日本史探偵団文庫『元帥公爵大山嚴』
第一章 大山家の家系
 
宇多源氏

佐々木氏の祖

佐々木四郎高綱


 頴娃(地名)の読みは「えい」が一般的だが、原本に従い「えの」とする。
     第一章 大山家の家系

 大山家の祖先は、源姓佐々木氏の出である。源姓には嵯峨源氏、淸和源氏、宇多源氏、村上源氏、華山源氏、正親町源氏等種々あるが、就中大山家の祖先たる源姓佐々木氏は、人皇第五十九代宇多天皇の皇子敦實親王の子左大臣源雅信に肇まつたので、これを宇多源氏と稱するのである。
 左大臣源雅信の子は參議扶義、扶義の子は鎭守府將軍成頼で、成頼は即ち敦實親王の曾孫に當り、近江國蒲生郡佐々木荘を領し、始めて佐々木氏を稱した。成頼の子を章經、章經の子を經方、經方の子を季定、季定の子を秀義といひ、秀義は驍勇を以て聞えたるが、其の子に定綱、經高、盛綱、高綱、義淸の五人があり、中にも四男の四郎高綱は、最も傑出した人物であつて、大山家は實に其の後裔である。高綱が源頼朝の擧兵に際し、杉山に於ける難を救ひ、更に頼朝が幕府を鎌倉に開くに就いても、亦た大に功勞のあつたことは、人口に膾炙する所であるが、かの宇治川の戰に頼朝より拜領したる名馬池月に跨つて「宇多天皇九代の後胤、近江國の住人佐々木三郎秀義の四男佐々木四郎高綱、宇治川の先陣ぞや」と大音聲に呼ばはりつゝ、流れを乘り切つた武勇千載の譽れは、犬追ふ童べに至るまで知らないものはない。斯くて高綱は幾多の戰功に依り、相前後して因幡、伯耆、出雲、備前、安藝、周防、日向七ヶ國の守護職に補せられたのであつた。
 高綱が宇治川先陣に乘用の名馬池月(生食とも)は、薩摩國頴娃(えの)郡池田の牧の産であるとの説が、舊記にも口碑にも殘つてゐる。即ち「薩隅日地理纂考」の一節に、
名馬池月の産地と池田牧  池月名馬。阿多郡伊作鄕古記に壽永中、源頼朝佐々木四郎高綱に與へたる池月といふ名馬は、薩摩國頴娃郡池田の牧より出でたりと記せり。今日口碑の遺る所も然り。されば池月と名づけたるは、池田の一字を取り、月とは半月などの廻文毛ありし故にやありけん。(大日本史に池月と記して出所は見へず)此牧廢して今はなし。
 と見えてゐる。此の池田牧は、池田湖の西北一里許りなる頴娃鄕牧之内村に在つて、一に頴娃牧とも喜入(きいれ)牧とも言つた。名馬池月は、此の池田牧の内なる靑戸部落に産し、淸水滾々として湧き出づる龍ヶ岡の霊泉は、即ち池月が飲みて龍駿の質を備ふるに至つたのだと傳へられてゐる。又三國名勝圖繪(巻之二十三)にも、
 頴娃野馬牧(地頭館より子方二里許)牧之内村にあり、周廻三里十八町餘、毎年駒馬を收むる時、一頭を開聞社へ獻すると云ふ。
 とあつて、牧之内村の地が古來名馬の産地であつたことが首肯される。
 推古天皇の二十年正月元日、群臣を會して新年の御宴を催されたる時、蘇我馬子等の一門に對して、左の勅語を賜つた。
 眞蘇我よ、蘇我の子等は、馬ならば日向の駒、太刀ならば呉の眞さび、うべしかも蘇我の子等を、大君のつかはすらしき。
 此の勅語の大御心は、汝等蘇我の一門は、實に立派な盛んなものであつて、これを馬に譬へて見れば、天下に名高き日向馬の如く、これを劍に譬へて見れば、呉(ご)の國の名劍の如くである。さういふ立派な汝等の一門であるから、重く用ひて
 
