日本史探偵団文庫
討薩ノ表および軍配書
入力者:大山格
 
討薩ノ表および軍配書については、徳川慶喜の了解のもとで発せられたかどうか結論は出ていない。
よって、両史料のほか、慶喜の同意、不同意の両説を裏付ける関係史料も併せて紹介する。
それぞれの底本は、史料ごとの末尾に示した。
討薩ノ表 討薩ノ表

臣慶喜謹テ去月九日以來之御事件ヲ奉恐察候得ハ、一々 朝廷之御眞意ニ無之、全ク松平修理大夫奸臣共陰謀ヨリ出候ハ、
天下之共ニ所知、殊ニ江戸、長崎、野州、相州處々亂妨及劫盜候モ、同家家來之唱導ニヨリ、東西響應シ皇國ヲ亂リ候所業、別紙之通ニテ、天人共ニ所憎ニ御座候間、前文之奸臣共、御引渡御座候樣御沙汰被下度、萬一御採用不相成候ハヽ、不得止誅戮ヲ加へ可申候、此段謹テ奉 奏聞候。
   正 月                 慶 喜

○別紙
  薩藩奸黨之者罪状之事、
一大事件盡衆議ト被 仰出處、去月九日、突然非常御改革ヲ口實トシ、奉侮 幼帝、諸般御所置私論ヲ主張シ候事、
一主上御幼冲之折柄 先帝御依托被爲在候攝政殿下ヲ廢シ、止參 内候事、
一私意ヲ以テ、宮、堂上方ヲ恣ニ黜陟セシムル事、
一九門其外御警衞ト唱へ、他藩之者ヲ煽動シ、兵仗ヲ以テ宮闕ニ迫リ候條、不憚 朝廷大不敬之事、
一家來共浮浪之徒ヲ語合、屋敷へ屯集、江戸市中押込強盜致シ、酒井左衞門尉人數屯所へ砲發亂妨、其他野州、相州處々燒討劫盜ニ及候ハ、證跡分明ニ有之候事。
   正 月                 慶 喜
           春岳私記、黑田長知、酒井忠寶家記    
檄文

軍配書
○檄文
先般獻言之次第モ有之處、豈計ンヤ、松平修理大夫家來共、要 幼帝、不盡公議、矯 叡慮、天下之亂階ヲ釀シ候件々不暇枚擧、依之別紙兩通之 奏聞ヲ遂ケ、大義ニ依テ 君側之惡ヲ掃ヒ候ニ付、速馳參、軍列ニ可相加者也。
           春嶽私記、黑田長知、酒井忠寶家記

○堀田正倫家記、前書ト異同アリ、左ニ録ス、
予宇内之形勢ヲ熟考シ、政權ヲ奉歸 朝廷、王政一途ニ出、萬國ニ竝立ン事ラ欲ス、豈料、薩藩奸賊奉要 幼帝、不盡公議、矯 叡慮、僞勅ヲ下シ、恣ニ公卿ヲ黜陟シ、天之之亂階ヲ釀シ候件々不暇枚擧、依之、別紙兩通之 奏聞ヲ遂ケ、大義ニ依テ君側之惡ヲ誅戮シ、自然本國ヲ征討可及候ニ付、國々之諸大名速カニ馳登、軍列ニ可相如者也、尤軍賞之義ハ、平定之後、鋒先之勤勞ニ應シ、土地ヲ可割與候事。

○軍配書
一奈良街道小堀口 牧野駿河守
一御城近傍一圓市中巡邏 撒兵組
一福王駿河守莊勘兵衞附屬一大隊
   右者、大津ヨリ三條大橋マテ繰込候事、
一松平讃岐守人數 黑谷同斷
一稻垣平右衞門人數 大佛兵糧護衞
一松平伊豫守 天保山
一御城廻リ巡邏 會藩板倉伊賀守人數
一松平刑部大輔 御門々勤番 但、戸田采女正へ交代
 
