日本史探偵団文庫
真木和泉義挙三策
入力者 梅原義明
 

底本は、眞木保臣先生顯彰會 編『真木和泉守遺文』大正二年 伯爵有馬家修史所 発行である。
  
義擧三策


勸諸侯擧事得失

今事を擧ぐるには、九千の兵なくんば有るべからず。少くしても必ず三千は無くては不叶也。然れは大諸侯にあらざれば擧ぐることを得ず。大諸侯にて九千の兵を出すならば、事の成は勿論、其時の勢甚熾にて、天下の諸侯これに應する者速ならん。又天下士民事の必ず成を賴みて人氣勃起し、假令一方に非義の義を守り籠城する者ありとも、天下これに興せず。其領國の士民より起りて倒戈するに至るべし。是れ諸侯を勸めて擧げしむること方今の妙策なり。然りといえども、今日の諸侯と云ふもの、誰是と云ふ差別もなく、其家を重んじ、其事の成否を深く勘へ過ぐして、決斷するものなく、且老臣等兎角鄭重の説のみ多くして、日又一日と推しやり、機を失ふこと甚し。機を失ふも今日までは宜しけれども、明年中も過ぐしたらば、大變起りて手の下し所なくなり、九千の兵は九萬ありても成すべからざるに至るべし。是れ諸侯を頼むに足らざるの憂なり。其事成りて後に覇を計る憂は、過慮と謂ふべし。元龜天正の天下とは大に異なることあり。事長ければ此に不論。

假諸侯兵擧事得失

假りたる兵一千人を以て華城を取り、固く保ちて  行在と
するを待つべし。是には必ず義徒の内にて謀主ともなるべき人物一人、差繼ぎて勇にして斷決ある者一人、都て二人付副ひて可なり。而して京にて  鑾輿を抜き取り、條城を乗つ取り、諸有司を撃ち、彦城を焼くことは、義徒これを任ずべし。然れば義徒も一千は無くして不叶。尤千の内五百人義士にて、五百人は農民或は力士盗賊の類にても可なり。然れども是等の人を募るに機見はれ易きの憂あり。熟考すべし。扨其兵を假るには華地・兵庫等を衞る兵ある上に、因・土・長等元來尊  王の國にて、近くもあれば、天幸とも謂ふべけれども、因は彼の庶流にて、遊説に術なくては不叶、土は其主東にありて、説を納るヽに不便なり。往復いかヾなり。長は最上の尊  王國といえども、即今國是未だ定まらざれば、第一最初の擧をなすは如何あらん。二の見を他國に讓らぬは、愚亦これを保つ。勢は近來頻に幕の惡みを受く。勢も亦これを恨むべし。これもし奮發せば、是に京の事を任じて、義徒華城に掛りて可なり。個様に事を換ふるに至れば甚妙なり。何者、華は海邊なれば、海賊を作りて、梭船數十艘一同に上陸し、河内邊にて少々にても農民等を俄に募りて裏より起るに最便なり。尤勢に京の事を任せしむるにも、義徒随一の者百人内外は其中にあるべきことなり。嗚呼勢もしこれに任ずる力あらば、天幸云ふばかりなし。只恨むらくは國是如何ん。右數國に説くこと熟考すべし。