佐々木行綱の薩摩下向 忠勤を抽んでしめてゐるのだと仰せられたのである。當時の日向は、今日の日向大隅薩摩三ヶ國の總稱で、大隅も薩摩も未だ分置されない時代であるが、其の薩摩の國號は駿馬即ち名馬の産地たるよりして唱へられたものではなからうかとの説さへあるに鑑みれば、推古天皇時代に、薩摩方面は既に日本に於ての名馬の産地として知られ、此の牧之内村の池田牧の如きは、早く天下に聞えてゐたのではあるまいかと想像される。
 且つ又池田湖の西畔なる小浜野間平の斷崖に、池月の馬蹄の遺形と稱せらるゝものが存在し、其の崖下には、馬頭觀世音を勧進してある。此の觀世音は、池月の母馬が湖上にて池月に水泳術を授け、其の技の熟するを見て、自ら驅を斷崖より投じ、頭を砕いて悲慘の最期を遂げたので、これが供養にとて建立せられたものだと傳へられ、今に伯樂などの賽するものが絶えないのである。又湖東の尾下といへる部落は、麥作に適した地であつて、池月が此の麥圃に慈しまれて生育したのだとも謂われてゐる。(此の池田牧方面の事は、編者が大正十二年の初春、親しく實地に就いて見聞し、最とも感興を惹いたのであつた。尚ほ池月の産地に就いての調査は指宿村園田彦五郎氏の勞を多とする。)
 高綱の子を光綱といひ、光綱に泰綱(初め泰高)行綱(五郎、參河守)の二子があつて、行綱は始めて薩摩に下向した。其の事は、薩藩近世の碩學伊地知季安先生の物された「諸家系譜遺稿」に見えてゐる。尚ほ其の他の資料としては薩摩の故事來歴に精通せる伊加倉源四郎翁の著「鹿兒島外史」に、次の如き記事がある。
 
佐々木國綱の系統

佐々木實定の系統

佐々木康國の系統
 建久二年夏、藩祖忠久公初入部の際、鎌倉より騎從せる三十三姓の大名衆の筆頭に佐々木氏あり云々。
 右の建久二年は、建久七年の魯魚の誤りであらうと思はれるが、其の佐々木氏とあるは、恐らく高綱の孫行綱の入薩を指したもので、行綱は島津忠久公の初入部に鎌倉より隨從したのであるまいか。これを年代に伴せ考ふるに丁度其の頃に相當する。
 又佐々木氏の同族中、建久七年忠久公に隨ひて入薩したりと稱せられ、頴娃鄕に住みて氏神の社を建て、多賀皇太神外四柱を祀り、鄕國近江にて比叡山を大山と云へるに因み、其の住地を大山と名けたりと傳ふる近江守佐々木國綱の系統がある。(鹿兒島市常磐町佐々木氏系圖。及び隅州曽於郡市成村佐々木氏記録。)
 更に建久の初、延暦寺僧徒の誣奏に依り、罪を獲て薩摩に配流せられたる近江守護佐々木太郎定綱の庶子實定の系統がある。(鹿兒島市佐々木稽吉氏系圖)定綱は後ち赦されて鎌倉に還り、源頼朝が大に之を喜べることは、「吾妻鏡」(巻之十三)建久四年四月の條に見えてゐる。
 此の外、壽永三年藤戸の瀬戸にて、先登第一の功名を博したる佐々木盛綱(高綱の兄)の後裔民部少輔康國の系統もある。(明治維新の功臣にして西南役に殉難せる鹿兒島縣令大山綱良家系圖。)
 是等の同族は、初め皆薩摩國頴娃郡大山村(今は揖宿郡山川村大山區)に住したものだと傳へられてゐる。
 鹿兒島高等農林學校長であつて、而かも我國體の熱心なる研究者たる農學博士玉利喜造氏が、大正七年頃高天原と吾田
 