一紀伊殿人數 天王寺眞田山竝ニ市中巡邏
一御城廻リ關門十四ヶ所 小林端一歩兵一大隊、外ニ外國人旅宿廻リ巡邏之事、
一大坂御城御警衞 戸田肥後守 大久保能登守 奧詰銃隊八小隊 杉浦八郞五郞 三浦新十郞 撒兵四小隊 但、御城御門々勤番二小隊ニテ相心得候事、
  天野鈞之丞守城砲
一大坂藏屋敷 天野加賀守 塙健次郞 撒兵九小隊 吉田直次郞砲兵二門 會藩四百人
一兵庫 須田敬一撒兵半大隊 大砲二門
一西之宮 酒井雅樂頭人數 松平阿波守人數半大隊 撤兵一中隊 頭取一人
一橋本關門酒井若狹守 松平下總守人數
一淀本營 騎兵三騎 別手組十人
  松平豐前守出張差圖次第京都へ繰込候事、
  松平豐前守一小隊四十人 室賀甲斐守二小隊 戸田采女正人數五百人
一鳥羽街道 竹中丹後守 秋山下總守歩兵一大隊 小笠原石見守歩兵一大隊 谷土佐守砲兵二門
 桑名四中隊 砲兵六門 騎兵三騎 築造兵四十人 松平右近將監家來三十人
  右、攻擊當朝鳥羽ニ出張、東寺へ向候事、
一伏見 城 和泉守 窪田備前守歩兵一大隊 大澤顯一郞歩兵一大隊 間宮銕太郞砲兵六門
 新撰組百五十人 騎兵三騎 築造兵四十人
老、攻擊前日出張之事、
 
一二條御城 大久保主膳正 德山出羽守歩兵二大隊 砲兵四門 騎兵三騎 佐々木只三郞見巡組四百人
 本國寺二百人 築造兵四十人、騎兵四騎
  右、攻擊前々日出張繰入候事、
一大佛 高力主計頭 橫田伊豆守歩兵二大隊 砲兵二門 騎兵三騎 築造兵四十人 會藩四百人 砲兵一座
  右、攻擊前日大佛へ出張之事、
一黑谷 佐久間近江守 河野佐渡守歩兵二大隊 騎兵三騎 安藤璆太郞砲兵四門 築造兵四十人
 會藩四百人 砲一座
  右、攻擊前日黑谷へ出張之事
                       三職叢記


 東京帝国大学蔵版『復古記』昭和五年
                  第九冊 一~四頁
 
京都守護職始末(抄) 德川慶喜卿奸黨罪状奏聞

是より先き、江戸市街及び常總野の間盜賊橫行し、民家を劫掠する事連夜絶えず、民心爲に恟々として殆ど其堵に安んぜず、夜間閴として行人を絶つに至る、幕府即ち庄内藩主(酒井左衞門尉忠篤朝臣)に命じて江戸市中を警邏し、嚴に賊を逮捕せしむ、是月二十二日江戸本城後閣火を失して悉く災す、人心益々蹂動す、翌二十三日夜賊徒一隊庄内藩兵營に發砲して之を襲ふ、庄内藩兵これに應戰互に死傷あり、賊遂に敗れ奔りて、芝三田の薩摩藩邸及び佐土原藩邸に入る、庄内藩即ちこれを老中に報して指揮を請ふ明日老中旗下歩兵隊及び前橋松山鯖江上山等の諸藩に命じて、庄内藩兵と共に彼二邸を擊たしむ斬獲差あり、餘賊上山藩の隊を衡き、品海より航して西走す、此役我藩三田の藩邸薩摩藩邸と隣近なるを以て、我公用人小森久太郞兵を督して之に備へ、薩摩藩の留守居下役益備久之助を捕へ、諸藩捕ふる所の二十餘人とゝもに江戸町奉行に致す、越えて三十日(十二月)此報大坂に達す。是に於て内府忿怒に堪へず、薩摩藩密に兇徒を使嗾し關東を擾り東西相應じて事を擧げんとす、亂逆を企つる罪恕すぺからずと、即夜老中及び我藩桑名藩等の重臣と會して、其罪状を具申し典刑を正さん事を奏請するの議を決し、入京の部署を定む、
慶應四年戊辰正月朔德川内府は召勅に應して上京せんと、先づ我藩及び桑名藩に歩兵隊を附して、前驅となし、先發せしめ、高松姫路小濱鳥羽等の諸藩兵之に次き、翌二日に至りて順次鳥羽伏見に向ふ、蓋し先に尾張越前兩侯少衆輕裝を以て
 
