日本史探偵団文庫
薩長同盟関係史料
入力者 大山格
 

底本は、それぞれの史料の末尾に示した。
 
木戸孝允の
坂本龍馬宛書状
木戸孝允書状〈表〉


  奉呈乱筆候ニ付、得と
  御熟覧御推了不足之
  処ハ御了簡奉願上候。
拝啓先以
御清適大賀此事ニ
奉存候。此度ハ無問また
御分挟仕候都合ニ相成、心事
半を不尽遺憾不少
奉存候。乍然終ニ行違と
相成、拝顔も当分不得仕
事歟と懸念仕居候処、
御上京ニ付候而ハ折角之
旨趣も小、西両氏等へも得と
通徹、且両氏どもよりも将
来見込之辺も御同座ニ而、
い曲了承仕無此上上ハ
皇国天下蒼生之為め、
下ハ主家之為ニおゐても感
悦之至ニ御座候。他日、自然も
皇国之事開運之場合
ニも立至り、勤
王之大義も天下ニ相伸び
皇威更張之端も相立候
節ニ至り候ハヾ、大兄と御同
様此事ハ減せぬ様後来
之為にも明白分明ニ称述
仕置申度、乍然今日之処
ニ而ハ、決而少年不羈之徒
へ洩らし候ハ、終ニ大事ニも
関係仕候事ニ付、必心ハ相用
ひ居申候間、御安心ハ可被
遺候。弟も二氏談話之
事も呑込居候へ共、前申上
候通必竟ハ
皇国之興復ニも相係り
候大事件ニ付、試ニ左ニ件々
相認申候間、事其場ニ至り
候時ハ現場
皇国之大事件ニ直ニ相
係り、事そこに不及して
平穏に相済候とも将来之
為にハ相残し置度儀に付、
自然も相違之廉御座候ハヾ
御添削被成下候而、幸便ニ
御送り返し被成遺候様偏ニ
奉願上候。
一、戦と相成候時ハ、直様二千
余之兵を急速差登し
只今在京之兵と合し、
 
浪華へも千程ハ差置
京坂両処を相固め候事。
一、戦自然も我勝利と相成
候気鋒有之候とき、其節
朝廷へ申上屹度尽力之
次第有之候との事。
一、万一戦負色ニ有之
候とも、一年ヤ半年ニ決
而潰滅致し候と申事ハ
無之事ニ付、其間ニは
必尽力之次第屹度有之
候との事。
一、是なりにて幕兵東帰
せしときハ、屹度
朝廷へ申上直様冤罪
ハ自
朝廷御免ニ相成候都合ニ
屹度尽力との事。
一、兵士をも上国之上、橋会
桑等も如只今次第ニ而、勿体
なくも
朝廷を擁し奉り正義
を抗ミ周旋尽力之道
を相遮り候ときハ、終に
及決戦候外無之との事。
一、冤罪も御免之上ハ双方
誠心を以相合し、
皇国之御為に砕身尽力
仕候事ハ不及申、いづれ之
道にしても今日より双方
皇国之御為
皇威相暉き御回復ニ
立至り候を目途ニ誠心
を尽し、屹度尽力可仕
との事。
弟におゐてハ右之六廉之
大事件と奉存候。為念前
申上候様、戦不戦とも後来
之事ニ相係り候。
皇国之大事件ニ付、御同様
ニ承知仕候而相違之儀有之
候而ハ、終にかゝる苦身尽力
も水の泡と相成、後来之青史
ニも難被載事ニ付、人ニは必
しらせずとも御同様ニハ能く
々々覚置度事と奉存、
御分袂後も得と愚按
仕、毛頭無御隔意処を
以、内々大兄まで為念
申上候儀ニ付、右六廉得
と御熟覧被成下、自然
も弟之承知仕候儀相違之
 
儀も有之候ハヾ、必々
御存分ニ御直し被成遺
候而、此書状之裏へ乍
失敬御返書御認め
被下候而、幸便ニ屹度無
御相違御投じ被成遣
候様偏ニ々々奉願上候。
実ニ此余之処ハ機会を
不失が第一ニ而、いか様之明策
良計ニ而も機会を失し
候而ハ、万之ものが一ツほども
役ニ相立ち不申事ニより
候而ハ、却而後害と相成候事
も不少、兎角いつでも
正義家ハ機会を失し
候等の事ハ、其例し不少
終ニ姦物之術中ニ陥り
候事始終ニ御座候間、
御疎も無之事ニ御座候へ共、
此処ハ精々御注目被為
成候而、御論述
皇国之大機必無御失脚
御回復之御基本相立候処奉祈
処ニ御座候。○乙丑丸一条
小事ニハ御座候へ共、い曲
御承知之如く一身ニ
取り候而ハ困苦千万ニ而、
且海軍興廃ニハ屹度
相係り候事ニ付、何も逐一
御存之訳ニ付、兼而存じ
通ニ相運び弊国之海軍
も相興り候様無此上呉々
も奉願候。何分にも小松大夫
呑込呉不申候而ハ、実以
困迫此事ニ御座候。随而
海軍ハ廃滅ニ至り可申
と懸念仕候。先ハ前
条之次第愚按迂考
仕、兎ニ角一応可申上と
奉存相認候儀ニ付、前条
い曲申上候通之次第ニ付、得
と御熟覧を賜り必々
御裏書ニ而御返書
偏ニ奉願上候。其中
必々時下御厭第一ニ奉存上
候。乍失敬御序之節
小、西吉氏等其外諸彦
へ可然御致意奉願候、
い曲御礼書ハ帰国之上
出し可申と奉存候。為其
       匆々頓首拝
 
 正月念三
尚々、本文之処ハ
呉々も得と御熟覧
を賜り、万一も承知
仕違へ候処ハ御直シ
被成遺候而、必々幸便
御裏書御答偏
奉願上候。此余之
処ハ只々機会之
処而已掛念至極
ニ御座候。大事ハ
元より小事ニ而も必
成敗ハ多く機会之
失不失ニ有之申候。
此辺之儀ハ呉々も
御助力
皇国之御為奉祈
念候。○前田恭斎
子へ薬礼之事
御願仕奉恐入候。
且恭斎子より詩作
も送られ候ニ付、其
返答も可仕と奉存居
如御承知出立前
大混雑ニ而、且々出立
仕候位之次第ニ付、
其儀も其侭打置
候間、甚以不情不信
之処赧顔之仕合ニ
御座候、御逢も有之
候ハヾ此辺之処宜敷
御断り被成遺候而、彼
薬礼之処も何にても
よろしく、つまり品物
ニ而も可然奉願上候。
失礼之段奉恐入候。
無此上
皇国之事ハ不及
申上、乍恐私事も
種々御願申奉恐惶候。
挙而何もよろしく
奉願候。只々
御面会之折を
奉待候。其中
御答ハ幸便ニ奉願上候。
為其閣筆頓首
龍大兄     松菊生
  極密御独拆


