日本史探偵団文庫
二本松戊辰少年隊記
入力者 梅原義明
 

底本は謄写版刷り私家版小冊子(個人蔵)である。
 
   緒 言

慶應四年戊辰の役會津藩に於ては少年相集りて白虎隊を組織し、君國の爲に壮烈なる戰死を遂げたり。後世之を薩摩琵琶に彈し、浪速節に歌ひ或は演劇に脚色して武士道鼓吹の資となせるを以て、人工に膾炙せさるなりきに至れり。
當時我二本松藩に於ても二十有五人の少年相團結して一隊を作り、西南の鎖鑰たる大壇口に於て奮戰擊突、半は戰死せるの事蹟は之を知るもの稀なりとす。余幸に同少年隊に加わるを得て、而して餘生を保ち、茲に大正六年七月二十九日戰死者の五十年乃法會を營み英靈を弔ふに當り、胸中萬感の往来禁する能はず。因て思ひを當年乃硝烟彈雨中に走せ、少年隊の組織と其の奮戰の有様とを眼底に映じ来るに任せ書き下せは小冊子とはなりぬ。
當時の戰友にして尚矍鑠たる壮士、幸に補正に吝ならさらんことを。
今之を同好乃士に頒つに當り一言すること爾り。
 大正六年七月
                    水野好之 識
   少年隊服装
少年隊乃服装は上衣は呉呂又は木綿の筒袖にして、力紗羽織又は陣羽織を着し、下衣は一定せずタン袋あり股引あり、義経袴あり、立附あり、兵糧袋に肩印、帽子は用ひす、概ね白木綿の鉢巻なり、髪は髻を打糸にて結ひ背に下げたり。
   備 考
一、筒袖は大概木綿又は呉呂にして今乃小學校生徒の着用せる筒袖の丈短くして膝の邊迄位なり。
一、力紗羽織は地質は、概ね絹呉呂にして(當今のアルパカ)普通の羽織の袖を筒袖とし、背の縫目半分位裂けたるものなり。
一、兵糧袋は、概ね呉呂にして長圓形の袋の前後に縁を附け、紐を通して屈伸を自在にして肩掛とせり。
一、肩印の地質を麻布に志て、長さ三寸、巾一寸五分位中央に違棒の紋を書き、一方は鯨又は竹を當て其の中央を紐にて括り、左の肩先に結ひ附けたり。

   少年隊人名
名稱   姓名     年齡    摘要
隊長   木村銃太郎  二十二歳  戰死
副隊長  二階堂衛守        戰死
銃手   成田虎吉   十五歳
仝    水野進    十四歳
仝    成田才次郎  十四歳
仝    鈴木松之助  十四歳
仝    遊佐辰彌   十四歳   戰死
仝    宗形幸吉   十四歳
仝    全田熊吉   十四歳
仝    馬場定治   十四歳
仝    後藤鈔太   十四歳
仝    岩本清次郎  十五歳   戰死
仝    上田孫三郎  十四歳
仝    奥田馬之介  十六歳   戰死
仝    中村久次郎  十四歳   戰死
仝    三浦行藏   十五歳   戰死
仝    上崎鉄藏   十六歳   戰死
仝    髙橋辰治   十四歳   戰死
仝    小川安次郎  十三歳   戰死
仝    岡山徳治   十三歳   戰死
仝    木村丈太郎  十四歳   戰死
仝    徳田鐵吉   十三歳   戰死
仝    大島七郎   十四歳   負傷
仝    武谷剛介   十四歳
仝    渡邊駒之介  十四歳
仝    大桶勝十郎  十七歳   戰死
仝    根来梶之介  十六歳   戰死
以上二十七人内戰死十五人負傷一人

   ○
慶應四年戊辰の役は余漸く十四歳にして、藩政の組織奥羽各藩の同盟起原及作戰等は之を識るに由なし、故に當時の記憶の儘を古リにし、五十年の久しきに呼ひ起こしつヽ、