入京の忠告ありしも爾後江戸に於て薩摩藩士兇暴の報ありしを以て、これを彈劾し事機に依りて決行する所あらんとするを以て、衆を盡して途に就けり。

 山川浩『京都守護職始末』非売品 明治四十四年
                  二七三~二七五頁
 
徳川慶喜の回顧談

鳥羽伏見の変の事
昔夢会筆記(抄)


鳥羽伏見の変の事
                   新村氏は新村猛雄
 予、既に大坂城に人り、物情の鎮静に力めしも、上下の激昂は日々に甚だしき折から、江戸にて市中警衛の任を負える庄内の兵と、薩摩の兵と争端を開きしかば、大坂城中上下の憤激は一層甚だしきに至れり。後日江戸に帰りし時、在京の薩藩士吉井幸輔(友實)より、在府の同藩士盆滿休之助に贈れる書状を見たるに、「慶喜は大坂にありて案外謹慎なり。この分にてはあるいは議定に任ぜられんも計られざれば、今しばらく鎮まりおるべし」との文意なりき。これによりて見るに、江戸の薩邸に集まれる浪人が、庄内兵の屯所に発砲するなど、ことさら幕威を凌犯するに力めしは全く薩藩の使嗾に出でたるを知るべし。されば江戸にてもこの上幕威を保つには、是非とも薩邸を討たざるを得ざる勢となりて、遂に干戈を交うるに至りしがごとし。
 ちなみにいう、休之助は江戸の薩邸にありて東西画策の任に当りしが、かの薩邸焼き討ちの際、機密書類押収の結果、嫌疑を免るること能わずして、幕府に拘禁せられたり。しかるに、その後、山岡鐵太郭(高歩、鐵舟と号す)が謝罪謹慎を総督府に歎願するに当りて、途中の危険を慮り、休之助の拘禁を宥してこれに案内せしめたりき。
 さて大坂城中にては、上下暴発の勢ほとんど制し難く、松平豊前守のごときは、「令を出して、大坂を俳個せる薩人一
 
人を斬るごとに十五金を与えん」などと、無謀の議を出すに至りしも、予はこのごときは血気の小勇なりとて制止せり。時に京都より、越前の中根雪江(師質)尾州の某等四、五人下坂して、予の入京を勧めたれば、予もさらば軽装をもって入京せんと考えたりしかど、会桑両藩以下旗本の者等これを聴かず、「好機会なれば十分兵力を有して入京し、君側を清むべし」と主張し、老中以下大小目付に至るまで、ほとんど半狂乱の有様にて、もし予にして討薩を肯んぜずば、いかなることを仕出さんも知るべからず、何さま堅く決心の臍を固めおる気色在りき。
 新村氏曰く、当時の大小目付部屋の光景は驚くべきものにして、いずれも胡坐し、口角泡を飛ばして論議し居れる有様、ほとんど手を下さんようもなかりき。
 この時、予は風邪にて、寝衣のまま蓐中にありしに、板倉伊賀守来りて、将士の激昂大方ならず、このままにては済むまじければ、所詮帯兵上京の事なくては叶うまじき由を反復して説けり。予、すなわち読みさしたる『孫子』を示して、「知彼知己百戦不殆」ということあり、試みに問わん、今幕府に西郷吉之助(隆永、後に隆盛と改む)に匹敵すべき人物ありやといえるに、伊賀守しばらく考えて、「無し」と答う。「さらぱ大久保一蔵(利通)ほどの者ありや」と問うに、伊賀守また「無し」といえり。予、さらに吉井幸輔以下同藩の名ある者数人を挙げて、「この人々に拮抗し得る者ありや」と次々に尋ぬるに、伊賀守また有りということ能わざりき。囚りて予は、「このごとき有様にては、戦うとも必勝期し難きのみたらず、遂にはいたずらに朝敵の汙名を蒙るのみなれ
討薩の表の事 ぱ、決して我より戦を挑むことなかれ」と制止したり。されども、板倉・永井等はしきりに将士激動の状を説きて「公もしあくまでもその請を許し給わずば、畏けれども公を刺し奉りても脱走しかねまじき勢なり」という。予は、「よもや己を殺しはすまじきなれども、脱走せんはもちろんなるべし。さてはいよいよ国乱の基なり」とひたすら制馭の力の及ばざるを嘆ぜしが、江戸にて薩邸を討ちし後は、なおさら城中将士の激動制すべからず、遂に彼等は君側の姦を払う由を外国公使にも通告して入京の途に就き、かの鳥羽・伏見の戦を開きたり。予は始終大坂城中を出でず、戎衣をも著せず、ただ嘆息しおるのみなりき。この際の処置は、予ももとより宜を得たりとは思わざりしも、今にていえばこそあれ、当時の有様にては実にせんすべも尽き果てて、形のごとき結果に立ち至りしなり。