明治神宮宝物殿 編 『明治天皇と維新の群像』平成二十年
                     六二~六五頁
 
坂本龍馬の裏書き 木戸孝允書状〈裏面朱書〉


表に御記被成候
六条ハ、小、西両氏及
老兄、龍等も御同
席ニて談論セシ
所ニて、毛も相違
無之候。後来と
いへども決して
変り候事之無
ハ、神明の知る
所ニ御座候
  丙寅
   二月五日 坂本龍


明治神宮宝物殿 編 『明治天皇と維新の群像』平成二十年
                        二一頁
薩長同盟実歴談
(土方久元による講演)
薩長同盟實歴談
(坂本中岡兩氏五十年祭典に際して回顧)
                   伯爵 土方久元

 今夕は坂本中岡兩君の祭典につきましてこの所に講演會を開き諸君と相見ゆることは私にとりまして非常に本懷とする所で御座ります、私にも何かと兩氏に關係あることを御咄しせよとのことで御座りまするから私はこゝに兩氏と共に國事に奔走しましたる大略を述ぶるにあたりましてまづ自分の感想を述べたいと思ひます。
 坂本中岡兩君が慶應三年十一月十五日刺客の兇刄に罹りました時が坂本君が三十三歳、中岡君が僅に三十歳である、其間兩氏は如何たることをしたかといふに、かの薩長連衡の大業といひ海援隊陸援隊の創設といひ、討幕の密盟といひ大政返上の獻替といひ、みな王政維新の基礎となり樞機となるものであつて其功績は歴史の上に炳焉たるものである、一體私は維新の諸豪の中に就て、西鄕隆盛、高杉晋作、ソシテ坂本龍馬君を以て英氣潑剌の三傑と稱したいのであるこの三君の爲す所は實に天授であつて容易に他人の企求すべからざるものがある、中岡君はまた至誠剛直の眞丈夫であつて是も儕輩に一頭地を拔て居つた。それが年齡はどうかといふに今申す通り坂本君が三十三歳、中岡君が三十歳である、如何に是等の諸君は其才に於て天授であつたとは云へ、自然にして其能を發揮したものでない、必ずや刻苦精勵の修養を積だものである所謂玉琢かざれば器を成さずであつて、英雄豪傑と雖も自然に出來るものでないが、其根本となるものは何であるか
 
といへば即ち國家の重きを双肩に擔ふといふの意氣精神である、其他維新の諸豪を見渡した所で、明治元年に西鄕隆盛が四十歳、大久保利通が三拾八歳、木戸孝允が三十四歳、伊藤博文が二拾七歳、品川彌二郞が二十六歳である、私などは稍年長の方であつたけれども夫でも三拾六歳であつた、是等の人々は二十歳から二十四五歳頃には隨分何藩の某と天下に名を知られて一廉の働きをなしたものであるが其根本は全く今申す通り一身を以て國家に許すといふ意氣精神であつたのである。
 然るに今の靑年はどうかといふに、三拾歳になってもまだ獨立の出來ぬものが多い平氣で親の脛を囓て居る、髮は油をつけて蜻蛉の樣に頭ばかり光らし眼には金縁の眼鏡をかけて杖をついて歩いて居る吾輩は八拾五歳になるがまだ杖などついて歩いたことはない、……ホントに見ても胸糞の惡い格好をして居る夫で學問はどうかいふに橫に字を讀むことを知て縱には讀むことを知らない、字をかゝすれば萬年筆か鉛筆ならぱ書くが筆では書けない、ウソ字ばかり書いて滿足に手紙の一本も書けるものが尠ないソシテ平生どういふ事を心掛けて居るかといへば學校を卒業したならば月給幾何かを貰て官員にならうか會杜員にでもならうかと芋掘見た樣に蔓ばかり探して歩いて居る、一も天下国家の為めに身を殺して迄も尽痒しやうといふ抱負といふものがない、偶々少しく気概のあるものは爆裂弾位は抛げるが夫も遠方に隠れて居つて、逃腰を構へてやる、ソンナ事で人を殺せるものではない到頭待合で芸妓と戯れて居る所を捕へられたといふ咄、実に情ない次第である我々は国事に奔走する時分には老人は勿論四拾以上
の人には大事は相談せぬと極めて居つたヤレ家督がどうの、妻子がどうのと因循姑息な事ばかり云て真逆な時に腰をぬかすからまづ大事は謀らなかつたのであるが今一国の元気を代表し、未来に於て国家の柱石とたらなければならない青年が斯く迄に腐敗し萎縮して居るといふことは真に心慨に堪えぬのであるどうか青年が自覚し貰いたい。また国家の教育も単に形式ばかりでなく真に精神ある教育を施して将来国家の為めに有為の材を作て貰いたいのである。
 坂本中岡兩君の事業功蹟は種々の方面に於て夥しい事であつて其一端を御話するとしても中々一朝一夕には盡されぬ事であるが今夕は兩君の事業中の事業たる薩長連衡のことを御咄して見たいと思ふこれには自分も聊か關係する所があつて其時分の事情を知悉して居るからである、慶應元年二月五日のことでありましたが私は筑前の赤間といふ所に三條條公に從て居りますと中岡君と共に京師の事情を探索する樣にとの三條公からの内命を受けて上京することゝなりましたが折柄薩摩の吉井幸輔後に友實といつた人である其吉井が參りましてこれから京都へ赴くとのことでありましたからこれと同行することゝなり黑崎を出帆しまして七日に下關に到著し八日に白石正一郞といふ勤王家の商人の家に投宿しました、すると其處へ長府藩の家老三好内藏助、直目付井上少輔報國隊長の原田順次夫から本藩の竒兵隊長の赤根武人などが尋ねて參り吉井や中岡君と一坐になり國事の話に及びますと『天下の形勢は甚だ危急に迫て居る、この際薩長兩藩の間が是迄の通り反目軋轢して居ては何事も出來るものではないこれはどうしても兩藩の間を和解させ聯合させる樣にせなければならな
 