大山祈神と大山村に關する一説 と題する講演にて、大山元帥の偉大なる勲績を景慕するの餘り、大山家の祖先に言及されたものと見え、これに對して隅州市成村の佐々木氏が「我が家の記録には藩祖忠久公に隨ひて入薩し、頴娃に住み、故國比叡山を大山と云へるに因みて大山と稱したとあるが、果して如何であらうか」との質疑を提出したるに、博士は「大山祈と大山地方に就いて」の一文を鹿兒島新聞に寄せ、「大山家の先祖を佐々木氏とすることは聞いてゐるが、折角神代より名門と崇敬せられたる大山祈の一族が蕃殖蔓衍してゐた地方であり、而かもその名の地方より出でたる大山家のことであるから、大山鄕名殊に大山神社が、佐々木氏の記録にある通り、大山祈と何の縁故もなくして出來たものとは思はれない」との意味を述べられてゐる。一應御尤な御説のやうであるが、更に編者の考ふる所では、成る程大山祈神の一族が、古代日向即ち今日の薩隅日三州に蕃衍したことは事實で、現に天孫瓊瓊杵尊が宮居を笠狹に奠められた時お迎へになつた木花開耶姫は、大山祈の御娘であらせられるから、薩摩の大山村も此の一族の住居の地であつたと見て、何等差支はないのであるが、併しながら佐々木氏の裔たる大山家は、元來薩摩の居住者でなく、他の地方より大山村に來て、始めて大山氏を稱したのであるから、大山祈神とは直接の縁故があらうとも思はれず、從つて大山家の祖先を奉祀したる大山神社が、又大山祈神とは縁故なくしては出來ない筈だとの博士の説は、尚ほ大に研究を要すべきであるが、博士の燃ゆるが如き敬神思想と其の研究に對し、聊か茲に紹介したのである。
 行綱より孝綱、綱文を經て、和泉守乘綱に至り、薩摩より
 
日州白絲荘への移居

隅州西俣への移居

薩州大山村への移居住

初代友綱

西俣より大山村への航路
轉じて日州白絲荘(今の東諸縣郡倉岡村大字有田村は古の白絲荘の中樞地で白絲城址も殘つてゐる。)に移り住した。此の白絲荘は、鳥羽法皇皇女八條暲子内親王の湯沐の邑たる國富荘の一部で、後には武家の所領に歸したのであるが、先世高綱が日向守護職であつた關係よりして、乘綱は日州に來り、此の地に住するに至つたのではあるまいか。其の後乘綱は、薩隅日三州の武門豪族と共に、文永弘安に戰功があり、島津氏第三代贈正三位久經公より隅州西俣城(肝屬郡大姶良鄕に在り)を拜領し、白絲荘より移つた。
 乘綱の子淸綱、淸綱の子時綱、時綱の子兵部少輔友綱に至つて、肝付氏の爲に西俣落城に及び、友綱は薩摩國頴娃鄕大山村を拜領して此處に移り、地名に依り佐々木氏を改めて始めて大山氏を稱した。是れ即ち大山家の初代である。先世高綱が源右府より拜領して宇治川の先陣に其の名を轟かしたる駿足池月が、此の頴娃鄕の産であると傳へらるゝと共に、大山家の初代友綱が同鄕大山村を領して移り住したのは、亦た實に奇縁といふべきである。
 友綱が西俣より大山村に轉住し來れる航路に就いては、幸にも「續群書類從」(巻百三十二所載)佐々木氏系圖大山の部に、次の如く記載されてゐる。
 應永三十年西俣城沒落。八月三日自坂本發舟。同四日頴娃郡兒箇水湯之尻着到。大山居住。于時應永三十三年乙巳年三月。始號大山。
 斯く詳かに路筋までも記されたるは、實に得難き資料として、大に尊重するのであるが、「薩藩舊記」に據れば、西俣落城は建武年間の事となつてゐて、應永三十年は凡そ九十年
 