 渋沢栄一編『昔夢会筆記』東洋文庫 昭和四一年
                    一九~二一頁


討薩の表の事
       公は徳川慶喜 聞き手は小林床次郎、三島毅
小林 あの時会津の野村左兵衛などという人も、外の志士が行って談判すると、議論には尤もだと承伏して、大政奉還はいけないとは言わないけれども、あの時の事は議論では左右することはできなかったものか、やはり一方ではその部下を
 
押えられない。
三島 あの京都へお上りになります時に、軍令というものをお出しになりましたろうか。
公 そんなことはない。
三島 軍令状を薩州で拾ったということがあります。
公 いや、軍令状を出したというようなわけじゃない。
三鳴 確かに軍令状を拾ったという話を聞いたですが。
小林 それは蛤御門の時の、長州の軍令状の事ではありませんか。
公 長州が暴動した時は、長州の軍令状は此方で拾った。
三島 軍令状があれば、君側の奸を清めるとか何とか……。
公 軍令状も何もない、無茶苦茶だ。
小林 あの時の討薩の表というのは、どのくらい御承知でございましたろうか。
公 前に朝延から軽装で私に上京しろということであった。軽装で行くなら残らず行けという勢いで、そこでなお上京しろという命令があったから、それを幸い、先供でござると言って出て来た。ところが関門があって通ることがならぬ。これは上京するようにという勅命だ。朝命によって上京するのだから関門をお開きなさい、いや通すことはならぬ、朝命だからお通しなさいというのだね。そこで押し問答をしているうちに、その談判をしている向こうの隊が後へ引いた。陣屋へ引いてしまうと、後から大砲を撃った。そこで前から潰された。すると左右に籔がある。籔の中へかねて兵がすっかり廻してあった。それで横を撃たれたから、此方の隊が残らず潰れかかった。それで再び隊を整えて出た。こういうわけで
ある。その時の此方の言い分というものは、上京をしろとおっしゃったから上京をするんだ、それをならぬというのは朝命違反だという。向こうの方の言い分は、上京するなら上京するでよいが、甲冑を著て上京するに及ばぬ、それだから撃ったとこういう。それはつまり喧嘩だ。まあそういうような塩梅で、ただ無茶若茶にやったのだ。
小林 その時の先鋒の討薩の表というものは御承知でございましたか。
公 それは確か見たようだったが、もうあの時分勢い仕方がない……。とうてい仕方がないので、実は打棄らかしておいた。討つとか退けるとかいう文面のものを、竹中が持って行ったということだ。
小林 無論あの時、両方干戈を交える決心がありましたでしょうから……。
公 書面などは後の語で、大体向こうが始めてくれればしめたものだ。何方も早く始めりゃあよい。始めりゃ向こうを討ってしまうというのだ。向こうも討ってしまいたいけれども機会がない、此方も機会がないといったようたわけで、両方真赤になって逆上せ返っているんだ。どんなことを言ってもとても仕方がない。
小林 まず火蓋を切ったのは……。
公 薩州の方だ。


 渋沢栄一編『昔夢会筆記』東洋文庫 昭和四一年
                    七〇~七二頁
 
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