い』との話が出た幸ひ薩藩の吉井も其處に居るものであるから『如何にも其通である』といふことになり私も『微力ながら共に盡力しやう』と約束をして三好や井上と分れましたが私共三人は十五日に入京し、私は二本松の薩邸に潛伏し諸方に出入し事情を探索して居る内中岡君は一先づ立ち歸て三條公にこの地の有樣を報告することになり三月三日に太宰府に歸著致しましたが再び復た上京することゝなつて五月十五日に入京して參りました夫より少し前のことでありますが江戸の薩摩屋敷から京の薩邸へ急飛脚が參りまして幕府が再度の長州征伐を發令して將軍は不日江戸城を出發せらるゝといふことでした私は愈々薩長連盟の必要を感じましたので中岡君が參りますと早速にこの事を談じますと中岡君も大に同感であるといふので相携へて薩藩の大久保市藏即ち後の利通に面會し『一つ天下の爲めに舊來の惡感を一掃して長藩と手を握てやつて貰いたい』と熱心に説きました所が大久保も尤と聞込むで呉れた樣子であるから、其他在邸の同志共と相談をしまして何は兎もあれ將軍親發といふことを薩摩に居る西鄕吉之助即ち隆盛に告げて京都へ呼寄せなけれぱならない夫に付ては西鄕が上京がけに馬關に立寄り長藩の桂小五郞即ち後の木戸孝允と會見して前途の見込の所をも協議し兩藩同心協力を以て大に盡力する樣にさしたいものである』といふと何れも同意でありましたから然らば中岡君と自分とは共に西へ下り途中から立ち分れて自分は長州に寄つて木戸を馬關まで呼び寄せ中岡君は鹿兒嶋に行て西鄕を東上の途次に馬關まで誘ひこゝで木戸に面會をさするといふ手筈をきめました折柄大坂の川口には薩摩の汽船で胡蝶丸といふのが繫でありました
から夫に乘ることになりましてこの月の廿四日に京都を出發しまして廿五日大坂の薩摩の濱屋敷へ到着しましたが吉井幸輔の父嘉右衞門もこの船で歸ることになりましたから吉井も途中迄父を見送旁送て參りました。
 一行は廿八日に大坂を出帆閏五月二日に豐前の田の浦に到著しましたが、當時薩長の間はまだ軋轢して居りましたから薩摩の船で長州領へ寄港は出來ないよつて自分はこゝから中岡君と分れて上陸し一泊の上翌朝船を雇いまして福岡へ上陸し長府一泊四日に馬關まで參りますと恰もよし坂本君が薩摩からやつて來て滯在中とのことであるから白石正一郞の宅で坂本君及安喜盛衞(黑岩直方)等と面會し、太宰府や薩摩の事情を聞き猶『今度西鄕を迎への爲め中岡君が鹿兒嶋へ赴いた』ことを話しますと坂本君も『夫は好都合である何にせよ桂を此處へ呼び寄せねばならぬ』と共に力を盡すことゝなりましたが長府の直目付の時田庄輔といふものが其處へ出て參りまして桂との間を頻りに往復しまして六日に時田が桂を連れて馬關へ參りました、夫から私は坂本君と共に『既往の小急は國家の大事には換へ難いのであるからこゝは一つ國家の爲めに忍で、今度西鄕が上京がけにこの地に立寄るを幸、互に城壁を撤して腹心を敷て將來兩藩提携して國家の爲めに盡力ありたい』と説きますと長州の方にも段々六ツケ敷事情がありましたが桂も漸の事に承諾をして呉れましたから九日に馬關を出發して十二日に太宰府へ歸著し右の成行を三條公に申上げますと公にも大に喜ばれました。
 扨私が馬關を立ち去りました後の事を聞きますと坂本君は桂と共に西鄕の寄港を待ち合はして居りますと、中々に西鄕
 
が出で來ない、廿一日に中岡君が漁船に乘て茫然とやつて參りました坂本君は喜び迎へまして『西鄕はどうした一緖に來たか』といふと中岡君は大息しまして、『自分は土方と別れてから鹿兒嶋に參り西鄕を説て漸く納得させ十五日に鹿兒嶋を出帆し十八日に佐賀藩まで來たが西鄕はこれからさきはどうしても馬關の方へ來ようといふことを承知しないソシテいふのに幕府が二度目の長州征伐をするといふことは無謀も甚しいこれは無名の師である前の長州征伐の時には我が薩摩も出兵はしたけれども今度は出兵するには當らないそれにつけては關白を始め朝廷の人々がしつかりして居て貰はなけれぱ困る就ては桂と會見も大事であるがこの事がより大事であるから豫め朝議を固めて置かねぱならぬ一刻もじつとしては居られぬ早々京都へ上らねば不可けぬといふから種々に勸めて見たけれども斷乎として動かないからやむを得ず自分は佐賀關へ下して貰い西鄕は京都を指して直航した自分は別に舟を雇うてこゝまで來たのである』との話しであつた坂本君も大に失望したけれども桂へ默て居る譯には行かないから兩君相携へて桂の許に參り其事を告げますと桂は怫然として色を作していふことには『ソレ見給へ僕は最初からコンナ事であらうと思つて居つたが果して薩摩の爲めに一杯喰はされたのであるもうよろしい僕はこれから歸る』と袂を拂うて去らうとするので、兩君は『マア〳〵』と止めて『君の顏の立つ樣にするからこの後のことはまづ我々兩人に任せて貰いたい』百方陳謝しますと桂も『夫ならばこの後薩摩の方からまづ使者を我藩によこして和解のことを申込まれたいさうしない時は我諸隊は必ず反對するで御座らう』との話であつた。
 六月の下旬に坂本君も中岡君も京へ出て西鄕や小松帶刀等に面會して薩摩の方から長州へ使を差立てることについて協議したけれども其處には種々の事情が纏綿して容易に行はれない七月の中旬には中岡君は京都を出發して諸隊遊説の爲めに長州に下り九月下旬には坂本君も長州へやつて來て廣澤藤右衞門(後眞臣)小田村素太郞(後男爵楫取素彦)等と面會して兩藩の間の調停に勉めて居りましたが十一月中旬に至り薩藩黑田了助(後に伯爵淸隆)は西鄕の内意を受け土佐の池藏太(細川左馬之助)と共に馬關に參りまた坂本君もまた其處へやつて來て中岡君と共に長州の桂、高杉(晋作)は勿論、伊藤俊輔(後公爵博文)井上聞多(後侯爵馨)等諸士に和解同盟のことを勸めまた諸隊の問を遊説しましたが爲めに長州人の薩藩に對する疑惑も漸く解くことゝなりましたさうなると黑田のもて方は非常なもので終に山ロヘ行て長州侯にも拜謁し、其際手づから差料を給はれたが此時分に諸侯から刀を貰ふといふことは非常な名譽で今日の勳一等を頂戴した樣なものであつた。
 夫から一日黑田は桂を訪うて『かうして互の心が解けた以上は速急に薩長の聯合を進めて天下を囘復したいと思ふ就ては西鄕は一日も京都を離れられぬ事情があるから甚だ恐縮の至り乍ら貴公に京都に登つて貰ひ西鄕と會合をして貰ひたい』と勸めると桂も早速承知をしてこの年の十二月の廿八日に品川彌次郞、三好軍太郞(後子爵重臣)及び筑前藩の早川渉、土佐の田中顯助(後伯爵、光顯)等を從へまして三田尻を出發して翌二年正月の八日に京都の薩邸に著しましたさて到著して見ると毎日所謂善至り美盡すの饗應ではあるが肝甚
 