船出の坂本

兒箇水湯之尻の着船地
の後に屬する。此の「薩藩舊記」を裏書するものに「薩隅日地理纂考」がある。即ち同書(二十三之巻)大姶良城の部に、 肝屬高山の城主肝屬八郎兼重大姶良)を併せ、建武年間中、其弟五郎九郎を城主とす。
と見えてゐる。これに依つても肝付氏が建武年間に大姶良鄕を併領したことは明瞭であつて、從つて同鄕内の西俣落城も、亦た此の時に在つたことは首肯される。然れば則ち「續群書類從」の應永三十年説は、恐らく誤傳なるべく、從つて「薩藩舊記」の建武年間を正しとすべきであらう。
 友綱が船出したる坂本(今は坂元に作る)は、西俣西方一里半許で、大姶良浜田の内に屬し、高須の南方なる船着場であつて、今日でも鹿兒島行和船などの出る所、此の地點こそは、西俣より海路を薩摩の頴娃鄕に取るに最も近くて且便利な處である。
 また兒箇水湯之尻は浜兒箇水(當時頴娃鄕今は山川村)沙蒸湯の南方六町許なる谷間に湧き出づる谷之湯温泉が、溝川状となつて流るゝこと凡十町許にして海に注ぐ所で、即ち湯之尻の名稱ある所以であるが、此處も亦た船着場で、大山村まで僅に約半里の距離に過ぎないから、友綱が西俣を出でて、坂本より此の湯之尻への航路を取つて、此處に上陸したことは當然の行程であつた。
 大山村は薩摩の南端に位し、東一里許に山川港があり、西九里許に坊之津港がある。坊之津港は筑前博多、伊勢安濃津と共に我國の三津と唱へられ、殊に三津中の隨一といはれて、隋唐以來の要港であり、宋元明時代に至つては益々盛に交通し、夙に支那文明輸入の門戸であつた。山川港は之れに亞ぐ
 
 
友綱の民治と其の餘沢

大山神社の建設
要港で、往時は内外の商船頻繁に輻湊し、特に帝國南進政策の發展上重大使命を齎らしたる慶長征琉役の策源地でもあつたから、爾來琉球との交通は、此の港を經て行はれたのであつた。
 斯かる要港を東西に控えたる大山村は、既に地の利を占めてゐるのであるが、更に天の時を得て友綱の支配に屬し、其の支配に依つて又人の和を來したことは特筆に値する。即ち友綱は深く心を民治に注ぐと共に、殖林、開墾、勧農の事に熱心で、力を邑民の生活安定に盡したのであつた。されば其の後孫廣綱の如きは、又大に勸農灌漑に功績を擧げ、且つ同族中には、山見廻り役たる林務官を世職とした家もあり、或は又甘薯の傳播者として知らるゝ兒箇水の利右衞門翁などを出してゐる。甘薯を以て五穀に亞ぐ所の重要食料品たらしめたのは、實に翁の功績であるから、里人は其の德を頌して其の霊を祀り、德光神社と崇め稱へてゐる。此の兒箇水の地は素と大山村の領内であつて、其の領内より斯かる功勞者を出したといふ事は、畢竟するに友綱が夙に心を利用厚生の道に傾け、身を開拓勧農の事に委ねたる遺風餘澤の然らしむる所と言ふべきであらう。されば大山村では、此の村の開拓者たる友綱を中心として、其の祖先たる佐々木家竝に大山家歴代の英霊を始め、君國の爲に三世相續いで難に殉じたる元綱、綱次、解綱の忠魂を祭祀して大山神社を建設し、鄕黨輯睦して益々崇敬の深きものあるは、決して偶然ではない。(現に大正七年、大山神社々司某氏の筆者への實話に據れば、隅州西俣に住する大山胤吉氏の家にては、其の代替り毎に相續者は、必ず先づ一たびば大山村なる大山神社に參拜するを例と
 