慶應四年戊辰の一二月頃より世の中何となく騒がし、白河と云ふ處にて、二本松、會津、仙臺の三藩合体して其所の城を攻め立て互に勝敗ありなと とり〴〵りに噂せらる。月を重ぬるに従ひて、戰の有様分明す、死傷の數も尠からす士分の戰死者の遺骸又は遺髪等を送り来る毎に莊嚴なる埋葬の式なとあり。一藩何となく荒立ち日増に殺氣を帯ひ来れり、余木村勘治を師として砲術を學ふ、勘治の長男を銃太郎と云ふ此人藩公の命により江戸に出て、江川太郎左エ門の門に入り洋式の砲術を修業して四月に歸藩せるを以て余等二十五名の者は従来の弓馬槍剣の稽古を見合せ、毎日早朝より馬場に詰め掛け所謂洋式砲術の教授を受くへき旨の達しを蒙る。 藩の婦女子は勿論一般人も物珍らしかり之を見物するもの常に堵をなせり。
訓練四五ヶ月にして大に上達す。七月初旬に至り味方の敗報頻りに至る。 或は既に本宮、三春附近に迄敵軍の押寄せ来れるを傳ふるものあり。
七月二十六日の朝、俄然余等に出陣の命下る、余等の満足例ふるに物なし。両親の門出を祝ふ盃なとにて、早、陣頭に立ちたらん心地して夜の眼も合はす、従来佩せし大小刀は稽古用なれはとて新に両刀を賜る。試みに鞘を拂へは明晃々として秋水の如し、出征の上は敵を討つか己が討たるヽか此二つにあり、決して敵に後ろを見するな、必らす人に後れを取るへからすと、出陣問際まで諄々として戒められし父母の言の葉は今尚耳底に響く心地せり。
やかて一同學館に集合し特別に「ライフルの大砲」壹挺小銃元込と二ツバンドウ軍用金壹両三分を渡され總勢二十五人隊
長木村銃太郎に従い大壇口に出陣し向て右手に陣を布く。其地形を見るに一軒の人家あり其側面に杉數本あり、右手は竹藪に續きて畑地あり、杉の木の中間に大砲を据附く。余等は其左右に位置を占む、多くは畑地にして、身を隠蔽する所なきを以て、枠木を打込み横に丸木を渡し之に畳二枚つヽを併列し縄を以て括り附く。皆豪語して曰く「敵のヘロヘロ彈丸が何此畳を貫通するものか此にて大丈夫」と。夫より當番を立て附近を巡羅なとすれは、何となく江戸見物にでも行きたらん心地し、浮々として夜半に至れとも寝られす、夜明けて幾程もあらさるに命あり、一同松坂御門に引揚くへしと、不思議の至りなれは子細を探求するに藩議俄に降参に決せるなりと。異口同音事茲に至りて降参とは何事そ、唯一死君恩に報するあるのみと叫びたり。暫くするに軍議又一變し出陣の命下る。余等少年隊は勇躍して元の陣地に就かんとし駆け出せしに如何なる機勢にや、大砲を桑畑に引入れ大いに搬出に困難せるなと忘るへからさる記憶なりき。兎に角大砲を元の陣地に据附け一層警戒を嚴にせり。然るに二十八日には銃砲聲更に聞えす、加之敵の集影たも認め得す、然れとも本宮口三春口既に敗れたれは、二十九日には必ず大敵の襲来あるへしとの警報は頻々として櫛の齒を挽くか如し。
二十九日朝霧深くして咫尺を辨せす、髙田供中方面に當りて俄に殷々として砲聲聞え暫時にして止む、皆曰く我軍優勢にしてよく襲来せる敵を擊破せしならん、今度こそは我受持區域に寄せ来るならんと銃に丸を込め手に唾して待構ひたり。案に違はす、本宮口よりの敵、群をなして押寄せ來る。何の意有てか幾隊も隊伍を整へ二本松街道に顯る。小銃の着彈距