の仲裁人が其處に居ないので薩長和解同盟の話は西鄕からも大久保からも出ないまして桂(當時藝藩人木戸準一郞と稱す)の方から出し樣がない甚だ手持無沙汰で桂はもう歸ると云ひ出して居る處へ正月の廿日に坂本君が長州の方から入京して參りまして、西鄕大久保を始め薩藩の重立つものと桂との間を調停しまして眞の所謂薩長同盟といふものはこゝに成立致しました。
 委しく御話申ますならばこの間にも種々の事柄がありますが坂本中岡兩君が薩長連衡の爲めに盡されました大略は右の通りであります。薩長同盟が出來て居つたから長州再征の時にも長州が幕府に勝つた、鳥羽伏見の戰爭にも勝つた討幕の大詔も煥(ママ)發せらるゝことが出來た、王政維新も出來た。單にこの一事を以てしても兩君が國家に盡された功績といふものは歴史の上に赫灼たるものである夫がどうかといへば坂本君が三十一二歳の頃、中岡君が二十七八歳の頃の仕事である今の靑年ならば大學を出たか出ないかの時分である。私は是非共天下の靑年が是等の事蹟に感憤して國家の爲めに有用の人間となつて貰ひたいことを渇望するものであります。
 私は終に臨で兩君の英靈に感謝して演壇を下ります。(拍手喝釆)


 岩崎英重、日本史籍協会編『坂本龍馬關係文書』第二
                  二九九~三一一頁
維新史料編纂局常任委員
中原邦平の講演
坂本中岡兩君と薩長同盟に就て
                      中原邦平

 今日は坂本龍馬中岡愼太郞兩君の五十年の祭典を御執行になつて我々も幸に參拜の光榮を得ました就きましては私に兩君の事蹟に就て話をする樣にといふことでありますが兩君の事蹟は中々澤山ありまして到底短時間にお話は出來ませぬから其の中の最も顯著なるものに付てお話を致します抑々二百六十餘年に渉つた德川幕府を打潰しさうして七百年前の王政に恢復して維新の大業が成つたのは勿論孝明天皇御父子の御稜威と列祖在天の御神靈の冥助に據たことは申迄もございませぬが其の大事業を翼贊した一大勢力といふものは何かと申しますと薩長聯合であらうと考へますさうして三條公岩倉公合體の事も至大の關係を持て居ります此の二大勢力を作成したのは誰の力であるかといふと坂本中岡兩君の力多きに居ると信じますそれで先づ薩長聯合の事に付て兩君の働きをお話して次に三岩兩公の事に及びますが皆さんも御承知の通り長州と薩州とは文久二年以來屢々軋轢を生じ文久三年八月十八日の堺町門の政變以後は其軋轢は極點に達し長州人は薩賊會奸といふことを申して居ります故品川子爵の話にも吾輩は薩賊會奸と言ふ字を左右の下駄に書いて踏み附けて歩行した位であると言はれましただから薩州の方でも會津の方でも長賊長奸位のことは言ふて居たかも知れませぬ斯樣に仲の惡い薩長兩藩を聯合させるといふことは中々困難の事であつたと考へます所が時勢の變遷に連れて薩藩の態度は大に違つて來て最早幕府は佐けられぬ之を佐けるよりも寧ろ幕府を討ち滅ぽ
 
して王政復古を圖る方がよいと云ふ考へで大に幕府に反抗の態度を取りました其機に乘じて坂本中岡の兩君が小松帶刀西鄕吉之助等に説きまして王政復古の大業を成すには迚も一藩の力では六ヶしい今長州は孤立して幕府と對抗して居るが他の援助を得れば頗る利益であらうと思ふ故に長州と聯合して彼を助けてやればあなた方の希望を達することも出來ようと思ふと云ふ主意を話した處が小松西鄕等も如何にも同意であるシカシ長州とは從來の關係もあるから此方から手を下すと云ふことも如何であるどうか貴君等が薩長二藩の間に立て聯合の周旋をして呉れる樣にといふことであつたそれで坂本君が五月十六日鹿兒島を發し廿三日太宰府へ參りました太宰府へ參ったのは三條公等五卿に謁見して三條公等を介して長州へ入説する積りであつたと見えます折しも丁度都合の宜かつたのは長州の小田村素太郞が鹽間鐵藏と變名して長府の時田少輔といふ者と共に五卿の見舞の爲め太宰府へ往つて居りましたそれで坂本君は五卿に謁して其意見を述べた上先づ小田村に遇ふて自分の意思を通じどうか國へ歸られたならば此意味を桂小五郞君などに話して呉れ何れ近日私も馬關に行つて桂君に遇ふて委細を話す積りであるからと賴みました其時桂は馬關に出て居りましたので小田村は歸途桂に面會して坂本の旨趣を話しましたが桂も其時はまだ半信半疑であつて先づ内々高杉晉作村田藏六井上聞多伊藤俊輔抔に話して見るとそれは聯合するが宜い今長州は四境に敵を受ける勢になつて居るから武器も必要である軍艦も必要であるけれども長州の名義で之を買入れることは誠に六ヶしい薩藩と聯合したならば薩の名義で之を買入るれば頗る便宜であると云ふので皆々が
贊成しましたそこで桂は政府へ内々協議したと見えまして其時廣澤兵助から桂に贈つた手紙がありますが其大意は薩摩の西鄕吉之助等が皇國の爲め盡力して共に天下の事を成さうと言ふて我藩の方へ來り求むるならば決して拒みはしないけれども此方より手を下げて賴むといふことは甚だ好まぬ且つ薩州の眞意が果してどうであるか其邊も不明なことであるし旁々是迄の行掛りで薩州から何とか申して來たならば吉川監物公の方から相當の挨拶をなさったらぱ宜からうといふ樣な意味で餘り大贊成ではない其手紙の内に四境相迫るに從ふて畏縮より出でし説ならんかと云ふ一句もあります其時長州人一般の意向といふものは薩摩と聯合することなどは夢にも思つて居りませぬ矢張薩賊會奸で意氣天を衝くの勢でありました故に政府員の廣澤でも餘り贊成でもなかつたらしい其内に慶應元年閏五月朔日に坂本君が安藝守衞(後の黑岩直方)といふ人を連れて馬關へ參りまして先づ長府の時田少輔に會見して豫て太宰府で申した通り桂小五郞君に是非お目に掛りたいどうか紹介の勞を取て呉れといふことでありました其時桂は山口ヘ行て居りましたので使を以て申してやると桂の方では既に小田村からの通告にも接して居るから政府へ申出で直目付の林主税を以て毛利侯にも伺ひますと毛利侯にも早速御許可になつて坂本と善く協議して見るが宜い其協議の都合に依ては筑前の太宰府へも行て五卿の意見を聞く必要も生ずるかも知れぬといふので馬關出張の辭令書中には都合に依ては筑前太宰府へ差越すといふことを書加へてあるそれで桂が閏五月四日山口を發して馬關へ出で坂本に會見して見ると薩州の態度は斯樣々々の事であるから兩藩提擕して事を爲すが宜か
 