大山家の菩提寺正護寺

正護寺及び竹之山に於ける島津斉彬公の遺跡
するといふ事であるが、之を以ても如何に同族が其の祖先に對して尊崇の念に篤きかを知ることが出來る。)
 大山神社に隣りして、同神社の別當寺であり、又大山家及び大山村全士民の菩提所たる正護寺が、明治初年の廢佛毀釋當時まで存在してゐたのであつた。此の正護寺は南薩隨一の名刹たる山川村海雲山正龍寺(薩藩第十二代の太守忠昌公に聘せられて薩摩の文敎を興し、更に其の學流を天下に普及して大に貢獻し、遂に八十二歳を以て鹿兒島城北伊敷村梅ヶ淵なる東歸庵に遷化したる宋學の鼻祖桂庵禪師の遺著にして、藤原惺窩が剽窃したりと稱せらるゝ「家法和點」竝に桂庵禪師と其の弟たる文之和尚の修補に係る「四書朱註訓點」を藏したるを以て有名である。)の末寺であるが、惜哉今は纔に一個の石像と石塔一基を殘すに過ぎないのは、頗る遺憾とする所である。
 此の正護寺に就いて最も記念とすべきは、薩摩藩第二十八代照國公斉彬朝臣が、山川方面御巡見の折、同寺に小憩せられたことである。時は弘化三年十月、公は藩内西南海岸の防備を充實せしむる目的を以て、家老島津將曹、側役種子島六郎、軍師園田與藤次、御流儀砲術師範成田正右衞門、及び荻野流砲術師範靑山善助等を隨へ、同月十九日には薩摩の南端、頴娃鄕大山村岡兒箇水なる赤水ヶ鼻、及び望哨のある長崎觜等一帶の要地を巡覽し、同所の龍山寺に御休憩になつた。此の赤水ヶ鼻の沖合には、天保八年七月十日、米國船「モリソン」號が始めて來泊し、泰西砲術傳來の動機となつた深い縁故もあつて、其の當時大山村の地域には、多少の軍事行動が行はれ、此の邊一帶は海防上の要地であるから、今や公が特
 
に巡覽せられた譯である。翌二十日は、山川港の西南一里弱なる竹之山の麓に於て、砲術操練を行はしめられた。これぞ薩藩海防施設の一新紀元を開いたもので、延いて帝國々防上に寄與する所鮮なからぬものがあつた。公が大山家及び大山村民の菩提所なる正護寺に休憩せられたのは實に是日であるから、其の休憩には最も深い意義を存してゐる。又此の砲術操練に就いて面白い話が殘つてゐる。即ち其の操練を行はれた竹之山は、鳶之口山と相竝んで海邊に屹立し、高さ二町許、絶頂は廣さ纔に方六歩許の極めて峻絶なる形状を成し、其の絶頂に二つの小さい石祠があつて、昔から天狗の棲家と稱せられ、種々の霊怪があるので里人は恐怖して、此の海岸には船を繋がず、勿論山中には草刈りに行く者も無かつた。然るに公が斯かる地に於て實彈射撃を行はしめたのは、一は迷信打破の意味も含まれてゐたことゝ思はれるが、時恰も指宿二月田の御假屋が偶々火を失し、御滞留中の公は同地の豪商浜崎太平次の宅へ避難されたので、時人は公が天狗山を射撃せられた祟りだと言ひ囃したと傳へられてゐる。
 友綱の子雅樂介元綱に至り、南北朝の分立と爲り、天下嚮背一ならず、殊に薩隅日三州の地は、群雄崛起して、紛亂の極に達し、島津氏に對して叛服去就常なきこと、到底名分條理を以て律することの出來ない有様であつた。即ち正平年間(北朝延文年間)には、日向の伊東氏と球磨の相良氏と結托し、都之城領主北鄕氏(後に島津氏と改む)の管下たる日州野々美谷城を押領して、島津氏に寇を爲すこと多年に及んだので、第七代の太守元久公は、伊東相良の横暴を傍觀するに忍びず、南北兩朝合一の翌年なる應永元年七月五日、親ら軍
 
