりは如何ともすること能はす幕府にして志朝の言を用ひは京師の暴動はなかるへきに惜むへき事なりき
   秋元禮朝履歴
戊辰三月東山道鎭撫總督ノ東下セラルヽヤ禮朝軍資金二萬兩四斤砲二門ヲ獻ス
四月三日兵ヲ野總ノ間ニ出シ結城ヲ援ク十七日賊ト武井村ニ戰テ利アラス隊長石川規四郞之ニ死ス
閨四月四日謹王實功相顯ハレ叡感不斜被思召菊章ノ御旗ヲ賜フ
九日東山道總督本營ヲ舘林城ニ置カレ祭魂ノ金幣ヲ賜フ又大總督ヨリ感状ヲ賜フ
德川慶喜及降伏候處殘賊猶禍心ヲ逞シ所々屯集官軍ニ相抗シ候折柄野州總州結城邊ニ於テ遂勇戰候段達叡聞御滿足ニ被思食候猶此上抽精忠鞠躬盡力速ニ賊徒平定ノ功ヲ奏シ可奉安宸襟旨被仰出候此段戰士ニ相達スヘキ旨御沙汰候事
五月宇都宮へ兵二隊ヲ出シ芦野へ進軍ス爾後追々數隊ノ兵ヲ繰出シ重臣齋田源藏ヲシテ之ヲ督セシメ白河三春本宮須賀川二本松ノ間ニ轉戰シ皆其功ヲ奏ス
八月廿一日黑羽藩ト兵ヲ合シ三斗小屋ヨリ進軍シ大嶺中嶺ノ
絶險ヲ越へ賊ノ險ニ據リ拒守スル者ヲ擊テ之ヲ走ラス
九月九日會津城下新町口ニ至リ諸軍ト之ヲ合攻ス
廿四日城陷ル此時兵九隊大砲四門
 右ハ會津口
八月八日重臣太陽寺内藏介ニ兵九隊大砲二門ヲ付シ岩城平口ニ進軍セシム
廿二日駒ヶ峯ヲ守衞ス朝廷菊章ノ大隊旗ヲ賜フ
九月十日旗卷嶺ノ賊ヲ擊テ之ヲ破ル小隊長青木三右衞門已下戰死スル者數人尋仙臺降伏
 右仙臺口
此役ヤ會津仙臺ノ兩道ニ出タス所ノ藩兵一干餘人戰死スル者三十九人亂平ク明治二年六月二日軍功ヲ賞サレ賞典祿壹萬石ヲ賜フ
 本高  六萬石   賞典高 壹萬石
 込高  五萬八千石 合計十二萬八千石
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