らうと申しましたので桂も成程と贊成したけれども何分薩賊會奸といふ一藩の移態であるから公然と發表することは出來ぬ高杉晉作等と内々で坂本と話をして居る内に土方楠左衞門即ち今の土方伯が馬關へ來られた土方がどういふ譯で來られたかといふと土方は此年の二月以來京攝の間に在て上國の形勢を視察して居たのであるが幕府が長州再征の師を起して來る何日かに將軍家が御進發になるといふ報知が來たので薩州の小松西鄕岩下抔は是非此再征の師には反抗しやうといふ考で相踵いで歸國することになつてそれで土方と中岡愼太郞の二人は薩摩の船へ同乘して中岡は直樣薩州へ行き土方は田の浦から彦島の福浦へ上陸して馬關へ來たのでありますさうして薩州の意向は斯ういふ次第であるからどうか事を共にしたら宜からう且つ西鄕も今度京都へ上る時には馬關へ寄港して直に御相談も致す積りであるといふことを傳へましたそれで桂は馬關に滯在して西鄕の來るを待つて居ると暫らくして閏五月廿日に中岡君が參りまして西鄕が上京の途中馬關へ立寄る積りであつたが何分急用で京都へ上るから此度は立寄ることは出來ぬそこで私に其斷はりの爲に行て呉れといふので私は佐賀關から上陸して態々來たのであるどうか惡からず思つて呉れと申した所が諸隊の長官抔はソレ見たか又薩摩の爲に欺されたと非常に怒つたので中岡土方抔も大に困つたといふことであるけれども桂はそれ等の事に構はず高杉村田井上伊藤等と坂本中岡二君に協議して今や幕府は再征の師を起し四境に攻め寄するも近々である之に對抗するには堅艦利器が必要である政府でも既に靑木群平なる者を長崎に遣って武器の購入を交渉させて居るがそれが運ぶかどうか分らぬ薩州と相
提携した以上は薩州の名義で軍艦武器を買入れてもらひたい貴君等が京都へ上られたならばどうか其事を小松西鄕等に話をして急に其諾否を返答して呉れる樣にと賴みますと兩君は宜しい其手筈に及ぶと云ふて六月下旬に京都へ上りました兩人使長の事を説くも未だ行ハれず其後桂は藝州へ使に行かなければならぬといふので藝州行を命ぜられましたが既にして廟議が變じたので途中から山口ヘ歸つて來まして再び馬關に出ることになりましたそれは英國船と應接の爲めであります桂が馬關へ出て來ると武器買入の爲め長崎に出張した靑木群平は幕吏の爲に妨げられて買入れることが出來ぬといふ報知がありましたそこへ土佐の浪士楠本文吉(本名谷晉)といふ人が京都から馬關へ參りまして坂本中岡二君の返答を持て薩州の名義で軍艦武器を買入れることは小松西鄕抔も同意であるといふことを傳へました然らぱ軍艦武器の買入に早速著手するが宜といふので井上伊藤の兩人を長崎へ派遣することになりましたそれは桂が政府に伺はずに獨斷で決したのであります井上は山田新助伊藤は吉村庄藏と變名して慶應元年の七月十六日馬關を發し翌十七日太宰府に著し土方楠左衞門の紹介で薩藩士篠崎彦十郞澁谷彦助に面會して來意を述べ又三條公等五卿に謁見して同樣の事を上申しそれから楠本文吉を同伴して長崎へ行く事になりました此時伊藤井上兩人は御警衞をして居る薩州の人の内一人を同行したいといふ事を交渉しましたが薩州の方では警衞の人數が少數であるから御求めに應ずることが出來ぬといふて斷りましたので楠本一人を同行することになり十九日に太宰府を發して二十一日に長崎へ著しました此間に長州の方に紛議が起りましたといふのは長州
 
の海軍局から不平を言出したからである其譯は海軍局より軍艦を買ひたいといふことは是迄申出たけれども政府では財政が許さぬと言ふて許可しなかつたのに此度井上伊藤が軍艦買入の爲め長崎へ行たのはどういふ次第だと言ふて政府へひどく論じ込んだ一件でありますが此事件は中岡坂本兩君には關係のないことでありますから略します井上伊藤の兩人が長崎へ著すると直樣楠本丈吉の紹介で海援隊の千屋虎之助高松太郞上杉宗次郞新宮馬之助といふ樣な人々に遇ふて斯う〳〵いふ次第で當地へ參りましたと云ふて委細を話すと上杉等はそれは至極結構なことである我々の首領と戴いて居る坂本君が希望して居た薩長聯合の機會が來たと云ふて大に喜びました併し今長州人を町屋に置いては危險であるから先づ此兩人を薩摩の藩邸へ潛伏させるが宜からうといふので丁度小松帶刀が長崎に來て居たから其事を交渉すると快諾して宜しい此方で匿まつて上げやうと言ふて兩人を薩邸へ潛伏させることになりましたそれから海援隊の高松太郞の案内で夜中密に英國の商人「グラバ」の所へ行て軍艦武器を購入するの約束をしました其時井上は上杉等の忠告に從ひ小松と同船(海門丸)で鹿兒島に行きまして要路の人々と懇談して歸りましたが井上が歸て來ますと伊藤は「グラバ」と交渉して小銃の買入を終了して蒸汽船購入の事も略ほ約束が出來ましたそこで其買れた小銃を運搬するにはどうするかといふと薩州の汽船胡蝶丸海門丸などで馬關及三田尻の兩所へ送つて呉れました此時長州が買入の約束をしたユニオン號も來り八月廿六日上杉も伊藤井上同行して馬關へ參りました其事を山口ヘ報告すると毛利侯は上杉を山口へ呼び寄せて拜謁を賜ひ厚く禮を述べら
れてさうして三所物(目貫、笄、小柄)を賜はりました上杉は餘程感激して又再び馬關へ出で桂高杉井上伊藤等と會合して軍艦使用の事を相談しましたがどうも長州の旗章では外に出られぬから薩州の旗章を借用し乘組士官は海援隊の人々を用ゐ費用は長州から出すことにして薩長二藩の氣脈を通ずる機關となし平時は北國九州大坂地方を囘航して貿易を營むことにしやうといふことに極めましたそれで上杉宗次郞は長崎へ往き長崎から九月中旬又鹿兒島へ往きまして島津侯へも拜謁しそれから海軍奉行の本多彌右衞門を同道して再び長崎へ歸つて來ましたそこで愈々「グラバ」と交渉して薩摩の名義で買入れるといふことにいたしました其時(九月廿四日)坂本君は京都の方から馬關へ來られましたそれはどういふ譯かといふと是より先き坂本中岡兩君が上京して小松西鄕等と會見して薩長聯合のことを熟談して居ると其時將軍が進發して一旦京都へ出て長州再征の敕命を朝廷へ奏請したので薩州の方では敕命の出ない樣に妨害運動をしましたが何分朝廷が御微力であるので征長の敕命が降りましたそれで西鄕等は是は迚も口頭ではいけない兵力を以て長州再征の敕諚を撤囘して貰はうといふので急に國へ歸ることになりました所が多數の兵隊を京都へ上ぼすに付ては糧食の供給が十分でなげればならぬからどうか馬關で長州から糧食を供給して貰ひたい其事を長州へ下つて交渉して呉れといふことで坂本君が九月二十四日に京都を發して十月三日に三田尻に著いて居ります其時丁度小田村素太郞が三田尻に居つたので其の事を告げましたから小田村が然らば山口ヘ同道しやうといふて山口ヘ出て政府へ其事を申出ると廣澤兵助松原音三の二人が應接して其要
 