元綱の日州野々美戰死

綱次の松尾城戰死

解綱の岩劍城戰死

岩劍城の戰況
を帥ゐて日州に入り、一擧にして野々美谷城を攻め落し、これを樺山久音に與へられた。此の日の戰に於て、元綱は公の旗下に在つて奮鬪激戰し、遂に名譽の戰死を遂げた。
 野々美谷城は、諸縣郡(今は北諸縣郡)野々美谷村字府下(府下一に麓に作る)の北隅に在つて、都之城の東南二里に位し、後の庄内十二城の一として、都之城と共に薩藩東境唯一の要害で、此の城の領有如何は、直に島津氏の勢力消長に關する所極めて大なるものがあるから、元久公の攻撃が如何に激烈であり、又元綱等が如何に奮戰したかは、想ひ半ばに過ぐるものがある。
 元綱の子、掃部介綱次も、父に劣らぬ忠勇節義の士であつた。頃は永正十四年春二月、薩州鹿兒島郡松尾城(吉田鄕にあり一に吉田城といふ)の城主吉田若狹守位淸が叛したので、第十三代太守島津忠隆公は、同月十三日自ら之を攻め、翌十四日、位淸力盡きて降り、其の城を開いたのであるが、十三日の戰に於て綱次は名譽の戰死を遂げた。
 綱次の子織部解綱も亦驍勇無雙の士で、天文二十三年九月晦日、隅州岩劍城の戰に、第十五代太守島津貴久公の旗下に在つて奮戰激鬪し、星原の戰場に於て名譽の戰死を遂げた。
 此の岩劍城の戰に就いて、少しく當時の戰況を述ぶることは、解綱の英霊を弔ふ意味に於ても、亦た必要であらうと思ふ。時は天文二十三年の夏、隅州帖佐城主澁谷河内守良重、同國蒲生十郎三郎等が復た島津氏に叛き、薩州入來院石見守重聰、隅州菱刈城主菱刈大膳隆秋、日州眞幸院領主北原平八郎兼守等が之れに應じた。是時に當つて多年大隅に根據を有し、島津氏に敵對行動を取つてきた肝付氏の一族加治木城主
 
肝付以安が始めて島津貴久公に誓書を上り、其の貳心なきを明かにしたので、從來肝付の與黨であつた澁谷良重、蒲生爲淸は、帖佐及び蒲生の兵を發して、肝付以安を加治木城に攻め、菱刈隆秋、北原兼守も、亦た來つて加治木城の攻撃に參加し、賊勢大に振つた。是に於て以安の子肝付三郎五郎兼盛は、隅州淸水城主島津左馬頭忠將、同國姫木城主伊集院忠朗、同國長浜城主樺山久幸の應援を得て、八月二十九日加治木の網掛川に出でて戰ひ、彼我兩軍の死傷頗る多く、爾來相對峙したるも、城中の苦みは非常であつた。貴久公は加治木城の急なるを聞き、之れを救はんが爲に軍議を開いて言はるゝには、吾れ先づ帖佐及び蒲生の虚を衝かば、澁谷良重、蒲生爲淸等は、必ず加治木城の圍みを解いて、各其の城に引上げるであらう。此の機に乘じて以安が突出したならば、北原兼守も菱刈隆秋も戰はずして走るに相違あるまいと。軍議茲に一決し、公は直に薩州郡山の軍に命じて蒲生を襲はしめ、公自らは長男義久公と共に隅州重富鄕平松に馬を進め、舍弟左兵衞尉尚久公は平松の狩集に、次男又四郎忠平公(後の義弘公)は同鄕脇元村の白銀方面にそれぞれ陣を取つた。此の時織部解綱は、貴久公旗下として出陣したのである。
 諸公の軍勢既に布置せらるゝや、尚久公は先づ輕卒を發して、岩劍城の東方なる脇元村に火を放ちて敵を牽制したるに、帖佐の澁谷軍は八牟禮より白銀坂に登つて、岩劍城を援けたので、貴久公は薩州谷山の軍をして之れを撃退せしめた。岩劍城は澁谷良重の與黨の守る所、重富鄕平松村に在つて、東西北の三面は斷崖絶壁、南一面は岡丘に連り、攻むるに難き天險の要害であるから、此の城の陷落如何は、賊軍の大勢を
 