義徒擧事得失

義徒のみにて事を擧ぐるならば、前二策とは大段大に異なる
 
べし。何者、義徒のみならば、皆義勇とは云へども、資糧もなく、器械もなく、其勢誰が見ても孤弱なるべし。然らば諸侯の擧ぐるよりも五倍も十倍も人數多く、同志の賴む心熾にして、自然と外に張出す氣焔も熾にあるべき事なれど、義勇のみの人さばかり多く募ることも出來がたければ、十分にて五六百人なるべし。五六百人にては、京中の事僅に成し得るばかりにて、とても華城に手をつくることなし難し。然らば此擧は智計を専にして、或は聲援を假り、或は疑兵を張り、戰争を不用して彼を壓倒し、彼を迷眩し、彼を逃亡せしむる様のことを謀るべし。然らば先づ義徒を二手に分ち、一手は速に奉護直に叡岳に  幸し、一手は條城に火を掛けて失火と號し、且是を蹂躪し、若州が救火に出づるを討取り、差次ぎ京中役所らしきものを始とし、所々に火を掛けて、何とも譯のわからぬ様に狂ひ廻り、然る後に叡山に集まり議を決して、右の一手にて二品親王と中將卿とを擁し、又京に入り、角士を始め種々の人を募り、淀城を屠り、器械を取り、男山に楯籠り、中將卿を大將としてこれらを守らしめ、右男山の人數を又二手に分ち、一手にて二品親王を擁し、沿道人を募り、金剛山に楯籠り、折々大和河内に横行し、資糧を積蓄へ、叡岳の援應をなし、都下の地に東兵は一人も入り得ぬ様にし、機を見透して華城を乗取り、  蹕を此に移すべし。其内には最初叡岳に幸したる時、直に廻したる  詔書并檄文天下に敷きて、諸侯の兵も義徒も追々に集まるべし。扨京に事を擧ぐる已前、義徒より二三人  詔を齎らして東行し、水國に告げて期を刻し、五百の兵を一同に擧げて江東に打入り、八方に火を放ち、速に打破り、東主と女宮とを抜き出し、水
城中に移し、嚴に是を護し、江東の地は黑土となし、奸吏を盡く殺し、彌々其地にて人を募り、或は獄を破りてこれを用ひ、火消の者等亡賴の徒を都て三隊となし、一隊は速に富津の嶮を扼し、一隊は橫濱にて夷人を撃ち、舘を焼き、船は全くして乗取るべし。一隊は東禪寺を始め府内に居る夷人を盡く斬り、又奸吏の舘を焼くべし。扨數日の後に事稍定まりたらんに、  東巡の命下りて、  車駕已に華を發する比、東主御迎とて、山道より上洛と號して猶駕を發せず。函嶺に  蹕を駐むる時に至りて、乃ち甲州を歴て函嶺に赴き、罪を謝すべし。此已後のことは神速録に述ぶ。
右三策、これを上中下策と稱す。下策は勿論危くして用ふべからずといえども、人材と時機の宜を得ば、笠置行幸に比しなば遙に上策なるべし。中策に出づる時は、十に八九は成就すべし。上策に出づる時は、萬が萬まで成就疑ひなし。然れば義士憤激の膓をおさへて、百万手を盡くし、大國にて義を尚ぶ君に説き、事を擧げしむるに若くはなし。扨愚久しく思ひ惑ふことあり。請ふ此に述べん。諸君是を聞き玉はヾ幸甚。夫れ國の大段、封建と郡縣との別あり。漢土を引きて云はんに、三代已前は封建なれば、兵を擧げて無道を討つ者、いつにても諸侯の國なり。未だ烏合の衆にて事を擧ぐる者を不聞。湯・武・齊・桓・晋・文是なり。秦より後は郡縣なり。兵を以て亂を撥するもの皆烏合を集むる匹夫なり。漢高祖・明太祖其尤なるもの也。亦未だ諸侯らしきものにて天下を取りたるものなし。是を以て見れば、封建の世にて烏合の衆にて事を擧ぐるは、其轍もなければ、必ず出來ぬ事なるべし。承久は烏合にて破れ、隠岐・佐渡の狩あり。元弘は笠置に破れ、
 
隠州の狩あり。其後隠州より抜け出で玉ひし時は、第一に楠氏義を倡へ、名和氏鑾輿を迎へ、新田氏菊池氏等東西遙に應じ、一時に奮起せり。此時には一人の烏合なく、皆列國諸侯なり。是烏合憤激にては敗れ、諸侯勤王にては成る明徴なり。即今  至尊の聖徳古來比類すべきなく、覇吏暴惡、夷狄猖獗の時にて、天運時勢人心の盛衰向背、前時とは餘程の相違も有ることなれば、一概には不可論といえども、未だ區々の名分ありて、無智の老臣數人にて  天朝をも諸侯をも思ふ儘に扱ひ、又數代の黠計にて、形勝の地は皆其守兵あり。大抵の事にては、いつも其規模の下に出で、彼の思慮の外に超出すること難し。然れば十分に思慮を熟し、時機を見通し、智略を運らし、形勝に據りて、都て彼等が思慮の表に三四層も超逸し、彼等が膽を破るに非ざれば、業を成すこと出來ぬと思ふなり。故に愚が策を畫するにも、務めて英發にして敏捷を貴び、形勝を取るを第一とす。又只諸侯を勸めて事を擧げしむるを以て上策とす。諸君其蒙蔽を啓き玉はん事を至懇す。
 文久紀元十二月十二日  油浦老漁


 眞木保臣先生顯彰會 編『真木和泉守遺文』
    伯爵有馬家修史所 大正二年 一九二~一九七頁
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