求に應ずることに致しました併し今桂が馬關に居るから貴君もどうか其方へ行て桂と能く話をして呉れる樣にといふことでありましたそこで坂本君は馬關へ出て來て桂と相談して吉田邊の米を馬關へ出してそれを薩摩へ供給することになつて使命は終了しましたが其時上杉宗次郞が鹿兒島からやつて來るといふ報知があつたので之を待つて居られた上杉は長崎から「ユニオン」號に乘て鹿兒島に行き其の船號を櫻島丸と名づけ十一月初めに馬關へ參りました坂本君は上杉と會合して薩長の聯合が大に進んだのを喜び直ちに去つて京都に上り小松西鄕に糧食其他の事を報告に及びました小松西鄕は其の以前即ち十月十七日に長崎を發して上京して居りますそれから上杉宗次郞は伊藤と同行して山口ヘ行き毛利侯に拜謁して軍艦買入に付てはお骨折だといふお言葉を戴いて相當の賜物もあつて馬關へ歸つて來ると櫻島丸の授受に就いて上杉と長州の海軍局との意見が衝突しましたそれは海軍局の方では長州で金を出して買入れた船だから是非長州の專有にしなければならぬといふ論で既に乙丑丸といふ名を附けて船長は中島四郞と定まつた位である所が上杉がそれは約束が違ふ前に述べた如く薩長兩藩の氣脈を通ずる機關として乘組士官は海援隊士を用ゐ旗章は薩藩の旗章を立て費用は長州から出すといふ協定で三者共有の形であるから長州の專有物としては海援隊の者に對しても相濟ぬと言ふて折合ぬそこで桂も困つて自分が長崎へ行つて其解決を附け樣といふことになつたが對幕の形勢が切迫になつて居るから今長崎へ行つては困るといふて政府で許さぬ其所へ(十一月中旬)薩摩の黑田了介が池内藏太と共に西鄕の内意を受け參りましたが坂本君も其前であつ
たか後であつたか殆ど同時に來て居ります黑田の來たのは薩長聯合の約束をしたいから桂に來て呉れといふので桂を呼びに來たのである坂本君は櫻島丸の事に付て上杉と話をして見るとどうも相互の意見が衝突して居るこゝに上杉の案と中島の案とを比較して見ると其相違の點が能く分ります上杉案即ち長州の方では櫻島丸條約と言ふて居りますが其大意は船の旗章は薩州より借用する士官は多賀松太郞其外海援隊士を用ゐ船中の賞罰抔は士官が專斷でやるさうして費用は長州で出すといふのである長州の海軍局では此の案には不服であつて中島四郞より一つの案を立ました長州ではこれを新條約と稱しますが其案に據ると旗は薩州のものを借用するが賞罰其他は艦長に相談して呉れなければならぬ商業の爲めには越荷方の役人一名乘組み其他は大略海軍局の規則に據ることゝして商用閑暇の節は薩州へ貸すも宜しいが其の時の費用は薩州が負擔するといふ樣な案である又上杉は船の代價が未濟であるから長崎へ一應囘航すると云ひ海軍局では大坂に囘航して桂に託して小松西鄕等と交渉せしむると云ひ到底和協がつかぬので政府では山田宇右衞門を馬關へ出張させて調訂をさせました山田の心配で互讓の結果上杉に海軍局の主張即ち中島案を容れさせて其代り船は上杉の主張通り長崎へ一旦廻航させるからといふ事になりましたそこで上杉と中島は其船に乘て長崎へ行きましたが海援隊士の不平より上杉が遂に自殺することになりました上杉の自殺したのはどういふ譯かならば海援隊の方では「ユニオン」號を三者共有の形ちにする積りであつたのが長州では既に乙丑丸といふ名を附けて中島四郞を船長として居る實に前約とは相違して居るではないか是は如
何なる次第かと云ふて上杉に迫つた上杉も此の一件から薩長聯合に破綻を生じては濟まぬと言ふて責を一身に引請けて自殺した樣でありますが實は海援隊の者が上杉が薩長二藩の間へ立て金を澤山貰つて洋行するといふのを猜んだ感情的のこともあつたと思ひます私は「グラバ」に其時の話を聞いたことがありますが上杉は英國へ行くことになつて其の費用は薩州の小松帶刀が出し船の切符などは自分が買ってやりまして既に船に乘て長崎を出發する筈であつたので再び上陸して或所で酒を飮んで居た其處へ海援隊の連中が行て詰腹を切らせた其譯は海援隊士は一致團結してやらふといふ盟約があつたのに其盟約に背いて吾々にも相談もせず長州あたりから澤山の金を貰つて洋行するとは何事かといふて責めかけたのであると申しました
 斯樣に乙丑丸のことに付ては紛議に紛議を重ねたが遂に上杉まで自殺するに至りました此問題は桂が京都に上るから桂より小松西鄕に協議して決することになりました桂が京都へ行くことに付ても長州では餘程議論があつて殊に諸隊の長官連中は大に不平を鳴らし此方から頭を下げて行く必要はないといふ樣な反對論が中々八ヶ間敷かつたそれで諸隊中の長官二三人を連れて行つたら事情も分るであらうといふので竒兵隊からは交野十郞遊擊隊からは早川渉御楯隊からは品川彌二郞が行くことになりました所が交野十郞は軍監山縣狂介が相談相手にして居る男で暫くも手放すことが出來ぬといふので其代りとして三好軍太郞が行くことになりました其時井上侯などは非常に心配されましたが今申す樣なことで廟議が一決したので桂は京都へ上り坂本君は長崎へ參りました桂の一行
は黑田了介と同道で十二月二十八日に三田尻を發して途中では藝州人と稱し大坂の天保山沖で薩摩の春日丸に乘移り上陸して大坂の薩摩屋敷へ這入りそれから薩州の御用船に乘込んで淀川を遡つて伏見に著しますと西鄕吉之助村田新八などが伏見の薩邸へ迎へました伏見からは薩州の警衞で竹田街道から京都へ入込んで相國寺の近傍なる西鄕の寓居に投宿して間もなく近衞公の花畑にある小松帶刀の別莊へ移ることになりました
 桂が始めて小松西鄕抔と會見した時に桂は是迄薩州と長州との關係は斯樣々々であつて長州の意思は此通りであると從來の行掛りを委しく話した所が西鄕は始めから終り迄謹聽して如何にも御尤でございますと言たきりで何事も申さなかつたさうであります故品川子爵の話に自分も其席に列して居たが自分を薩州人にすると桂の演説は十分突込む所がある然るにそれを如何にも御尤でございますと言ふて何事も言はなかつたのは流石西鄕の大きい所であると申されたそれから幾日經つても聯合の事に付ては話しがたい桂等は毎日々々美酒佳肴で御馳走になる計りであるそれで桂は我々は御馳走になりに來たのではないから聯合の話が出ないならば寧ろ歸つた方が宜からうと言ひ出したさうです其所へ坂本君が長崎から上京して來られましたそれが翌慶應二年正月二十日でありましたが坂本君は桂を見て聯合の話はどうかといふと桂は實は斯樣々々の譯で御馳走に計りなつて居ると言ふたので坂本君はさういふことではいかぬと即夜小松西鄕に面會して早く聯合の條件を御相談なさるが宜しからうと説きますとそれでは協議しませうといふことになつて其晩に薩長聯合の盟約が出來
 