離以外なれは、少しく大砲の位置を換へ集團見掛けて發射せしに、見事に其頭上に而も三發迄も爆發す。敵は俄に散乱して左右の山林に駆け入り、巧みに所在を暗ますかと見る間に、大砲小銃を雨霰と打出しぬ。大砲の髙きものは附近の松林に命中し、凄しき勢ひもて松の木を中断し、低きものは眼前の畑地道路に落ちて土砂を巻き揚く。小銃の遠きものは「クーン」、夫より近きものは「シウー」、最も近きものは音無くして耳邊を掠め去る。敵の動作は敏活なり、巧みに正法寺町の民家に隠れて射擊最も勉む。之を見下せる吾等は、「悪むへき仕業かな、目に物見せて呉れんす」と大砲にて其民家を射擊すれは見ん事命中し、其五軒を打貫く(今尚壁に貫通の跡あり)敵の狼狽して四散する様手に取る如し、一同之に力を得ドット鯨波の聲を揚げつヽ益奮闘す。今迄暁霧に眠れる霞城の天地は忽ち叫喚大叫喚修羅の街とそ化しにける。血を迸らして倒るヽあり負傷して呻くあり、鬨の聲と銃砲の聲と相和して山野に轟く。互の眼は血走り、口は噤みて物云ふ事も意の如くならす、火藥に汚れし両の手は墨もて染めたらんか如く、其の手もて顔に流るヽ汗を拂ふにより少年隊の面々の顔は目ばかり光る海坊主に異らす。古書に見えたる「流血杵を漂はす」も目のあたり。余等の命と頼みたる彈丸除けの疊も今は敵彈の爲に四分五裂して用をなさす、已を得す、畑中に全身を露はして應戰最も勉めたり。然れとも砲彈の雨注には堪へ難く、傍の竹藪に驅け入る。竹藪に一彈入るや、竹幹に當りて所謂外れ丸となり、カラカラと物凄き音を立て飛ひ去るを以て、危険更に増さりぬ。余鐵砲を取直して打たんとすれはこは如何に、曩に竹藪に駈け入りし時敵彈に引金を
打貫かれて用をなさす、如何はせんとためらふに、不圖見附けたるは、砲車の側に横はれる一大木材なり、一抱もありて長さは四、五間に余れり。是れ屈竟の物なりと、直に其木材にひたと許りに伏し附き、是れにて大安心いさ戰況を窺はんとせし刹那、隊長打たれたりと云う聲あり、周章驅け行きて見るに彈丸は左の二の腕を貫通して働をなさす、豫て用意の白木綿にて傷口を巻きまゐらす、今は是まてなりと、退却の用意に大砲の火門に釘を打込み、隊長自ら小高き所に上りて合圖の太鼓を打ち鳴らせり。之を聞き傳へし少年隊は我後れしと集合すれは、敵は愈々肉薄し來りて危險云ふべからす。少年隊の集れるもの何人にして、死傷せるもの何人なるかは、咄嵯の場合とて知るに由なし。味方の陣地如何にと一瞥すれは、何時の間に退却せしにや、吾等少年隊數人の外には人影を認め得す。隊長悠々迫らす、余等に何事をか訓示せんとせしに、狙擊に遭ひて、腰部を貫かれ、尻へにとうと倒れたり。倒れたるも直ちに起き直り、勵聲して曰く「此の重傷にては到底城には入り難し疾く我首を取れ」と、余等互に顔を見合せて、曰く「隊長の負傷は軽小なり、余等の肩にすかりて退却せられよ」と、隊長曰く「徒に押問答する時にあらす早く早く」と首さし伸へて「切れ〳〵」と云ふ。副隊長二階堂衛守聲に應じて、大刀を引抜き眞向に構へて切り下したれとも手許狂ふ。斯くてはならしと構を直して、三太刀目にてやうやう打落とし、之を持ち行かんとせしに重くして意の如くならす。因りて髪を左右に分ち、二人にて持ち町の入口椚門に到りしに、敵は已に占領しありて入ること能わす。少しく戻りて路を轉し、大隣寺前に到りしに、下馬に十數人ありて頻
りに手を以つて招けり、やれ嬉しやと近つきたるに、こは如何に、味方と思ひしは敵にしてまんまと術中に陥らんとせしなりけり。筒先揃へて打ち出す彈丸に、副隊長を始め岡山徳次其他數人或は即死し、或は負傷し、中には生檎せられたるさへあり。余等少年隊は潰乱して、おのがじヽ郭内に駆け入りたり。此時城は、已に凄しき音響を立てヽ焼けつヽあり、家中屋敷も處々に火の手揚り、敵味方互に家屋に據りて激戰酣なり。彼方にては切り結ひ、此方にては組打ちとなる。一天掻き曇りて墨を流せるか如く、吹き来る風は腥く、其の悽愴悲惨なる言葉にも筆にも盡し難し。余等少年隊は素より決死の事なれは毫もひるまず、敵を見掛けては突貫し逐つ逐はれつ奮闘せり。成田才次郎は一敵と渡り合ひ互に鎬を削りしか、果ては差違ひて戰死をそ遂けにける。