銃戰の嚆矢

家門の榮譽
決する次第で、貴久公は專ら力を此の方面に注がれたのである。時恰も加治木城の後援たりし島津左馬頭忠將が大軍を率ゐて別府川の左岸に來れるを、賊軍は之れを岩野原に邀へ戰ひて敗れたるが、折しも郡山の軍は新留の賊を破つて星原を燒き、尚久公も亦た狩集附近の各所を燒き彿つて大に賊勢を挫くと共に、忠將は別府川を渡つて貴久公に會し、伏兵を脇元に置き、輕卒を發して火を岩劍城邊に放たしめたので、城兵出でて追ひ來るを、伏兵四方に起つて之れを撃退した。此の機に乘じて貴久、義久、父子兩公が軍を進められ、茲に星原に於る激戰となり、兩公は大に賊軍を粉砕せられた。時に同年九月晦日であつたが、是日解綱は貴久公の旗下に在つて勇戰奮鬪し、遂に陣歿したのである。斯くて間もなく岩劍城陷り、加治木城の圍みも解けて、貴久公が進軍當初の目的通りに賊を撃退せられたのであつた。
 此の岩劍城の戰に於て、特に注意を要することは、始めて鐵砲を使用したことである。天文十二年八月、隅州種子島に鐵砲が傳來してから茲に十一年、此の間種々苦心研究の結果、此の戰に敵味方とも熾んに銃戰を行つたことは、實に我が國に於て鐵砲を實戰に用ひた嚆矢であつて、帝國兵制史上に特筆大書すべき事柄である。後年文禄征韓の役にも、慶長五年關ヶ原の役にも、薩軍が鐵砲を利用して奇捷を博したことは、史上に有名な事實である。
 以上の如く元綱、綱次、解綱の三世相繼いで、名譽の戰死を遂げたことは、眞に武門の光榮であり、其の忠勇節義は後毘の模範であつて、島津家の中興たる貴久、義久、義弘三公の偉業に與つて力あつたとも言ひ得られる。さればこそ安政
 
解綱以後元帥に至る迄の家系 五年二月二十八日、第二十八代の太守島津斉彬公より、藩祖忠久公以來の嫡流たる大山六右衞門(遺族大山武彦氏は鹿兒島市に現住す)は特に追賞の恩典に浴したるが、其の達文は次の通りである。
右者先祖代抽忠勤殉死戰死致候家筋之者候處數代押移當時致難澁居候段聞召上候依之別段之御取譯被爲在給地御藏入高之内より右通上納申受被仰付候左候而代金之儀者來る戌年迄五ヶ年賦上納被仰付候條彌忠勤相励御軍役手當等行屆候儀尚又厚心掛可致精勤旨可申渡候
 二月          下總(○日置領主島津左衞門)
 斯くの如く祖先の勲功忠烈に對し、其の子孫を優遇せらるゝは、古來島津氏の傳統的德風であるから、元綱、綱次、解綱三士の英霊、定めて地下に瞑することであらう。
 解綱戰死の當時、實弟某が解綱の後を承けて別に家を樹てたことは、家傳に明かであつて、是れぞ本家大山家の後繼者である。文禄征韓役に武勇の名を著した大山稲介、同三次郎兄弟の家も亦この頃に分家したものゝやうである。稲介は後ち新藤と改め、實名を幸綱と言つた。征韓役中、島津義弘公の長子又一郎久保公が虎狩を行つた際、虎は嵎を負ひて久保公に向はんとし、公は銃を執つて之を撃たんとするや、稲介は公の前に立ち、銃を臣の肩に架して發し給へと言つて、沈勇剛胆の譽れを得たことは「島津國史」文禄二年九月の條に見えてゐる。
 解綱の實弟某には嗣子がなく、本府の人宗圓入つて家を繼ぎ、寛永六年己巳十一月四日、五十七歳を以て歿し、麑城松原山西卯塔に葬られた、法號は鑑質宗圓居士。宗圓の子彦兵
 