ました坂本君はどうして來たかといふと長崎から馬關へ來て長府の三吉愼藏を同道して十九日に伏見寺田屋へ一泊して細川左馬介寺内新右衞門と共に京都へ這入つたのであります其の薩長聯合の盟約と言ふても何も條約見た樣に書いたものもございません只口約束のみでありましたが桂があゝいふ綿密な人でありますからお互に口約束であつては他日異議があつた時に困るからと言ふて桂が坂本へ手紙を贈つて私は斯ういふ樣に覺えて居るが貴君は立會人であるからこれで間違ひがあれば間違つたと言ふて呉れ間違ひがなければ其通りであるといふことを證明して貰ひたいといふて小松西鄕等と約束した箇條を書いて居りますが其箇條が六箇條であります
一戰ト相成侯時ハ直樣二千餘之兵ヲ急速差登し只今在京ノ兵ト合シ浪花ヘハ千程差置京坂兩所ヲ相固メ侯事
一戰自然ニ我勝利ト相成侯氣鋒有之侯トキ其節朝廷へ申上屹度盡力之次第有之侯トノ事
一萬一戰負色ニ有之侯トモ一年ヤ半年ニ決而潰滅致シ侯ト申ス事ハ無之ニ付其間ニハ必ズ盡カノ次第屹ト有之侯トノ事
一是ナリニテ幕兵東歸セシトキハ屹度朝廷へ申上直樣冤罪ハ從朝廷御免ニ相成侯都合ニ屹度盡カノ事
一兵士ヲモ上國之上橋會桑等モ只今次第ニテ勿體ナクモ朝廷ヲ擁シ奉リ正義ヲ抗シ周旋盡力之道ヲ相遮リ侯トキハ終ニ及決戰侯外無之トノ事
一冤罪モ御免之上ハ雙方誠心ヲ以テ相合シ皇國ノ爲メニ碎身盡力仕侯事ハ不及申イヅレノ道ニシテモ今日ヨリ雙方皇國ノ御爲皇威相輝キ御囘復ニ立至リ侯ヲ目途ニ誠心ヲ盡シ屹度盡力可仕トノ事
此の手紙は桂が歸途大坂から正月二十三日に出したのであるが坂本君が其裏面へ左の如き證明を附けて送り返しました
表ニ御記被成侯六條ハ小西兩氏及老兄龍等モ御同席ニテ談論セシ所ニテ毛ト相違無之侯後來トイヘトモ決シテ變リ侯事無之ハ神明之知ル所ニ御座侯
  丙寅二月五日               坂本龍
右の手紙の原書は今木戸侯爵の所に殘つて居ります坂本の裡書が二月五日とあつて餘程遲れて居りますが何ぜ斯う遲れたかといふとそれは譯があります坂本君は二十三日に京都を立て伏見の寺田屋へ歸つて長府の三吉愼藏と薩長聯合の盟約が成立つた事抔を談じて居る所へ新選組の浪士か斬り込んで來て大騷ぎとなつて坂本君も負傷された其時の話を三吉君に遇つて聞きましたが三吉は鎗を用ひ坂本君は例の短銃を以て一旦防ぎ止めさうして隣家を打破つて裏口ヘ出て河畔の材木を積んである所へ匿れて河の前岸を見ると提燈が頻りに往來してとても逃れることは出來ない樣子であるそこで三吉がこれはどうしても助からぬ彼等の手に掛つて死ぬよりか自殺しやうぢやないかと申した所が坂本君はイヤサウ死を急ぐには及ばぬ私は負傷をして居るから仕方がないがお前は無疵であるから潛かに薩邸へ行て此變事を告げて呉れ途中で敵に見付られたら其時こそ斬死するより外はないと言ひましたので三吉は暗夜の道を辿り薩邸に往くと薩邸でも坂本の妾お良の注進により此變事を知つて門を開けて待て居て坂本はどうしたかと問ふから坂本は河端の材木の積んである所へ匿れて居ると申すと早速船を出して坂本君を連れて歸つてそれから疵の手當をして二月一日に伏見より京都の薩邸へ移つたのでありま
 
すそんなことで返答が遲れたのであります桂は正月二十三日に黑田了介と同道で大坂から薩州の汽船へ乘込んで歸程に上り途中廣島に立寄りて當時幕府の目付と應接の爲に出て居つた宍戸備後助に遇ふて委細の事情を話しそれから山口に歸りました歸つて來て君公へ復命すると君公は黑田を御引見なつて此度は誠にお世話になつた且つ聯合の約束も出來て喜ばしいと鄭重の御挨拶があり手づから差料を賜はりまして黑田が又京都へ上る時には品川彌二郞を同行させることになりました品川が何故上京したかと言へば長州が幕府と開戰する迄は上國の事情を探偵して之を國元に報告し開戰となつた時は防長士民の陳情書を朝廷に奉り又其告白書を在京の諸藩に配るといふ事である其後黑田了介は再び山口ヘ參つてそれから筑前太宰府へ往きましたが彼の乙丑丸一件に付ても黑田は隨分心配して居られます此の乙丑丸一件は桂が小松西鄕に懇談したので河村與十郞と村田新八が此の問題解決の爲め長州へ來ました其時坂本君が兩人に手紙を托して私も此際行く積りであつたが負傷して居るから行くことが出來ぬと云ふて遭難の次第を大略書いて寄越しました此の村田河村兩人が長州へ來た使命は乙丑丸といふものは毛利侯と島津侯が親裁で買つたものであるから此の紛議を決定するのも矢張り兩藩主間の親裁で決することにすると云ふ主意で長州に於てもそれを承諾して乙丑丸を鹿兒島へ廻航することになりましたから長州の方から藩主の親書を齋らして使者をやらなくてはならぬといふ事になりました其時英國公使の「パークス」が鹿兒島へ行くといふ話がありましてそれを高杉晉作などは薩英會盟と言ふて居りますが「パークス」が薩州へ行くならば長州人も其
 