一敵と思ひしは何そ知らん一方の旗頭なりしと云ふ免角する中に日全く暮れ戰爭も何時しか止みにけり。余は之を好機とし一ノ丁山に驅け入り一方の活路を求めて西谷の山に到りたるに敵の見張り頗る嚴重にして容易に逃れ出づる事能はす山中にて下河邊武治、三浦泰藏、岡村■■、宗形幸吉の四氏に會合し二日二夜進退よりて漸にして塩澤村字居蛇沼に出て農家に就て食を乞ふに其の主婦懇に勞はりて麥飯を炊きて余等をもてなせり。飢ゑたる者に粗食なく蕪婁亭の豆粥、滹佗河の麥飯も斯やあらんと飽くまて食したる辨當を用意し厚く禮を述べて嶽温泉へと急きぬ。到れは此處も兵火に罹りて憩ふにさへ所なし夫より土湯に到れは會津の藩士十數人手に手に松火を採りて今や火を掛けんとする處なり暫し休まん暇もなく中山峠を越えて會津領の養蚕村に到れは、此所には家老丹羽丹波を始め二三十
人の同藩士悄然として扣ひ居たり。因て委曲戰況を報告し終りしに俄に數日来の疲勞出て来て身体綿の如し滞在二日にして再び母成峠に出陣の命を蒙る番頭大谷與兵エの部下となり母成峠に到れは極めて廉雑なる小屋幾棟も建て連ねて兵舎に充てたり、何れの小屋も兵を以て埋めらる。吾等三番組の屯營として其一棟を貸與せられたり。凡へて丸木建にして壁に換ふるに萱を以てし土間には藁を入れ其の上に筵を敷きて赴臥す小屋と云ふも名のみにて只風雨を凌ぐはかりなり。食事は三度とも味噌汁と握り飯にて塩鮭飴菓子等携へて七日に一度位陣屋陣屋を巡る小商人もあり而して防禦陣地は此處を去ること一里余の所にあり
防禦陣地の主なるものは第一を板橋と云ひ第二を勝岩第三を中軍山第四を萩岡と云ふ何れも髙き所には塹壕を設け低き所には土手を築立てヽ胸壁とし、處々に砲門を設け塹壕と胸壁の上には方一尺位の轉石を配置し敵兵肉迫せは石を轉下して粉碎せんとする等用意頗る周到なり、居ること數旬天漸く寒し會津藩主より木綿筒袖一枚つヽを給與せらる
八月十九日敵を邀擊すへく二本松の領土玉井村へ出陣の命あり余等大に喜ひ「玉井村より二本松迄は二里余なれは敵を擊退して二本松城を恢復せん」と雀躍して出陣し玉井村字山ノ入に於て敵と衝突し大激戰となせり余等三番組は嶽温泉の間道より味方の背後を衝くへき要地に配列して今や遲しと待ち構ひたり。此地は玉井村を眼下に望み得へく從て戰鬪の景況恰も活動寫眞を見るか如し飛語ありて大鳥圭介氏の戰死を傳ふ。激戰凡六時間死傷百餘人遂に大敗して母成峠を指して退却す。首級の髻を提けて走るものあり或いは負傷者を肩に掛
け或は背に負ふもの或は足に負傷して刀を杖とするもの等其混乱名状すへからす三里余の山路を疾走することとて壮者と雖も吐血するものあり、足を挫折するものあり困憊の極昏倒するものあり余の如き少年は疲れ果てヽ次第次第に遲る 心こそ矢竹に疾れとも一歩も前へは踏み出すこと能はすなりぬ今は是迄なり。命も何も惜しからすよしや敵に擒はれんも時の運なりと草叢中に腰を据ゑて憩ふ程にいつしか眼に入りぬ。峯より颪す夕風に吹き醒まされ驚き起くれは疲勞も聊か直り居たるに元氣つきひた走りに走りてやうやう母成に着したり。やれ一息と思ふ間もあらはこそ直に防禦陣地に就くへき命令あり余等の陣地は萩岡の後結にして生地小屋とか云ふ所なり八月二十一日暁霧未た晴れさる内に敵軍早くも砲火を開きたり