衞輕使と爲つて明國に渡るに臨み、實弟九郎兵衞を繼嗣と定め、且つ碑を不斷光院に建てゝ首途したのであるが、果して歸還せなかつたので、法諱を性屋淨心上座と追贈された。(輕使の事は、薩藩の官職考に一寸見當らぬので今尚ほ研究中である。)九郎兵衞は實兄彦兵衞の遺言によつて、家督を相續し、明暦二年丙申十一月十五日世を辞し、先塋の域に葬られた。法號は文室順方居士。九郎兵衞の子綱通は、郡奉行所及び琉球館等に職を奉じ、延寳七年己未九月二十日五十七歳を以て歿した、法號は橛山英鐵居士、墓所は父と同所に在る。綱通の子綱廣、初め横目役を勤め、後ち第二十代の太守綱貴公の定御供及び寺社方取次を經て郡奉行に進み、一代新番に入り、享保十二年丁未六月二十五日六十六歳を以て歿した。法號は鐵相儀堅居士、先塋松原山に葬られた。綱廣の子綱榮は初め表小姓を勤め、尋で御側小姓に轉じ、爾來第二十二代の太守繼豐公に近侍して江戸に往復すること數囘中通御目附となつて一代新番に入り、更に一代小番(こばん)に進み、御小納戸、喜界島代官等に歴任し、天明八年戊申二月二十三日七十四歳を以て天壽を完うした、法號は觀機軒即庵堅心居士。綱榮の子は綱道、寛延元年戊辰六月朔日始めて第二十三代の太守宗信公に謁し、前太守繼豐公の御側小姓となり、御徒目附を經て、第二十五代の太守重豪公の御小納戸頭取に轉じ、一代小番直觸に入り、尋で代々小番に進んだ。後ち隅州肝付郡百引地頭職を拜し、薩州日置郡串木野地頭職に轉じ、晩年には多年勤勞の功を以て恩賞を賜はり、文政三年庚辰九月十八日、二男一女を遺して世を辞し、長男綱方は父の後を繼ぎ、次男綱毅は別に家を樹て、一女於幾代は木村氏に嫁した。此
 
の綱毅は即ち大山元帥の祖父にして、天保五年甲午八月、御廣敷御用人を以て江戸藩邸に病歿し、墓碑は芝大圓寺にあつたが、今は鹿兒島市郡元の墓地に移されてゐる。綱毅に一女があつて競子と云ひ、南朝の忠臣菊池第二世經隆の實兄西鄕太郎政隆の後なる府士西鄕龍右衞門の二男綱昌を養嗣として之れに配した。綱昌は仕途の念を絶ち、專心一意砲術の研究に沒頭し、眞に隱れたる砲術家であつたが、安政三年乙卯十月歿し、南林寺の先塋に葬られ、後ち郡元の墓地に移された。綱昌公の臨終に家人に告げて曰ふには「余が命日には何等の供物を要しない、唯墓前に煙硝を焚いて呉るれば可い」と、家人は其の意を體してか、墓碑には鐵砲の圖が刻されてある。天文二十三年秋、我が國で始めて鐵砲を實戰に使用した岩劍城攻めに名譽の戰死を遂げたる解綱の後裔綱昌が、斯かる砲術の熱心家であり、其の子巖元帥亦た克く箕裘を繼ぎ、斯道を以て身を起したことは、決して偶然ではない。
 元帥には兄成美(父綱昌と同じく通稱を彦八といふ。この彦八の成美を世人は動もすれば大山格之助綱良と混同し、從つて元帥を格之助の弟なりとする者あるは誤れり。)姉國子、弟誠之助がある。成美は萬延元年三月江戸櫻田門外の變あるに當つて、京都伏見の薩藩邸詰であつたが、幕府の嫌疑を受けて、同月二十九日京都六角の獄舍に繋がれた。一年餘にして赦され、再び伏見の薩邸詰と爲り、薩藩を代表して諸藩の志士と應酬し、慶應二年正月二十三日土州の士坂本龍馬が、伏見寺田屋に於て佐幕黨の襲撃を受けて負傷した時、成美は龍馬を藩邸に迎へて庇護したことは、有名な話である。明治戊辰正月鳥羽伏見の戰には力を後方勤務に盡して功あり、明
 
大山氏系図 治三、四年の交に、京都府大參事を拜命し、尋で埼玉縣大參事に轉じ、六年征韓論の破裂と共に官を辞して鹿兒島に歸り、九年二月疾を獲て家に歿した、享年四十有二。国子は同藩士有馬糺右衞門に嫁した。誠之助は明治戊辰の役、鹿児島城下十番隊に属して北越に出征し、凱旋の後、明治二年東京に遊学し、四年鹿児島に帰り、更に又上京して近衞隊に入り、尋で敎導団に轉じ、陸軍少尉に任ぜられた。六年征韓論の破裂と共に辞官帰国し、十年の役西鄕軍に属して各地に轉戦したるが、大正四年七月十六日を以て歿した、享年六十六。
 
 
 
 
 
 
 
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