末席へ列つた方が宜いといふので高杉が自分に薩摩行の使者を仰付られたいと申請したので慶應二年の二月二十七日に使薩の命が高杉に下つて伊藤が隨行する事になりました其時「グラバ」が長崎から橫濱へ行く途中馬關へ寄航したので能々話しを聞いて見ると「パークス」公使が鹿兒島へ行くのは「グラバ」が長崎へ歸つた後であるといふ事が分つたのでそれなら「グラバ」の歸便を借りる事にしやうと約束しました其後三月二十一日に「グラバ」が歸途馬關に寄港したので高杉伊藤は其船へ便乘して馬關を發し其夜半に長崎へ著しました其時薩摩の屋敷には市來六左衞門といふ人が居つたので高杉は市來に遇ふて使命の旨趣を話して見ると市來が言ふに今鹿兒島へお出になるのは宜しくあるまい兩藩聯合の事情は一藩に行屆いて居らぬから若し間違でもあつては相濟まぬと云ふて其使命は私が此處で受けませうと答へましたそこで高杉は毛利侯の御親書と贈物等を市來に托して使薩の使命を終了しました高杉と伊藤は洋行の志があつたので長崎に滯在して居りましたが此の事は坂本中岡兩君の事蹟に關係がないから略しますが其後六月七日に薩摩から岸良彦七平田平六の兩人が島津侯の親書を携へて山口ヘ參りまして毛利侯が湯田の別莊で之を御引見になって非常に御優遇になつたがこれで始めて乙丑丸の紛議が解けて長州の專有物となりました斯樣の次第で薩長二藩が愈々親密となり其強大なる聯合の力を以て幕府を打倒したのでありますが此の薩長聯合の強大なる勢力を作成したのは誰の力かと言へぱ今お話する如く坂本中岡兩君の力が多きに居ると私は考へます
それから三條岩倉兩公が合體されたのも坂本中岡兩君の力に
 
依つたのであります皆さんも御承知の通り岩倉公は文久年間には久我内大臣千草少將と三姦物と稱せられ尊攘黨には非常に排斥されて遂に落飾蟄居の身となられた人で三條公とは正反對であつた故に三條公から見れぱ岩倉公は奸物と見られたに違ひない處が岩公は有爲の傑士であって種々な計畫をして常々皇威の振張を謀られましたが幕府の長州再征の師が失敗に歸すると腹心の士入谷駿河守小林彦次郞(後の香川敬三)三上兵部(後の三宮義胤)樹下石見守(日吉神杜神官)、里見次郞橋本鐵猪(大橋愼三)等の人々を四方に派して同志の公卿を説き又薩藩にも其主意を述べて後援を賴みそれから御前會議を開く事を計畫されましたそれは丁度慶應二年八月三十日でありましたが親王公卿の多數が參内になつて御前大會議が開かれました其時大原重德卿が四箇條の建議をして滔々と論じられて遂に二條關白中川宮を面責して其職をお退きなさいと迄極言された此一事が幕府の忌諱に觸れて山階宮正親町三條實愛岩倉具綱諸公は閉門を命じられましたが後に岩倉公が黑幕であつたことが分つたので幕府は會桑二藩の兵を以て岩倉公を監視することゝなりましたが慶應三年三月二十九日に至り蟄居赦免になりましたこれは孝明天皇崩御の爲めに寬大の令が出たのであります其所へ坂本中岡の兩君が三條公の命を受けて京都に上つて同志の公卿を説き太宰府と京都と内外相應ずるの便を圖らうとして有志の聞えある公卿方を歴訪したが大事を謀るに足る人がないので兩君も大に失望して歸程に上らんとせられしが會々中岡君が橋本鐵猪に遇ふて實は我々は斯ういふ希望を持て來たが共に談ずる者がないので落膽したと云ふ話をすると橋本が言ふに貴君はまだ御承知あ
 
るまいが岩倉公は精忠にして偉略に富んだ人であると申したのでそれなら紹介して呉れといふので橋本が紹介をして中岡君が岩倉公に謁見しました所が中々議論が面白いこれは偉人であるといふので坂本君に話して同道して再び岩倉公に拜謁し王政復古の方略を談じた所が中々面白い意見を吐露されたので兩君も其人と爲りに感服して此人でなければいかぬといふことで太宰府へ歸つて三條公等に復命した所が條公はあれは奸物であるからいかぬと申された其時東久世伯が私は岩倉と親戚の縁故があるから是迄默つて居たが彼れは決して奸物といふ男でない忠誠の男であつて才略ある人物であるタトヘ奸物であつても過を悔いて吾々と共に王政復古の事業をやると云ふなら容れた方が宜からうと考へると申されたので三條公の意も解けてそれなら互に氣脈を通ずることにしやうと決しましたそれから坂本中岡兩君が東西に往來して太宰府と京都と氣脈を通ずることになつたのでこれが王政復古に至大の關係を有して居ります全體三條公と岩倉公とは性質が丸で違うのでありまして條公は玉の如く岩公は劍の如しと云ふ評がありますが條公は實に精忠の人で純良無比の美玉であつて廟堂の棟梁たる器量がある岩公は仕事師で磐根錯節一刀兩斷の才略があつて實に利劍の如き人である又筆三條口岩倉と云ふ評もありますが條公は實に筆の達人で其婉麗の筆勢は今日でも人の珍重する所がある岩公は誠に拙筆であるが口は中々の達者で時と場合に據ると二枚の舌も使ひ兼ねまじきお方である斯樣な性質の違つた人が合體して犬猿も啻ならざる薩長が聯合したので王政復古が出來たのであります此の合體と聯合を謀られたのは實に坂本中岡兩君の力であります然るに王政
復古の大號令を發する間際即ち十一月十五日に至つて兇刄に斃れられたのは如何にも遺憾の極みであります岩倉公は其の變報を聞いて何者の兇徒だ我が片腕を奪へると言ふて慟哭されたといふことでありますが如何にも左樣でありませう其場所は京都の三條河原町近江屋でありますが嘗て新選組であつた伊藤甲子太郞といふ人は後に志を改めて勤王黨に與みしまして坂本中岡の兩君が斯る町家に寄寓して居るのは危險だと言ふて忠告したことがある其時坂本君は別に意にも止めなかつたといふことでありますが中岡君は有難いと言ふて木屋町船越男の寓所へ移られたさうである所が十一月の十四日に會津守護職より宮川助五郞といふ者を土藩に交附するといふことになつたので土藩では其事を中岡君に托する事となりましたそれで中岡君は其相談を坂本君にする爲に河原町の近江屋へ訪ねて來られた其時丁度岡本謙三郞と云ふ人と菊屋峯吉といふ者が來て居りましたが岡本は去り峯吉は酒の肴を買ひに出たさうです其後とへ兇徒が亂入して兩君に斬り附け遂に死に至らしめたのであります其當時の岩倉公の手紙などを見ても皆新選組の浪士がやつたとありますが其兇徒は守護職見廻組取締佐々木唯三郞といふ人が發頭人で其部下六人を率ゐて來たのであります其人々は今井信郞渡邊吉太郞高橋安次郞桂隼之助土肥仲藏櫻井大三郞であつたさうです其當時は兇徒は誰であつたか分らぬものですから某々等は紀州の三浦久太郞の敎唆に出たと云ふので同人を襲擊したこともあります是等の事情は土佐勤王史を御覽になれば委しく分ります斯樣な次第で兩君は維新の大事業を贊襄して偉大の功績がありますが其結果の發表を見ることが出來ずして死なれたのは如何にも
遺憾の至りであります今日は此位の處でお斷りを致して置ます(拍手喝釆)


 岩崎英重、日本史籍協会編『坂本龍馬關係文書』第二
                  三一三~三四三頁
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