抑も母成峠は唯一の要害地にして敵に之を破らるヽ時は直に若松城下に殺到せらるヽ恐あるを以て堅固なる防禦工事を施しありしに困(ママ)り敵も容易に擊破すること能わす而して勝敗の機も亦知るへからす此の時に當り川村純義氏は源九郎義経の古智に倣ひ手兵八十余人を從ひ石筵村の農民を嚮導とし山を越え谷を渉り萬難を排して萩岡の背後に出て防禦陣地に突貫す不意を喰ひし味方の軍勢周章狼狽措く所を知らす一支へもなく敗走せり勝に乗せし敵軍は萩岡口より潮の如く押し寄せ来れる防禦の全線總崩れとなり先を爭そうて退却せり余等も屯營地に退却せんとせしに早や既に敵の占領する所となり小屋小屋は盛に烟を揚けて焼けつヽあり余等は右手の山に逃け入りたるも地の利を知らされはせんすへもなく只足に任せて山奥〳〵と分け入りぬ軈て地竹藪に差掛りたれは横断せんも
のをと踏み入りしに叢生せる大枝小枝に草鞋を噛み取られ跣足とはなりぬ、痛さ辛さを問ふへき秋にあらされは之を抜け出て更に岩石樹根の嫌ひなく踏破したるに肉破れて血流れ行歩の難澁言語に絶えたり搗てヽ加へて雨は降る日は暮るヽ進退茲に谷まり、とある大樹の下に佇み一夜を明かさんとの議、纏まりてそこに憩ひぬ。人里離れし山奥の事なれは聞ゆるものには立木を渡る夜嵐と谷川のせわしき水の音はかりなり。夜嵐も収まりし夜半の耳に不圖入り来し怪しの響、峯に應へ谷を傳へて近きか如く遠きか如し皆打寄りて語らひしにまきれもなき狼の聲なり 一同怖ち氣立ちて夜の眼も合わす只管夜の白むを待ち居たり
一行は同藩の中井■■、佐野喜代治、鈴木松之介氏と余の四人なり 千秋の思ひに見詰め居たりしに空は白みぬ、白みし方を東と定め危き足下を探りつヽ山を下りぬ 夜は明けたれとも人家と覺しきもの更に見えす頭を没する荊蕀を分けつヽ下る程に炭焼小屋を見附けたり此幸と中に入り見れは人影もなし木は釜の中に在りて半は炭となり居たり思わす屋根裏を見れは風呂敷包と草鞋一足あり此草鞋こそは余に取りては數萬石の國主に封せられしより勝れり風呂敷包を解きたるに米と味噌あり側には鍋もありたれは早速味噌汁を作り米を投して雑炊となし待つ間遲しと打啜りぬ 思はす出る舌鼓は山海の珍味に優るを證せり 腹も出来たれは火を焚き添へて着物の濡れたるを乾かしなとし名残惜くも小屋を立出てたり尚下ること暫くにして人家ある所には出てたり
嬉しやと立寄れは人の氣配もなし皆戰に怖れて何れへか立退きてもぬけの空家なりしこそ恨めしけれ詮方なく心當てに一
方の道を求めて行く程に旗本の落人五六人會津藩士を響(ママ)導とし若松指して行くと云ふに追ひ附きたり。この嚮導は足に負傷しありて歩行遲々たりしは余等少年に取りて此上なき幸なりき 行くこと凡二三十町と覺しき頃道の側なる農家に葡萄棚あり而も累々として滴るか如し一行争てか猶豫すへき吾先にと摘み採りぬ 身の丈最も低かりし余は丈の限りを伸はしたれとも及はす 他人の喜ひ喰ふ様を見ては猿蟹の昔話なと思ひ出されて自らもをかしく、あたりを探し踏臺を見附け之に上りて思ふ存分採りつヽありしに心なしの敵に一齊射擊を浴せられ周章狼狽云はん方なく山林田畑の嫌なく一生懸命駆け出したり。
幾許もなくして其所に川あり急流矢の如し河中には岩石起伏し水之に激して泡沫飛散す殊に夜来の猛雨にて水量大に増加せり。然るに敵の追擊甚た急にして此川を渡らされは、直ちに生擒かさなくは虐殺に逢ふは必然の事如何せんと打躊躇ふ。
此時佐野喜代治氏駆け来り物をも云はすざんぶとはかり飛ひ込みたり。着物履物の不自由さは如何ともなす能はす見る見る激流に押し流されて敢なき最後を遂けにけり。余目前に此有様を見たれは此處後車の誠なりと先つ衣類を脱き捨て一枚の筒袖を帯にて頭上に括り附け太刀を褌に差込み尚下緒にて腰部に結ひ附け緩流の場所を擇み成るへく流れに逆はす流れ流れてやうやう彼岸に泳き附くを得たりやれ嬉しやと其儘一里近くもひた走りぬ 今は敵にも遠さかりたれは先つ安心と頭より筒袖を卸して身に着け帯を締めて太刀を佩したり。逃けはあふせたれ野中の杉の独立ちにて如何ともなし難く足に任せて行く程に大鳥圭介氏の配下なりける三人の士に遭遇せ
