日本史探偵団文庫
真木和泉密書草案
入力者 梅原義明
 

底本は、眞木保臣先生顯彰會 編『真木和泉守遺文』大正二年 伯爵有馬家修史所 発行である。
 
赤い字は原注

大福不再=左傳楚の荘王の語

或國は長州なるべし
密書草案


天朝の事に於て固より臣子だけの分を盡くすこと當り前の事ながら、保臣は猶更幼き時より其志専一なり。加之神士の身にて、鴻恩を奉受事莫大なれば、此際格別に勵精すべしと所存なり。さて大福不再と申候て、彼の運も既に限りありと見えたり。彼是と爲すといへども、自ら斃るる勢なれど、餘りなりゆくまヽに致しをかば、思はぬ所に天命下りて、又々覇者の世とならん。然らば其機會を見て、人事を盡くして天命を得るにあり。
兩三年前に大機會ありたれど、彼の老奸ありて、却つて先をとりぬ、今又機會あり。此機會は遲くても速くてもよし。猶又此機會中に一大機會を釀すべし。然らば保臣微力と云ひながら、馬援となりて、上下の媒を爲さんと存するなり。先づ保臣自由の身となりなば、或國に漫遊して行き、忠義の人々に交りを結び、漸々に大義を説き、其國是と人心とを見定めて直ちに洛に入、梯は曾て造りおきたれば、高き所に登りて天命人心今日只今にあり、一時の苦勞を堪へさせられて長き太平をつながせられんことを親切に説き奉り、其しるしを奉受て前に諸説の國に下り、彌々義旗を擧げさせん。
其擧ぐる仕方は、其國はかねて器械整ひて巨艦も大礟も十分調ひたれば、九千の精兵を撰み、國君三千を率ゐ、別に義勇知謀の將二人を擇び、各三千づヽの兵を率ゐしめ、吉日を擇びて一同に纜を解き國を發す。固より洋製の船なれば、一日夜にて華海に届るべし。舟を下るや否、直ちに三千の兵にて
華城は大阪城也

岳は比叡山なり

仙城は仙臺也
華城を乗つとり、主將の三千は川舟と南北の路を星行して、主將は  帝城を専護し、其用意を急がせ奉り、  玉輿を奉じて華城に入れ奉り、外に三千兵にて條城を乗つ取り、其城に入り、其地を守り、嚮に華城を乗つ取りたる兵を移して岳麓に屯せしめ、萬一賊兵發する時に應じ置くべし。然る後に天下の侯伯に檄して速に入華せしめ、 猶も方々にて命を阻む者を段々に攻めつぶし、其上に大諸侯三四家に命じ、洛と華とを守らしめ、七八侯を召具して東に  幸し、函岳に  蹕をとヾめて、餘る奸猾有司を召し、其罪を正し、夫々處置し、大城靜になりし時に、之に幸し、浦口の備へを嚴にして、安東府として親王を以て安東將軍に任じ、近邊の義侯に福將軍職を任じ、夫れより鹿島を拜し、仙城に臨み、北夷の處置を議し、左折して羽・越を經、其邊然るべき地を見立てて寧北府を置き、寧北將軍を任じ、副将軍亦安東に同じ。越・加を經て華に歸り、大に有功を賞し、制度を建て、仁政を施し、外備を嚴にし、然る上に西國に  幸し、撫南・鎮西の二府を置き、歸華の後、大養徳の地にて橿原の舊によりて京を定め、六卿六遂等の制に傚ひて兵を置き、禮樂を制すべし。さて保臣は武技不鍛錬にて、甚口惜く存すれども、弓と尖眉刀とは少し學びたる事あれば、此兩技を以て陣に臨むべし。率ゐる所は俄に策もなければ、菅家に属して洛と華とに遊食する角夫二千ありと聞けば、其内より六十匁より四十匁までのもの年は二十より四十まで三百人を擇み出し、各長まきを持たせ、左手に小楯を押立、保臣自ら金鼓を執りて之を指揮し、何れの手にも隷せず、遊軍の振にていつも賊軍の後にまはりて奇兵となり切崩すべしと思ふなり。併しながら
 
庚申=万延元年 此も二三千の金貨はなくて叶はず。其は或國に説きて三年ばかりの限にて借用すべし。得がたきことはあるまじ。其角夫の甲冑器械等はかねて工夫し置きたり。貨財だにあらば、目前に整ふべし。さて敢死の士も我ものになくて叶はぬ事なれば、十人ばかりはかねて竊に見定め置きたり。其内には相談柱とする人なきに非ず。吾身或國などの力を得たらば、不時にも百人位は手に入り候はんと存するなり。さて父母の國義旆のもとに立ち給はずてはならず其起りさまも考へ置きぬ。是は近き忌諱なれば、今此に載せざるなり。保臣が所志大凡如此。
  庚申五月十日          書於山梔窩北窓下


 眞木保臣先生顯彰會 編『真木和泉守遺文』
    伯爵有馬家修史所 大正二年 一八九~一九二頁
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