り、因て叩頭百拝し同行されんことを懇請したるに彼等は曰く。「何時如何なる危險に際會するやも計り難けれは氣の毒なから謝絶す」と。余曰く「目下に於ては外に望みとてもなし唯貴下等と生死を共にすへし願くは伴ひ行かれよ」と強請して止まさりけれは彼等遂に諾す(三人の姓名を記憶せさるは遺憾なり)目指す所は若松城なり數多の村落を送り迎へ漸くして瀧澤峠に到り遙に鶴城を雲烟の中に望めは敵は十重二十重に包圍して天主閣は僅に砲煙の間に隠見せり空飛ぶ鳥か土中行く土龍子にあらされは城に入ること叶わす已むを得す道を轉して熱塩熊倉等の諸村を経て檜原村に到れは此所には母成峠にて打漏されたる同藩士二十人許り集い居たり 思はさるの再會に打驚き互いに無事を祝しぬ 去るにても強請して道連れとなりし三人の恩今更辱けなくて厚く礼を述へ名残惜しくも袂を別ちぬ 己等は早速附近の在家より米味噌等を徴發し留ること二日間此時折能くも姉の縁附きたる下河邊一家の米澤指して難を避くるに逢ふ會津は已に戰乱の巷と化し危險云ふへからさるを以て斯くは立退く次第なりとそ。互いに其奇縁に驚き且つ喜ひ頓には言葉も出てさりけり檜原の関門は下河邊の家族なりと稱して難なく通過し檜原峠に差掛りしに米澤藩にては敵軍侵入防止の爲め大木を伐倒し或は大石を轉はして道路を閉塞しありしを以て容易に行くこと能はす枝に取付き石を匍匐し數町か間の行歩なりしも婦人連の悃憊察するに餘りあり。余等は敵にも遠さかりたれは心も緩み遊山ならねと面白半分にてさしもの難所も障りたになく通り抜けたり。某々と聞き慣れぬ幾多の村里を経来て目的地たる米澤に着し會津屋と云ふ旅籠屋に投じぬ
聞けは兄彌八郎の君側に侍ふ由目下の吾身の刀一本筒袖一枚にては晝の出歩きにも差支へたれは袴なり股引なりを貰い請けんと薄暮其旅館に到り面會を求む程なく兄は出て来れり。面會前には二本松出立より以来の事共をあれも話さん此れも聞かんと考え居たるに一目見るより俄に胸塞りて言葉も出てす涙のみ先立ちて暫しは互いに目と目を合はす計りなりき やかて旅宿に歸りしに風呂も湧き居たれは數十日来の垢面を一洗して繕に向ふ 雨に宿り風に梳り或時は草叢を褥とし或時は樹根を枕とせし日數を數ひなとすれは身も心も俄に寛き来り誠の我家に歸りし心地せられて快き事限りなし設けられたる伏戸に入れは厚蒲團の肌さわり嬉しくて心行く迄足踏み伸して華胥の國へと遊ひにけり滯留五日目に養家水野の母並に實家青木の母の會津より来りしに會ひ互いに無事を祝しぬ因りて下河邊家の人々と別れ仲町の合羽屋と云ふ素人の家に宿泊し居たるに兄上の大病に罹られしこと致方なけれ早速藩主に休養を乞ひて同宿し之を看護して旬餘に及へり。去る程に媾和も成立ち十月下旬(日は記憶せす)駕籠を用意して兄を乗せ米澤を後にして故郷へと急きぬ途中領内八丁目なる赤浦屋と云ふに一泊す かくて下川崎村字桶澤野地利介氏の隠宅を借り受け半歳の月日を送りぬ。後二本松町に居を移して青木家と別れ己は養母と下の町に新世帯を持てり、大敵ならぬ生活難と奮鬪し實戰にも勝る奇談珍話は汲めとも盡きぬ泉の如く多かれと禿筆の興もなけれは已みぬ。』
 大正六年七月
        (非賣品)
         著作者 水野好之
             二本松町字下ノ町
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